基本的に壁打ち

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在宅勤務が絶望的に向いていない

タイトルの通りである。在宅勤務が絶望的に向いていない。ストレスが爆発したせいでわざわざ早起きしてこれを書いた。午後の中途半端な時間にweb会議が入ってしまったおかげで昼休みが今に前倒しになっており、最悪だ。

もちろん新型コロナウイルスが猛威を振るっている現状にまつわる様々なことは当然わかっているが、そういう社会と関係するなにかを言いたいのではなく、単純に私個人の主観と性質として、在宅勤務が絶望的に向いていないのだ。現在社会がこういう風になってしまったこと、そのなかで思ったことや感じたことの質感はおそらくずっと覚えているが、自分のことは喉元過ぎれば全てを忘れるので数年後出勤か在宅か選べるようになったときに「いっぱい寝られるから在宅でもいいか~」などと寝ぼけたことを思う可能性がゼロではない。そういう事態を回避するためにも、在宅勤務が絶望的に向いていないことを書き残しておこうという、そういうただの日記である。

 

弊社はセキュリティをガチガチにした結果使い勝手が本当に終わっているうえ、自宅勤務用の会社PCは希望者しか持っていない。私は入社1年目の夏休みにどうしても仕事をしなければいけなくて半強制的に会社PCを貸与されてしまったが、そうでなければ今頃自分のパソコンに無数のアプリを突っ込んだりメールやらgoogle driveやらでファイルを迂回しつつ仕事をしなければいけなくなっていたので不幸中の幸いだった。

2月半ばあたりに今後在宅にしなければならない台数を増やすかみたいな話が内部で出て、これでついに全員に支給かあなんて同僚と話していたのだが、なぜか10台しか増えなかった。現在は基本在宅ということになっているがそんなわけで全員の作業状態が違うし、メールを見る専用アプリでは新着メールが全部表示されているとは限らないという信頼できない状況だし、ただでさえ台数が超少数のくせにアクセスが集中して回線が重くなったという理由でログインができないことが無限にある。そうして果てしなく面倒な手順を繋がるまで無限に繰り返してようやくログインしても急に接続が切れることもしばしば。苛立ちがどこまでも蓄積されていく仕様だ。

私は昨年のブラジル出張の時に間違った手順書を持たされ、対応をお願いしても4日無視され結局自力で接続問題を解決したり、手順書間違ってましたよと一応報告したのに4か月後別の人が渡された手順書も間違っていたり、他にも数々のトラブル時の対応の悪さ(トラブルは起こるものなので仕方がないが、失礼な物言いや対応時の態度の悪さはその人のせいなので本当に悪)を根に持っており、今回の自宅用PCの接続トラブル時の対応を聞いた際にも例のごとく最悪な態度の対応をされた。しかも接続トラブルは繋がるまでやるしかありませんと丸投げされたんですが何も解決してないが? 自宅用PCなら同時間帯にアクセスが集中することなんてわかりきっているのになんでそんなチケット戦争みたいなことを毎日やる羽目に……? いや回線パンクはいろいろな会社で起きているようなので仕方ない、それはわかる、わかるがそのうえで物には言いようがあるんだよな。偉そうに開き直られれば私にも感情があるので当然腹を立てるよ。

そして自宅用PCはマイクもカメラもなく、いろいろなweb会議ツールのアプリは入っているくせに制限されているらしく全部使えなかった。しかしweb会議は待ってくれないので結局自分のこのおばあちゃんスマホでまかなう羽目になっている。アプリが入らなくて何個のファイルとアプリを消したことか。なんでそんなことまでやらないといけないんだ……このスマホは仕事をするためにあるんじゃない……。

 

「自宅で仕事をすること」がここまでストレスがたまると思わなかった。いつもの通勤時間は片道1時間強で、中学以降そういう生活に慣れ切っているので物理的・時間的に家と仕事が切り離されていないと落ち着かない。のに、今は……という……。家は仕事をする場所じゃねえ~~~~!!!!!!! 私の生活を侵食するな~~~~~!!!!!!!!!!

在宅勤務、家にいるのに!!! という気持ちが常にあるので強いられている感が半端ないし、実家暮らしのため通話のときなど家族に普通に迷惑をかけていて申し訳ない。本来仕事をする場ではない家にいるのに仕事をしないといけないし、外に出るわけでもないのにコンタクトを入れてメイクをしないといけないし、映っても大丈夫な壁を探さないといけないし、仕事以外のストレスが大きすぎる。普通に精神が厳しい。あと腰と背中が痛い。

web会議を私用のスマホでやっているのも最悪だし、そのためにわざわざ着替えてメイクをして髪を直すのもなんでや……という気持ちにしかならないが、メイクは武装なので仕事をするなら武装しなければならない。家にいるのに!! 外に出るときはもうルーティーンのひとつだから何とも思わないが(むしろメイクするのは好きだ)、家にいるのに武装のためだけにするメイクと着替え、本当にただただ面倒なんだよな……。生み出されるものが「無」なんだよな。家にいるのに……家は仕事をする場ではないのに……。

今は本当に状況が状況なので仕方がないが、もし出勤か在宅か選べるようになったとしても、絶対に出勤を選ぼう在宅は絶望的に向いていないという気持ちが日々強くなっていく。私はゆっくりのんびりごはんを食べたり寝たりテレビを見たりゲームをしたりする家が好きなのであって、仕事をする場としての家が好きなのではない。断じて。

もちろん、様々な個人の事情で在宅勤務の方が向いているという方はたくさんいると思うし、そういう方々が柔軟に自分に合った働き方を自由に選べるようになればいいなとも思っている。柔軟で自由な働き方のうえで、私は勤務はオフィスでしたい。

 

本当に、こんなことが起こるなんて思わなかったな。早くみんながゆっくりのんびり休めて、不要不急の外出ができるようになりますように。私ははやく仕事でインストールしたアプリをアンインストールしたいです。

 

退勤後追記なのですが、本日接続確認のためだけの10分予定のweb会議が60分に拡大されたので在宅勤務を厭う気持ちがまた強くなってしまったな。在宅勤務、心の底から絶対にやめたい。この気持ちを忘れず、終息までなんとか乗り切ろうな……。

セルフメンテナンス

最近、ハイキュー!!に人生を支えられている。

というのも、職場で色々あり、というか無責任に他人がかなぐり放り投げた相当ヘビーな仕事がなぜか締切4日前に進捗ほぼゼロの状態で私のもとへ不時着し、締切4日前だったので死に物狂いで仕事を終わらせ目処をつけて大幅ビハインドだったスケジュールを本来あるべき軌道に戻し、ようやく落ち着いてよかった~と外出から戻った当日の!まさに!午後から!!山場を越えた途端に!!!!発端の人が何食わぬ顔で職場に復帰してきてそれからは当人からも上司からも何のフォローもなく、いつの間にか最初からそうだったのように全部私がやることになったままで、そして今に至る。無責任で鈍感で無神経な人は気兼ねなく責任を放棄して他人に迷惑をかけてのうのうと日々を送れていいですね、と内心は悪態のオンパレードだが、不機嫌を無遠慮に表し周囲の雰囲気を損ねて他人をコントロールしようとする、そういう行いを自分がするということが絶対に嫌なので深呼吸とともに感情を飲み込んで「いつもにこにこ明るく何事にも前向き」という自分の外殻を保っている。いやわたしえらくないですか? めちゃめちゃえらいよわたし……よくがんばってる……えらい……(セルフ)日中で疲れきってしまうから帰りになると感情が処理しきれるキャパを越えてしまうんだよな。それでこんなものを書くはめになる。

社会人として尊敬していて女性としても憧れの管理職の人に先日お昼にカウンセリングしてもらったところ、多分そうやって色々思うところがあるって彼らは誰も気づいてないと思う、私も前にそういうことがあったから……と遠い目をしながら言われ、二人でもう笑うしかなかった。そんなことある? 管理職なんだからちゃんと管理をしてくれ……

基本的に、私より大変な思いをしている人はたくさんいる、足ることに目を向けないのは傲慢、私の状況がどうであれ他人には関係ない、ということを自戒を込めて自分に言い聞かせている。が、そうはいっても、私の状況でそんなことをぐだぐだ言ってはバチがあたるということは頭ではわかっていても、人間である以上感情は生じてしまうし私の感情の皺寄せは私にやってきてしまうので、自分の感情は自分でなんとか処理するしかない。

 

時を同じくして、2020年春。現在ハイキュー4期が放送中である。そうだったそうだった~と見ていたら続きが読みたくなって、漫画を出してきて、読み返したらあとはもうどんどん読み進め、そうすると各話タイトルに2がついてるものってじゃあ初出回ってどこだっけ? となって再度最初の方の漫画を引っ張り出し、そうしたらだんだんアニメも見返したくなってきて、もしかしてjcomオンデマンドにあったりしないかなって全話配信あるじゃん!? 本当に!? あとはもうひたすらに反復横飛びのごとく、アニメのここを見ていると漫画のあそこが読みたくなる、するとあそこが見たくなって、今度はあの試合が読みたくなって……ということをひたすら繰り返す土日と平日夜。なんて幸せ!!!! 土日は14時に起きて4時に寝てもいい、なんたって今日は休みなんだから~~!! という気持ちを満喫できるし、平日は平日でささくれ荒くれた心に何かにまっすぐに真摯に打ち込むことの尊さがしみわたり、自分のひねた思考回路を省みて謙虚な気持ちを思い出すことができる。高校生の彼らががんばっているのだから私もがんばろう、と日中の疲れを消化して明るい気持ちで翌日に気持ちを向けることができる。翌日の服を選びながらスケジュールを思い出して嫌な気持ちがふっと首をもたげても、タスクフォーカス、チャンスは準備された心に降り立つ、と自分に言い聞かせればこれも貴重な経験、悪いほうにだけ考えていたらもったいない、と素直に思える。起きていつもより丁寧にメイクをすればまあ会社に行くのもやぶさかではないみたいな気持ちになれるし、電車を待ちながらその日の天気と気分にあったアルバムを選んで聞いていたら、不意にこれはもしかしてあれのイメソン! と急にシナプスが繋がることもある。そうなったらもう様々なことに思考のキャパを割いている場合ではない。

 

わたし、好きなものがたくさんあってよかったなあ。漫画も好きだしアニメも好きだし小説もドラマも映画も舞台も好きだし、音楽聞くのもイメソン考えるのも好きだし、おいしいもの食べるのも好きだし、メイクするのもおしゃれするのも好きだ。好きなものがたくさんあると好きなもののことを考えるのに忙しいので、職場を出てまで様々な人と様々なことに思考を割く暇はない。自然と感情が循環する。停滞して澱んでいる暇はない。

ストレスに振り回されていると余裕がなくなって忘れてしまうけど、家族や友人や仲のいい先輩や前述の上司さんはちゃんと見てくれていて頑張りを認めてくれる。それなのに、そういうことに目を向けないのはばちがあたるなあと思う、そういう心の余裕を思い出すことができる。

ハイキューの子たちは、みんな少しずつ自分とリンクする部分があって、物語として作品としても胸が熱くなるし、ふとわが身を省みてああ本当にそうだなあとじんわりと考えることもある。もともとずっと好きな作品だったけれど、今のわたしにこそガッチリとハマったと、そう思う。努力は必ず報われるわけじゃない、そうとは限らない、でも自分がやってきたことは必ず自分をかたちづくる一部になる。そのなかで、自分のしてきたことが実を結ぶ瞬間がある、かも、しれない。

大学の期間は楽しかったけれど、試験はあまりにも壊滅的で一刻も早く大学を終わりたいこの牢獄から抜け出したいという気持ちで死に物狂いで卒業をもぎ取って社会人になったわけで、結局のところ、私は選んで今の場にいるのだ。降りかかる禍福を自分ですべて選ぶことはできないけれど、それでも目の前の様々なことにどう対応するのか、どういう姿勢で向き合うのかくらいは自分で決められる。自分の人生のかたちは、在り方は、自分で決めることができる。

何がそのときの自分にがっちりとはまるかは巡り合わせなのでその時々による。今、私は北くんに出会えて本当によかった。北くん本当にありがとう、北くんを好きだということに恥じない生活をしようと思うことで、張りぼてだとしてもせめてまっすぐに姿勢を保ちながらここ数週間の修羅場を乗りきることができました。

 

仕事という狭い枠にとどまらず、いま社会全体で様々なことが起こっており、気持ちの休まらない日々が続くけれど、地に足をつけて毎日の生活を送っていきたいな。本当に私の仕事の話なんて吹けば飛ぶような状況になってしまって……早くみんなで日常のニュートラルに戻りたいよ……。

お風呂や電車でぐるぐると思考がめぐって鬱々とした気分になるのにもいい加減飽きたので、言葉にしてアウトプットしたらロケットみたいに切り離して身軽になれないかなあと書き始めたのだけど、思惑通りとりあえず仕事のもやもやはすっきりしたのでよかった。読み返さずに一気にガッと書いたので、いま読み返すと冒頭とかかなり限界になっていてちょっとおかしくなってしまう。

みんながんばって日々を送っていこうな。それではわたしは、明日に備えて和久南戦を見ます。

彼の話

Fate/Grand Order Cosmos in the Lostbelt No.5 神代巨神海洋アトランティスの話をします。絶海突破前の方はご注意ください。

 

 

昨日、アトランティスをクリアした。すごくおもしろくて、たくさん笑って、たくさん泣いた。終えるのがもったいないから読み終わりたくないのに早く先を読みたくて、すごくわくわくして、みんな本当にかっこよかった。加えて私は離別のオタクを自覚していつの間にか7年目になっており、永遠と一瞬、様々な愛、出会いと別れ、祈りとエール、そういうものが本当に大好きなのでそういう点でもめちゃくちゃに刺さり、本当に本当におもしろかった。この先どうなるのかなあとか、早く読みたいなあ!とか、イメソンとか(Aqua Timezの「GRAVITY 0」がめちゃめちゃにアトランティスなのでよろしくお願いします)を考えたりしている、というか、していたんですよ。今朝はまだ。

 

一晩明けて、ようやく少し落ち着いて、いつの間にか私は、彼のことばかりを考えている。

マンドリカルドくんは登場シーンからすでにかわいくて、ちょっとお茶目で、親しみやすさがあって、私はすぐにマンドリカルドくんのことが大好きになった。

マンドリカルドくんはマスターのことを友達だって言ってくれた。ただ一緒にいてくれたり、話を聞いてくれたり、励ましてくれたり、強く背中を押してくれた。マンドリカルドくんと一緒に進むアトランティスの旅路は本当に楽しかった。

でも、彼は友達だけど、それ以前に彼は確かに英雄だった。英霊だけど友達だった、それと同じだけ、彼は友達だけど英雄だったのだ。

自分がこんなふうになるなんて思っていなかった。私はマンドリカルドくんのことが大好きで、そんなことは当然わかっていて、それなのに、彼がいってしまってからようやく、本当に彼のことがすきだったのだと、どうしようもないほどに自覚してしまった。

彼の笑顔を思い出してしまう。

友達と言ってくれて嬉しかった、一緒に旅ができて楽しかった、支えてくれて守ってくれて心強かった、でも、友達でも、その前に彼はやっぱり英雄だった。本当は、英雄じゃなくてもいいから、最高の騎士にならなくてもいいから、最後まで一緒にいてほしかった。一緒にオリュンポスでも旅をしたかったよ。またみんなでわいわいしながら、あぶねーって言いながら一緒に戦いたかった。

でも、でもね、そんなマンドリカルドくんだから好きになったんだよ。

 

これまでいろんな出会いと別れがあった。離別は物語の根底に流れるテーマのひとつだということもわかっていたし、そうやって英雄たちの無数のエールに背中を押されて、それでも私たち生者はまえへ向かって生きていくのだと、そういうことをメインシナリオを進めるたびにいつも思っている。

私たちは生きていく。でも、あなたはもうどこにもいない。マンドリカルドくんにこの先また出会うことはあるかもしれないけれど、私が好きになったあなたはもういなくなってしまった。

シャルロット・コルデーの、血を吐くような、身を切るような、溺れるような初恋の吐露に、私はたくさん泣いてしまった。私は自分がこんなふうになるなんて思っていなかった。だってこんなの、こんな、失恋以外の何物でもないじゃないか。

 

彼の笑顔を思い出してしまう。でも、彼の背中を思い出さなくていいことに、私は少しほっとしている。

今でもマシュの背中を忘れられないけれど、マシュはいまを生きる人間だ。英霊じゃない。マシュは私たちと一緒に生きていく。

マンドリカルドくんは本当にかっこよくて、かわいくて、親しみやすくて、きっと誰でもすぐに大好きになる。寄り添ってくれて、いてくれるだけで心強くて、私は彼が大好きだ。大好きだった。大好きだったのだ。こんなにも。

 

2020年になったら、マンドリカルドはフレポガチャの対象に入るのだそうだ。マンドリカルドくんにまた会いたいけれど、会いたいのがマンドリカルドくんなのかわからない。私はきっと、彼のことを思い出してしまう。あの笑顔を思い出してしまう。でも、それはマンドリカルドくんに対しても彼に対しても失礼だと思うから、私ができることはガチャを回さないことくらいしかない。でも、だからといってそれが何になるというのだろう。ままならない。どうしようもない。どうすることもできないなあ。

 

私はマンドリカルドくんのことが大好きだ。どうすることもできなくても、物語は続いていく。英雄たちの祈りに背中を押されながら、私たちはこれからも進んでいく。彼は確かに、英霊だけど友達だった。友達だったけれど、それより前に英雄だった。彼もまた彼女みたいに、覚えていてほしいと、忘れないでいてくれと思っていてくれたならどんなによかっただろう。

彼はただ、どこまでも私の友達で、ひとりの誇り高い英雄だった。

そんな彼だから、大好きになったのだ。これは彼の話。ただの友達の話。だから私は、せめて誠実であろうとしながら、彼のことをずっと覚えていようと思う。

 

一番身近な魔法 ―「だから私はメイクする」感想

去年の8月、社会人2年目、2回目の海外出張。記念として自分へのおみやげに、免税店でアイシャドウを買った。CHANELのレ キャトル オンブル。一緒に行った上司はそういうの何か言ってきそうな人だったので、職場のみんなへのおみやげ買ってくるからゆっくりしててください!30分くらいで戻ります!と言ってラウンジに置き去り、おみやげのお菓子を確保してから、少し緊張しつつ足を踏み入れたのを覚えている。完全に無知だったせいで、日本円支払いにしてしまいかえって高くついたことまであわせて、すごくいい思い出。

劇団雌猫さんの「だから私はメイクする」を読み始めて、最初によぎったのはそのときのことだった。

だから私はメイクする 悪友たちの美意識調査

だから私はメイクする 悪友たちの美意識調査

 

 

メイクするのは楽しい。私は顔がうっすいので、裸眼ならフレームがしっかりした眼鏡・コンタクトならメイクの完全な二択で、アイメイクをやればやるほど目が大きくなるのでメイクのしがいがめちゃめちゃある。部活の甲斐あって成人式のとき人生で一番痩せていたので最高に盛れた写真が撮れた。プロの技は本当にすごい。

出掛けるときには必ずメイクするけれど、なんのためにメイクするのかということを改めて考えたことはなかった。私はどうしてメイクするのか。視力検査の一番上が裸眼では全く判別できない視力なので、家で眼鏡をかけている顔とコンタクトをしてメイクをしている顔が自分の顔という認識だから。コンタクトを入れたら必ずメイクするので、もはやコンタクト+すっぴんはしっくりこない。あと、シンプルにメイクをした自分の顔が好き。メイクの行程で自分の顔になっていくのはやっていて楽しいし、満足感もある。

でも、それはただの理由で、動機とはまた違うような気がした。「メイク」という私たちの生活の一部、ひいては人生の一部になっていることの捉え方・向き合い方は寄稿ごとに本当に違っていて、人それぞれで、みんないろんなことを考えながら生きているんだなあとそんな当然のことを思う。そうして、わかる!となる部分やそういう人もいるのか~となる部分の両方に頷きつつ、頭の片隅で私にとってメイクってなんなのかなあとぼんやり考えながら読み進めていたところ。私は「デパートの販売員だった女」を読んで思わず泣いてしまった。

 


母が働いていたころの同僚に、普段はナチュラルメイクだけど今日は言うぞという日にはがっつりメイクをする人がいたらしい。その人が戦化粧と言っていた、という母の話をなんだかずっと覚えている。

大学に入るまで、メイクなんてやったことも関心もたいしてなかった。大学生から眼鏡をコンタクトに変え、メイクもするようになったけれど、どうせ汗ですべて流れてしまうからとそこまでのモチベーションもなかった。コンタクトになると眼鏡さえあれば顔!となっていたときのようにはいかず(眼鏡は顔の一部とは本当になんて真理をとらえた言葉なんだろうと思う)、合宿の日もへろへろになりながら起きだして眉と口紅だけはなんとかやっていた。それもお昼を待たずにどこかに行ってしまっていたけれど。

部活を引退し、会社に入ってようやくちゃんと髪を巻くようになった。道着もグローブも持たなくてよくなり、代わりに通勤用のバッグを持って、ジャケットが合うきれいな格好を日常的にするようになると、なんとなくメイクや洋服もちゃんとしたくなる。もともとキラキラしたものが好きで、アクセサリーや雑貨を見るのが好きな私が、化粧品を見るのが好きではないわけがなかった。

髪がうまくいかなくて、メイクが薄いとなんとなくテンションが下がる。ばっちりいい感じにメイクができて、髪もちゃんときれいに内巻きにできると、今日も一日がんばろうという気持ちになる。思えば大会の日はいつもより念入りにメイクをして、濃い色の口紅をしていた。今も、上司と戦うときや気が重い電話の前にはメイクをなおし、口紅を塗りなおして気合を入れる。

私はどうしてメイクをするのか。私にとってのメイクは、気持ちを切り替えるスイッチのようなものなのかもしれないと思った。仕事の日は、仕事モードに移行しながら。お出かけの日は、わくわくしながら。なめられたら負けるというときは、自分で自分に気合を入れなおしながら。メイクをする時間を通して、私はその先のものへ向かうための準備をしている。

ファッションも同じで、やっぱり私は強気で行きたい打ち合わせや会議がある日にはかかとの高い強そうな靴を選んでしまう。友達と久しぶりに会う日の前日には、通勤着とは比べ物にならないほど服をとっかえひっかえして悩む。そうやって、よし!と思える自分で家を出ると、姿勢もしゃんとする気がする。

一番最後、劇団雌猫さん4人の座談会の中で出てきた「ファッションやメイクを選ぶって、なりたい自分を作っていくこと」という部分に、それだ、と思った。自分の力でなりたい自分に近づくことができるって、すごいことだと思う。

 

書籍を捨てられない女なので雑誌を買う習慣がなく、美容院で読む程度だったのが、Pinterestをインストールしてから物欲が爆発している。服もほしいし、靴もほしいし、コスメもほしい。基本的にちょろいので服と靴以外はおすすめされるとすぐにほしくなってしまう(スタバにあったかい飲み物を買いに行ったのに、期間限定のフラペチーノをおすすめされてまんまと頼んでしまうことがよくある)。服と靴は試着してみて自分がしっくりこなかったらしっくりこないのでどちらかといえば意思は固めなのだが、代わりにしっくりくるとこれは出会い!!!と即決しがちで、この間もそれで靴2足一気に買ってしまった。幸せ。大満足。

おしゃれをするのは楽しい。毎年盛大に誕生日を祝い合っている友人から今年はチークをプレゼントにもらった。人から見たらそこまで変わらないのかもしれないけど、やっぱりテンションが上がるし、つけるだけで嬉しくなる。自分のものを探すのも楽しいし、もらうのも嬉しいし、人にあげるものを選ぶのも楽しい。おしゃれしてデパートに行くと、それだけでテンションが上がる。やっぱり仕事帰りのよろっとした姿や、近所のスーパーに行くときの楽な服ではなく、そういう気分にあった格好で行ったほうが、全力で楽しめる。出かける準備をしているときから、もうお出かけは始まっているのだと思う。

 

就活のスーツや、ハイヒール論争はなかなか絶えない。私はハイヒールが好きだけど、タイトスカートが絶望的に似合わない。タイトスカートである意味がどこに!?絶対フレアのスーツの方が素敵な私をお見せできるからな!?と就活中いつも思っていた。

そのシチュエーションにあった装いというものはどうしたってあるにしろ、その範囲内から外れなければなんだっていいはずなのに、と思う。例えば結婚式に白を着ないとか、不幸の際に真珠以外をつけないとか、そういうものは社会で他人と生きている以上どうしたってやっぱりある。でも、そうではない、本当はどちらでもいいのにという場面なら、タイトでもフレアでも、パンツスーツでも、黒でも紺でも、ハイヒールでもフラットでもいいはずだ。ハイヒールが労災かどうかを画一的に決めるより、TPOに沿った装いの範囲内であればどっちでも、なんでもいいよという幅の広さが生まれればいいのに。と、おしゃれという自由を考えるのにあわせて、そんなことも思ったりした。

 

つらつらと書いてきたけれど、常に美容の意識が高いわけでもないし、メイクがめちゃめちゃうまいわけでもないし、すごくスタイルがいいわけでもない。でも、上手い・下手とか他人の視線に一切関係なく、ただただ主観的に楽しめる、もっと言えばする・しないも自分で決められるのがおしゃれの素敵なところだと思う。

生理前や繁忙期は目に見える速度で肌が荒れていくので半ば諦めモードだったのだが、救世主・オードムーゲのふき取り化粧水に出会ってからなんとか持ち直し、肌荒れと復調の波も小さくなりつつある、と信じたい。成功体験があると一気にモチベーションが上がるというのは、やはりどんなことにも共通するもので、これで肌がきれいになるのでは……!?と思えるとスキンケアにもメイクにも俄然やる気が出る。もったいなくてまだ使えていない、冒頭に書いたアイシャドウをいつおろそうか、先の予定を見ながら考えるのが楽しい。

生きているだけで痩せたい、とよく言っていたのだがさすがにそんな甘っちょろいことを言っていられる状態ではなくなってしまったので、6月の終わりからキックボクシングに通い始めた。さんざん三日坊主を繰り返してきたが、今回のダイエットはなんとか続けられている。この調子で引き続きがんばりたい。目標はまだまだ先なので……。

ジムとかホットヨガとか色々調べてはみたけれど、部活があったおかげでキックボクシングの方が私にとってはよほどハードルが低かった。ストレス発散になるし、ミット打ち・蹴りだけだから痛くないし、足のむくみもずいぶんよくなり、毎回めちゃくちゃ楽しい。部活ではスパーリングでボコボコにされていたからむしろ苦手な練習で、荷物になるからといつも備品を借りてついぞ自分用は買わなかったのに。人生とはおもしろいもので、何がどこでどう繋がるかわからない。働き始めて3年目、通勤バッグの反対側、サブバッグの一番下にはグローブが潜んでいる。

光ある人生・中編 ―「風が強く吹いている」感想

時間があいてしまいましたが、「風が強く吹いている」感想文・中編です。7話~13話の話を中心にしています。

前編はこちら。

 

■見ようとすれば見えるもの

箱根を目指すことを決め、7話からは実際に公認記録というハードルを越えるための戦いが始まります。はじめて参加する記録会に浮足立つ彼らにとって、箱根駅伝はまだぼんやりとした曖昧な目標でした。しかし、実際にレースに出たことでようやく蜃気楼のような目標は現実味を増します。一方、走はそれがどういうことかをわかっているだけにみんなの悠長さに焦り苛立ちますが、9話冒頭で清瀬が言及したように、それは箱根駅伝出場という目標を本気で考えていることの裏返しでもあります。

8話において、ニコチャンは自分から走に内心を打ち明けました。記録会で訪れたグラウンドで懐かしそうな表情で空気を吸い込み、数年ぶりにスタートする瞬間の感覚を味わって、彼は自分が捨てたものともう一度正面から向き合い始める。自分の体格が長距離に不向きであること、積み重なった日々の不摂生をわかっているから、みんなに隠れて食事制限を始めます。

感想・前編でも書きましたが、ユキはニコチャンをよく見ているから、ニコチャンが無理をしていることに気付いているんですよね。そしてそれを清瀬にも伝えている。清瀬もまた住人たちのことをよく見ているから、ニコチャンが一番いなさそうな場所にいることを見抜き、そして見つけ出してお花畑で彼を追いかけるわけです。

彼らはお互いに相手をよく見ているからこそ、様々なことに気づきます。ニコチャンもまた、清瀬とユキのことをよく見ています。「相手をよく見ているから気づく」ということは、言い換えれば「よく見ていれば気づける」ということです。竹青荘に入居したときからずっと一緒に生活している彼らのように、すでに関係性の基盤が強固な人々にとって、これはしばしば意識するまでもなくいつの間にかクリアされている命題です。しかし同時に、見ようとしない者、あるいは向き合い方がわからない者にとっては、この命題は目の前に立ちはだかる大きな壁となりえます。

ではどうするのかというと、非常にシンプルで、まずは相手を見ようとするだけでよいのです。今までは気づけなかったとしても、相手を見ようとすればそれだけで変わるものがある。相手を見ようとすることではじめて、気づけるようになるのです。8話「危険人物」、9話「ふぞろいの選手たち」、10話「僕たちの速度」で描かれていたのはまさにこのプロセスでした。

7話の記録会を経て、8話では反省会をはじめ様々な場面で口々に「チームっていいよね」という話をします。走は焦るばかりで周りが見えず、隈ができるほど自分のことも見えていない。そんな状況でタイムが伸びるわけもなく、葉菜子や王子に八つ当たり同然に苛立ちをぶつけてしまいます。その最たるものが8話ラストの、もし次の記録会も同じような成績だったらメンバーから外れてほしいというものでした。そしてよりにもよって、そこで「お願いします。チームのために」と言う。走がチームという言葉を発するのは、唯一この場面です。

みんなが口々に話す「チーム」は仲間や繋がり、同志、一体感といった意味合いであるのに対し、走のいう「チーム」とは名ばかりの建前、あるいは口実です。10人しかいない、誰が欠けても成立しない彼らというチームにおける「チームのためにメンバーから外れてほしい」なんて、あまりにも最悪すぎる。「チーム」という言葉の使い方が本当にずるい。しかし、それが走がこれまで身を置いてきた「チーム」というものだったのだと思います。実際、13話の回想では監督が「おまえが抜けてもチームはなんとかなる」と言っていましたし、走にとってはそういうものなんですよね。9人の口にするチームがどういうものかということ、走にとってのチームがどういうものかということ。その断絶が、この台詞で痛いほどにわかる。本当にすごい台詞、そして言葉のチョイスだと思います。

ここに至るまで走は速さばかりを追い求めているかのような発言をしていますが、裏を返せばそれはこれまで走が、スピードという価値基準以外が認められないなかにいたということです。13話で明かされた高校時代のように、そんな狭い世界で生きてきたから、みんなの努力を正面から受け止められない。違う尺度を認められない走に対して、9話で清瀬は「止まれ。そして景色を見ろ。それからゆっくり走り出せばいい。王子や、ニコチャン先輩がそうであるように」と声をかけます。止まった状態からしか、一歩を踏み出すことはできないのです。

そうして迎えた記録会で、精一杯全力で走るみんなの姿をようやく見つめることができた。これまでの走は、いつも先頭を走っているからまわりに人がいないし、誰もいない前しか見ていないから他人の考えていることがわからない、という状態でした。トラックの外からみんなの姿を見れば、誰もが真剣に走ることと向き合っていることがわかる。見ようとすれば、相手の姿がちゃんと見える。7話の記録会で走が体感した藤岡の強さを思い出すのは、藤岡も自分も彼らも同じだと気づいたということであり、走のなかで様々な尺度の強さがあるというシナプスが繋がりはじめたということでもあるのだと思います。

9話のタイトル「ふぞろいの選手たち」はドラマ「ふぞろいの林檎たち」のオマージュかと思います。「ふぞろいの林檎」が指す意味と同じく、前半では「長距離選手としての規格に当てはまらない落ちこぼれの彼ら」がタイトルの意味するところなのだろうと考えられます。しかし後半の彼らの姿を通じて、そこに「一律でなくてまちまちでも、同じ選手である彼ら」という意味合いが加わる。この回を見終わって全体を振り返ったとき、ネガティブからポジティブへとがらりと意味合いが変わるのが、本当にすごいタイトル設定だと思います。

これまで9:1や8:1:1の構図が多かった10人ですが、9話の帰り道でははじめて分断されることなく歩いていました。応援があるということの心強さを感じるムサの描写は、2区へと続く描写でもありましたね。「根はいいやつなんだよ」と走の頭をわしゃわしゃして間を取り持ってくれるニコチャン、とても年長者で……先輩……!!となるし……。

走が自分の内側から沸き上がるなにかに駆り立てられるように、必死にみんなの名前を呼んでいたということは、走がようやくちゃんとみんなの姿を見ようとした、正面から見始めたということです。そうしてようやくみんなが前進しはじめる……かと思いきや、清瀬が過労で倒れてしまう。わかっている身で見ているので、こ、この切り方ーー!!!!くらいで済みましたが、アニメ初見の方々の心臓に大変悪かったんじゃないでしょうか……こぼれた炒飯……

これまで清瀬を中心に動いていた彼らは、清瀬の過労をきっかけに自発的に動くようになります。色紙のコメント、それぞれのキャラクターがよく出ていましたよね。10話は、手を合わせる大家さんとそれに対する走と王子の「それじゃ死んだみたいじゃないですか!!」のシンクロ、我々の期待を裏切らない王子の「知らないのか……!?『だが断る』を」など、笑いどころもたくさんでした。

走と王子の関係性の変化の皮切りとなったのは、王子の「じゃあ、僕の速度で、話してよ」という一言で、これ以降二人の会話が増えていきます。私は特に二人の「漫画は逃げません」「鮮度が命なの!」というやり取りが好きです。わかる、鮮度は確かにあるんだよな……。犠牲者多数の葉菜子の料理に対して走と王子だけけろっとして「おいしいです」とはもっているところもかわいかった。走と王子が割とシンクロしているの、その部分だけ見るとただただ楽しかったりかわいかったりするのだけど、後半のページをめくる速度のシンクロへの布石なのかなと思うと……!一緒に生活しているということなんだよなあ……!!

先ほど、相手を見ようとすればそれだけで変わるものがある、相手を見ようとしてはじめて気づけるようになる、ということを書きましたが、清瀬は「向こうはきっと見てたと思うぞ。いつこっちを向くんだろうって」「みんながおまえの後ろを走ってるんだ。走が振り向かない限り、その位置からみんなが見えることはない」と言って、走にそのことを指摘します。

いつも先頭を走っているから、自分が目を向けない限りみんなの様子が見えることはない。けれど、それはただ見ようとするだけで見えるようになる。見ていなかっただけで最初からそこにある、とても簡単なことなのです。

「前髪上げると、見えるもんだね、前が」

「はい!」

「何を見てたんだ? 今まで」

 

アニメ『風が強く吹いている』第10話「僕たちの速度」

見ているのは相手に関心があるから。見ようとするのは相手を知りたいと思うから。ただそれだけ、意識の方向ともいえる視線を向けるだけで、関係性は変わり始めます。視線というコミュニケーションも、会話というコミュニケーションも、相手を知りたい、相手に自分を知ってほしいという気持ちから動き出します。両者がおたがいに向かい合い、歩み寄ることで、ようやく関係は構築されるのだと思います。

記録会で好タイムを出しそうだった走は、減速しながら王子に「前!!」と檄を飛ばしました。これは以前の走だったら考えられないことで、二人の歩み寄りをじっと見守っていた清瀬は、その変化にストップウォッチを握りしめる。並走しながら走は王子を見ているけれど、王子は走を見ない。見ているのは前だけ。

王子の言う「僕の速度」とはつまり王子の価値観であり、走の価値観とは全く異なる、というより、誰もが異なった価値観を持って生きています。価値観や認識のすり合わせは、楽器のチューニングに似ているなあと私は思っています。(音楽はまったく門外漢なのでコンサートの冒頭のイメージで話しています)それぞれの楽器の特性があり、音程は同じでも音は全く違うけれど、音程を合わせてひとつの演奏を一緒に作り上げる。人間もきっと同じで、相手と向かい合い、言葉や感情や態度や、いろいろなものを尽くしたコミュニケーションを経ることで、ようやく人と人は関係を構築することができるのではないでしょうか。

衝突とわだかまりの氷解、そして関係の構築。彼らの速度がようやく揃い始める、そういう10話のタイトルが「僕たちの速度」であるのが、また本当に見事だなあと思うのです。

 

■向き合うこと、進み始めるということ

さて、本作の一番の核とも言える「強さとは何か」という問いが満を持して投げ掛けられるのが11話でした。小説においてもアニメにおいても、「長距離選手に対する一番の褒め言葉はなんだかわかるか」「速い、ですか」「いや。『強い』だ」のやり取りは最も重要な箇所のひとつでしょう。

感想・前編にて、「強さ」とは同じものの存在しない無数の価値観を貫く普遍的な価値観、あるいは永遠に答えの出ない問いであると書きました。「強さ」に答えはなく、人によってその定義もかたちも異なる。これまで速さという画一的な価値観のなかに身を置いていた走が、強さとは絶対的なものではなく、様々な尺度を持つものであることに気づき始めたのは9話の記録会、仲間たちの走りを見たときです。11話ではそこから先へ進み、走りに収まらない、人としての様々な強さというものが描かれていました。

後援会募集運動、キングとのやりとりをはじめとして、神童はいつでも一貫して自分のやるべきことをしていました。11話にて、ホームページを立ち上げつつユキ、走と色々な話をするシーンは、彼の人となりがよく表れている場面だなあと思っています。

「このチームは神童さんがいなかったら始まらなかったし、続けられてもいません。強いです、神童さん」

(略)

「僕は、強くなんかないよ。ただやるだけ。何があっても」

 

第11話「こぼれる雫」

これは自分が大学生活を経たことで得た気づきなのですが、神童は唯一の3年生なんですよね。竹青荘で唯一同学年がいなくて(ニコチャンは先輩なので)、それがよりにもよって3年で、神童さんという。そう思うといろんなことがああ~~そういう……だから……となる……この話は17話のところでします。

ハッとなって「お茶を淹れてきます!」と言う走に対してユキが「やっと社会性が身に付いてきたか」と言いますが、このシーンを見て、清瀬と走が台所で行うやりとりの傍らに置かれている炊飯器は社会性、というか人と一緒に生きるということの象徴なのかなあと思いました。生きることは食べること、というのが持論なのですが、食事と生活において重要なのは何を食べるかよりも誰と食べるかだし、同じ食卓を囲むことはすこしずつでも話をすることであり、それはつまり相手を知っていくことなんですよね。だから私は4話と13話の終わりが本当に好き……。

王子の「確かにタイムは出したい、でも、それよりいまはとにかく走りたいんです。納得いくまで。ただ、それだけなんです」という言葉を聞いて、清瀬は「走りたい」という自分のシンプルな感情を思い出します。膝は全快しておらず、ゆっくり調整するしかない。自分も万全でないなか、メンバー全員の結果も一手に引き受けるプレッシャーまで背負っている。けれど、いまではもう、清瀬がみんなに何かをもたらすだけではありません。清瀬にも、忘れていたものを思い出させてくれる仲間がいる。最初の記録会では揃わなかった「箱根の山は」「天下の険」もいつのまにかぴったり息があうようになっている。彼らはもう既に、互いに影響を与えあいながら、各々が自発的に進みはじめています。

そして、12話からオープニングが変わります。あの、このタイミング、完璧すぎませんか!?アオタケメンバーと一人すれ違い、俯いて過去から目を背けてようやく顔を上げて振り返りはじめた第1クールオープニング、仲間と同じ方向へと向かい、暗闇を抜けて光へ出る第2クールオープニング、その切り替わりが12話という……最高すぎる……最高……私は第2クールオープニング「風強く、君熱く」が本当に好きで……永遠概念が刺さりすぎて本当にやばいんですよね!?永遠は一瞬のなかにこそあるんだよな……見返したくなったときのためにリンクを貼っておこう……


TVアニメ「風が強く吹いている」第3弾PV

微笑む二人、加速する走とその背中を見送る清瀬などというものを毎週見続けたうえであの最終話を迎えるの、本当にとんでもない。とんでもないんですよね……あの数秒に二人の関係性を……こんなにもあますところなく……

感想・前編で書いたとおり、仲間とちゃんと向き合う8話・9話・10話、強さという概念を得る11話を経ることで、ようやく走を追いかけてくるのは苦い経験ではなくなります。流星演出、走にとっては12話における進化の片鱗が最初ですが、清瀬にとってはいつだって、そもそも出会った瞬間から、走の走る道筋は銀色に光っているんですよね。運命が交差した瞬間、清瀬はもうそのことをわかっているけれど、走がわかるのはもっとあとなんだよな。ゴール地点……

記録会で清瀬ヘッドロックされていたり、みんなとともに公認記録をクリアした神童とユキに駆け寄ってもみくちゃにしたりと、走がちゃんと一員になっている!!!と嬉しくなるシーンが続いたところで望月が登場し、走にはまだ隠していることがあるのだと思い出させられます。単位を落とさない側と落とす側の天国と地獄や、いくらの海、夏合宿行きの車内など、大学生ならではの空気感はいまの彼ら10人だからこそ生まれるものでありながら、湖畔のランニングの俯瞰では再び9:1となっている。これまでと違うのは、望月の「仙台城西高校の蔵原くん?」を思い出しても走がそれから逃げようとしているわけではないということ、列が縦に延びているように、これまでの9:1の分断とは異なり少し距離を置いているだけだということです。

「足りなくないですか?」と走が気づくシーン、成長……!!!と胸がいっぱいになってしまった。二手に別れて神童とムサを探しにいこうというとき、走もしれっと残るほうに挙手しているんですが……みんなかわいいな……かわいい……。イチゴプロテイン入りカレーを味見して「意外といける……?」となってるユキ(本当か?)、走のカレーの醤油とマヨオプションや、東体大の焼き肉と肉なしカレーの切ない対比など、12話は全体的にほっこりする年相応の空気感に満ちていて好きです。このあとに超高カロリー13話・14話が控えているからそれをふまえてのバランスなのかもしれませんが……。

翌朝、寛政大がいることに気づいた榊の表情はこれまでとは全く異なるものでした。きっと榊は、清瀬がどういう選手かということ、全員が本気であることを記録会で体感して、今度こそ走が彼らと仲間として向き合い走ろうとしているのだとわかってしまったのかもしれない。たぶん人の感情の機微に聡いひとだと思うから……。榊、背景を知れば知るほどに彼もまた非常に魅力的なキャラクターなんですよね。鈍感ではいられない賢さや、器用になりきれない不器用さや、そういう色々なものがぐちゃぐちゃになったまま全部を抱え込んでいる人だなあと思う。榊への感情、9区出走前の走との会話で爆発したので、榊の話はそのあたりでしたいです。

榊に「満足か? やっとできた仲間と走るのは。仲良くかけっこできて満足かよ!」と言われてカッとなるのは、走が彼らと本気で走っているからであり、同じく本気である仲間を貶されたからです。今はもう、殴りかかろうとする走を止め、ずるずると影から日のもとへと引きずり出してくれる仲間がいる。榊はそんな走に対して「そうやって誰かの努力をぶち壊すんだよおまえは! 見てねえんだ、他のやつらのことなんて!」と感情をぶつけ、清瀬は「俺たちがいることを忘れるな」と走を諭します。走はもう、高校の頃の衝動的で孤独な自分から変わり始めています。これまで目を向けずにいた他者を見つめることができるようになったし、コミュニケーションとしての会話をすることもできるようになった。それでも過去がなくなることはない。自分自身と向き合い受け入れるということなしには、本当の意味で前へ進むことはできません。

 

■4話という伏線

13話「そして走り出す」は本当にすごい回でした。13話のブログでも書いたんですけど、あのノイズ混じりの音声と映像が差し込まれるの、あまりにも……すごくて……こんな演出のやりかたがあるんだ!!!という、いやもう本当にすごいんですよ……わたしは本当に13話が好き……

「生きるか死ぬかの勝負と思え」という監督の言葉と幸福な食卓、後輩に何も言わなかった彼らと「風呂、考えろよ!」と言ってくれるユキ、トラックという狭い世界と山道や高地というどこまでも繋がっていく広い世界。対比が本当にものすごい。13話、もう見返すのは6回目くらいなのですが、それでようやくユキと彼らの対比に気付きました。「先輩は色んなことを教えてくれるなあ」……。監督の言葉に彼らの食卓を重ねるの、非常に刺さる。走ることと速度が全てなら寛政大学陸上競技部の彼らはここにはいないし、走らなくたって死なないし人生は決まらない。でも高校生の彼らにはあの小さなコミュニティが世界だからそのことがわからない、そしてわからないことが悪いわけでは全くなく、それは視野が狭いから、閉鎖的なトラックの中だけが彼らの世界だからなんですよね。小さな世界の中だけで生きているからいろいろなことに気づかない、視野が狭いから思い至る前提がないというの、わかるもん……自分の経験としてあるので……構成が本当に丁寧なんですよね。そしてあの朝日ですよ。すごいよ……本当に……。

13話は勿論単独でもものすごい回なのですが、私は2周目で4話ラストとの対比に気づいていっそうアアーーー!?!!?となり、好き!!!!!という感情が爆発したのでその話をします。いや、4話と13話が繋がっているのとんでもなくないですか?とんでもない……すごい……ありがとうございます……!!!

さて、次々と清瀬に懐柔されていく竹青荘の面々の楽観を苦々しく思い、逃れられない過去と現実にもがく走の心境を表すように、4話は終始どんよりとした曇り空でした。そして川原で王子が榊に啖呵を切り、清瀬が走に「王子の言う通り、おまえはおまえだ。好きにすればいい。俺もそうする。だから、絶対に走る。おまえと、俺たち全員で」と語りかけるラストシーンを経て雲の切れ間から朝日が差し、彼らは彼らの家へと帰っていきます。走はそれぞれに会話しながら通りすぎていく彼らの背中を見つめ、ついていってもいいのかなとようやく思えたかのように、やっと自らも一歩を踏み出します。

4話と13話において、心情変化に伴う光の演出、朝食に帰っていく彼らという構図は同じながら、その印象は全く異なります。構図が同じだからこそ、彼らの心情と関係の変化が際立つ。4話では清瀬が「よーし戻ろう。メシが待ってる!」と呼び掛け、他の面々がそれについていくのに対し、13話では八百勝のおじさんが「おーい!朝飯が冷めちまうぞー!」と呼び掛けて全員で戻っていきます。4話ではその背中を見送るだけの走が、13話では「出たいです!箱根駅伝に、この10人で」と自分から言う。そんな走のことを、みんな向き合って追い付くのを待っていてくれる。そしてようやく、彼は軽やかに小川を飛び越えていくんですよ……!!!!

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このカットが本当に本当に大好きです。彼らの日々~~~~!!!!!となって……走がちゃんとみんなと向き合うことをやってきたからこそだし、真摯に向き合えばちゃんと応えてくれるのだ、という……みんなが走のことを待っていてくれる、そして全員で朝食へと向かっていくんですよね……雲から光が差す4話、夜明けから朝になる13話というのも本当に好きで……!!!ようやく一歩を踏み出す4話、そして走り出す13話なんだよな。

そして、この13話があるからこその、14話のこのカットなんですよね。

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最高だ…………本当に…………ありがとうございます…………!!!!!!!!

 

 

本当は中編で17話あたりまで書こうと思っていたのですが、時間がたくさんあいてしまったのでとりあえず書いたところまでで中編をあげることにしました。13話だから一応キリもいいし……。カウントしたら中編は9000字くらいでした。

後編は感情重視で書きたいからまた一気に見直したいな。それではこのあたりで。今回は以上です!

 

追記:2023年になって後編をちゃんと書き終えました。

 

彼女の旅路、あるいは人生

Fate/GrandOrder -絶対魔獣戦線バビロニア-」Episode0、ご覧になりましたか?私はうっかり会社の昼休みに見て、昼にメインシナリオを進めるときにいつも駆け込んでいるパン屋さんでべしょべしょに泣きました。

この27分間が期間限定配信なんておかしい……いくらでも積むから買わせてほしい……というか本っっっっっ当にお願いだから全部アニメ化してくれませんか!!!??!?!????!???感情がはちゃめちゃなのでびっくりマークとはてなマークを連打してしまう……なんで……なんでや……ぜんぶアニメ化してくれ……たのむよ……6章と7章がはちゃめちゃにおもしろいのはわかる、私もそう思う、でも、でもさあ!!!!!冬木から北米まで全部おもしろいじゃん!!!!!!!!これまでの全部の旅路あってこそのさあああ~~~~~~それでこその、あの、あの旅の終わりなわけじゃん…………たのむよ…………順番前後してもなんでもいいしいくらでも待つしいくらでも積むから…………みんなの旅路を…………

 

1部、1.5部、2部、2部序のすべてに思いを馳せて大変なことになっており、種火を回るどころの騒ぎではなく、思い出すだけで涙目と鳥肌になりながら、ざかざかとこの文を書いています。色彩をそこで流し始めるのあまりにも……あまりにも……あの、本当に、構成が完璧すぎて、ねえ……ギャラハッドさん……あそこでギャラハッドさんを止めるマシュ、それこそがロマニの言う「人間らしさ」、ひとを思いやる心じゃないですか……!!!やっぱりギャラハッドさん、2部6章でマシュがまじでやばい感じになったときにマシュの体を借りてただ一回だけ共闘してほしい……口調は古風なかんじがいい……ギャラハッドさんはマシュとマスターを信じてすべてを託して眠ったのだけど、でも、たった一度だけマシュの体で、声で、「此度のみと心得よ」って言ってすらりと剣を抜いてほしい気持ちはさあ、あるじゃん……!!

 

さて、マシュとロマニの出会い、そしてFate/GrandOrderの前日譚として描かれたこの0話、メインシナリオをどこまで終えているかによって感想が変わる本当にものすごい構成だと強く思いました。1部未クリアなら7章の導入として、1部クリア済~2部未クリアなら今後この人々(クリプターたち)が出てくるんだなという示唆として、2部進行中ならマシュのこれまでとこれからの振り返りとして。我々にはあのラストとロマニの表情がどういうことか、全くの説明なしにでも、わかってしまうので…………

2部進行中のいま、この0話を見てどうしたって考えてしまうのは、彼女の旅はこれからも続くけれど、これからの旅は、ということじゃないですか。4章で描かれたマシュの誠実さはまぎれもない彼女のエゴで、それはある意味傲慢でもあって、誠実でありたくても善良でありたくても、どうしたってすべてを手にはできない私たちは何を選び何を切り捨てるのか、という……

2部オープニングを見てから事あるごとに言っていたのですが、2部になってマシュが戦う女の顔になっているんですよね。まっさらだった彼女が色彩を得て、感情を獲得して、覚悟に殉じたあとにもう一度いちから人生を歩みなおす、その先の表情。無垢であれ、善良であれと教育され、人間の良いところばかりを知ろうとするマシュは、自分は人間関係の外側にいる存在だと考えていたのだと思います。最初から自分は人間関係の当事者ではないと思っているから、他人と自分を比べないし、本来であれば辛く苦しく理不尽だと怒ったり恨んだりするべき境遇にあるのに、自分をただの無機物な対象として見るカルデア職員たちが笑い合う様子を心から嬉しそうに見つめている。

これまでのマシュの立ち位置は、一列に並び立つAチームの7人と、後ろからそれを見つめるマシュという構図に象徴されるものでした。そんなマシュにようやく自分を人間関係の当事者として認識させたのが、ロマニやダ・ヴィンチちゃんだったんですよね。そうして自分はただの第三者でも部外者でも、輪の外側にいる付随物でもなく、自分の人生の当事者であることを自覚し受け入れてはじめて、自分の考えや感情やほしいものを見つめることができるようになる。初めて自分にもほしいものがあることを自覚して、吹雪の窓辺で待っているだけだった夢は夢でなくなり、願いとなって、自分の生身のからだで生きるようになる。それでも彼女の生には限界があるままで、マシュはそれを受け入れたままで、そうして短い生を覚悟とともに駆け抜けてしまった。その覚悟は、本来年端もいかない普通の女の子が抱くようなものではないし、きっと抱いてはいけないものでもある。

旅のなかで見たもの、感じたこと、出会った人々、そういうすべてがようやく彼女の少女としての外郭をかたちづくり、その中に少女らしからぬ覚悟と聖女のような精神があり、そしてようやく、彼女は普通のひととして生まれなおす。1部は、そういう物語でした。

人間をかたちづくる様々なものを描いた1部、善悪どちらか一方だけではいられないことを突き付けた1.5部、そして人間とは、生きるとはということを問い直し、選択を迫る2部。2部は、あの旅のなかでようやくひととして生まれたマシュがひととして成長するための旅なのではないかなと思っています。そんな彼女が戦う女の顔になっているのが私は本当にうれしくて……わからないけれど、わからないままで彼女たちは進んでいくんですよね。ロマニに対して「すべての生命には、活動限界があります。わたしは、わたしの活動期間に疑問はありません」と無感動に言ったマシュが、異聞帯での旅の果てに、ただシンプルに「生きたい、生きていたい」と思うようになるのではないかと、そうなってほしいと私は思っているので……

 

見上げた花火に、視てしまった終わりが重なるロマニ・アーキマン、非常にしんどかったですね……ロマニにとってのひとらしさのなかに「意思を持って損ができる」があるのも、本当に、あの、終章………………マリスビリーとの会話のときのフードの後ろ姿を見て、2部オープニング!!!!という気持ちが爆発してしまったのですが、いや本当に、どうなるんだ……あれはやっぱり彼なんですか……

あとレフがさあ~~~~!!!!!!0話、本当に何がしんどいってレフが一番しんどかった。彼の心残り……終章感想文を読み返したら「終章最初にソロモン(ゲーティア)のマシュに対する『どこまでも平凡な人間だ』という評価が、マスターを守りきったマシュへの『きみは普通の女の子だったんだよ』に繋がるの、一度気づくとここめちゃくちゃ泣きますね……そう、普通の女の子だったし、レフはそんなことを当たり前のこととしてずっと知っていたんだよな……」て書いていたんですが、あの、まさに、これなんだよな!?!!?!?!?噛み締めるようなレフの「考えてみれば、それは我々にも言えることだ。当たり前のことだ。当たり前のことなんだよ、ロマニ」が本当に……本当にさあ……「我らが王は、人間を憐れみ、死という前提から救うと言った。私にはわからない。そうだろう、マシュ。本当に、人間にはそれだけの価値があるのかい」…………

 

色彩が流れ始めるタイミング、あまりにも完璧なんですよね。いつもと同じガラスの外側の吹雪、待つだけだった夢、動き始める物語、その幕開けの鐘のようなピアノ。本当に、見返すたびに鳥肌がやっっっっっばくて……!!!

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で、あの、走るマシュ、これ、「風が強く吹いている」の流星演出と同じやつじゃないですか!!!!!!!!!正確には流星たる彼ではなく10区のあれなんですけど……わかる、そう、マシュは流星なんだよな……1部のマシュの輝き、大気圏に飛び込んで一瞬燃え上がり煌々と輝いて燃え尽きえる流星のそれなんですよ…………ふと少女ダ・ヴィンチちゃんのプロフィール読んでいたら「作られた短命の生命ゆえの達観、客観性」とあってまたべしょべしょになってしまった。本当に、マシュ、2部の旅のあと、ただ生きていく人生へと踏み出してくれ…………

私は、英霊という人間としての先輩が、後輩たる今を生きる生身の人間たちに向ける祈りとエールが本当に好きなんですよ。毎回毎回たくさんグッときてしまう。で、こんなんさあああ~~~~~~~~なんで全部アニメでやってくれないんですか!!?!?!???!ダイジェストじゃなくてやってください本当に……たのむ…………全部見たい…………見たいにきまってるでしょ………

「何を好きになり、何を嫌いになり、何を尊いと思い、何を邪悪と思うか。それは、きみが決めることだ。僕たちは多くのものを知り、多くの景色を見る。そうやってきみの人生は充実していく。いいかい。きみが世界をつくるんじゃない、世界がきみをつくるんだ」

4周年CMの最後にアマデウスがお辞儀をするのめちゃくちゃいいなあと思っていたところ、これを見て、もう、もうね…………祈りなんだよ、みんながマシュにいろんなことを教えて、彼女の背中を押して、彼女の旅には出会いがたくさんあった代わりに別れもたくさんあったけれど、自分だけの人生を生きなさいとエールを送ってきた、そういう旅だった。そんなことを思って泣いていたところ、婦長の言葉がこれですよ……!!!!

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「ミス・マシュ。夢と願いは違うものです。限りなく現実をにらみ、数字を理解し、徹底的に戦ってこそ、願ったものへの道は開かれる。あなたは、あなたのために、これからの人生を生きなさい」

みんなだいたい表情が映るなか、婦長は後ろ姿なのが本当に、本当に、めちゃくちゃ良くてね!!?!?ナイチンゲール、彼女の信念は、言葉で語るものではなく見るものが彼女の姿勢から感じ取るものなんだよな。婦長本当に好き……だいすき…………

三蔵ちゃんの「あたしの行動に理屈はないの。やりたいようにやる、ううん、やるべきだと感じたことを、胸を張って信じているだけ。あなたも同じよ。きっと」に、「STAR DRIVER 輝きのタクト」の「やりたいこととやるべきことが一致したとき、世界の声が聞こえる」じゃん!!!!となってしまった。ラストもまさに「人生という冒険は続く」だし……

6章の映画も本当に楽しみですよね!!私は本当に6章のマップ音楽が一番好きで……0話、村でのみんなの宴会を描いてくれたのが本当にめちゃくちゃ良かった。ネロの言葉ともつながるのだけど、場所も為政者も国も名も違えど、根本にあるのはただ人々の日々の生活なんだよな。私たちはただ生きる、生きている、それだけで……そして、そういう根本の部分がゆらぐことで「人とは何か」「生きるとはどういうことか」ということを考えなければならないのが異聞帯じゃないですか。3章4章の感想文、そういう話をしようしようと思ううちに遅くなっており……5章までには書きたい……

ドレイク船長の「悪人が善行を為し、善人が悪行を為すこともある。それが人間だ。それがアタシたちだ」という言葉、今聞くとまたこう思うことが変わるのが、深いなあと思いました。善人と悪人・善行と悪行は連動するものではないんですよね。異聞帯を旅する彼女たちに、善悪という明確な指標はもはやない。正義と対立するのはまた別の正義、いや、そもそも「正義」といえるかどうかもわからない。やるべきことがわかっていた1部、やるべきこと以前にやるべきかどうかすらももう誰にもわからない2部。それでも彼女たちは進んでいくんですよね。そうしなければ生きていくことができないから。


「永遠などすこしもほしくはない」は、あのときのマシュにしか言えない言葉なのだと思います。

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だって、マシュはもう終わりに向かって生きているわけではないから。受け入れている終わりへと駆け抜けていくから、今という一瞬だけがあればいいと心から言えるけど、彼女はもう青空を見た、そして、「いまがずっと続けばいいのに」というその先の気持ちを知ってしまった。ルルハワで口にしたそれは、そういう感傷を抱くということは、確かにひととして成長している証です。ただ、彼女の旅路、あるいは人生が、あまりにも過酷であるだけで。それでも、彼女が見たいと願い、そして辿り着いた青空と同じようなうつくしいものが、この旅の先にもあることを、私は願ってやまないのです。

 

「本日、第七特異点へのレイシフトが実行されます。私は、また、旅に出るのです」  

自由になりたいわたしたち

昨日5月29日、ASIAN KUNG-FU GENERATIONのライブに行ってきました。(アンコール写真撮影可能の公演です) これは今回のベストショット。

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本当に……めちゃくちゃ楽しくて……すごく良かった……ぎゅっと詰まった2時間半でした。超たのしかった……余韻がものすごい……めちゃくちゃ元気になった……!!!

 

ツイートを遡ったらどうやらアルバム「ホームタウン」を最初に聞いたのは4月11日の朝の電車の中だったようなのですが、それよりも、なんか今日妙に疲れたな~と思いつつその日の帰りに改めて聞いたときの染み渡り方のほうが最初の印象として強いです。どこか力が抜けていて、ゆったりと帰路に寄り添ってくれるようなアルバム。私にとって、そんなイメージのアルバムです。

アジカンとのファーストエンカウントは鋼の錬金術師の「リライト」でしたが、その後中学生になってからツタヤで「ワールド ワールド ワールド」と「マジックディスク」を借りたのが本格的な出会いだったように思います。「サーフ ブンガク カマクラ」が好きすぎて友達をさらって江の島に行ったこともありました。

 

私は小さい頃から考察とか、何かに疑問を持つということがそれはもう絶望的に苦手で、良く言えば素直・悪く言えば考えなしという子供でした。小学生のとき理科の佐藤先生に通信簿に「もっと色々なことに疑問を持ちましょう」って書かれたりして、どうしたらいいんだろうって私にしては真剣に悩みながら、一方で「でも『こうだよ』って言われるから『そうなんだ』って納得するんじゃん」とずっと思っていました。いや今も思ってるか。

大学生の前半、たぶん十九の中頃まで、雨の日と寒い日がどうしようもなく駄目だったんですよね。肌寒い雨の日なんかもう最悪で、身の置き所がないというか、いたたまれないというか、気持ちが閉鎖的になってどうしようもないというか。そのくせ外面はいいので部活には絶対に行き、なんでもないように振る舞って、そのうち練習のハードさでそれどころではなくなり、いつの間にかニュートラルに戻っている、というのを繰り返していた。とはいっても肌寒い雨の日限定なのでそんなに頻繁ではなかったけれど。

そういう雨の日、生協で売っているドーナッツをとにかくたくさん食べて「きらきらひかる」か「号泣する準備はできていた」を読んで図書館の机で寝ると、なんだか気持ちが落ち着いたような気がして、それからはドーナッツを食べつつ、割とそのどうしようもなさを飼い慣らしていたように思う。そして、そんなどうしようもなさをは、なんの前触れもなく、いつの間にかすっかりどこかに消えてしまった。あれ本当になんだったんだろうな。

昨日、「UCLA」のイントロを聞いて、水の中にいるみたいだなあと思った。それで、「UCLA」と「モータープール」を聞きながら、もしあのときにこの曲たちがあったら、あのときのどうしようもなさは何かが違ったのかな、と。そんなことを思いました。

それとともにふっと思い浮かんだのが、開演前に少しだけ読んでいたTHE FUTURE TIMESのゴッチの連載の一文でした。

けれども、その曲が「ある世界」と「ない世界」のどちらがマシなのかと問われれば、間違いなく「ある世界」を僕は選ぶ。世界を変えられなくても、僕自身は間違いなく、その曲の誕生以前と以後では、何から何まで違う。

 

THE FUTURE TIMES 2018 winter 連載「未来について話そう」 後藤正文

わたしたちは、主観だけに基づく世界に生きている。どんなに客観的に物事を見ようと思っても、主観を排そうとしても、自分の意識のうえにしか自分は存在しえないのだから、結局すべては自分の主観だけに基づいているという意味です。

そのうえで「どれだけ自分の主観を豊かにできるか」ということに、わたしたちは向き合っていかなければいけないのだと思います。自分本位ではないか、知らないものを切り捨てていないか、ちゃんと世界の動きのアップデートについていけているかどうか。主観の豊かさとはそういうことなのではないかなあ。

中学・高校のときから好きだなあと思ってもう何度も何度もリピートしてきた音楽でも、改めて聞くとはじめて受け止めるように思えることがあります。これまでその曲を聞いていたときは全く思い至りもしなかったことを考えたり、普段から聞いている好きな曲で涙が出てきたり。そういう経験をするたびに、そのときどきによって自分に影響を与えるものから何を感じるか、何を受け取るかは異なるのだなあと思うし、わたしとわたしの好きな音楽という一対一の関係は、一対一だからこそ果てがない。

昨日のライブで、ゴッチが、自分と音楽はその間で本来完結していて、それでもそうやって震動するものによってみんなが楽しんでくれるのはありがたいことだという話をしたとき、音楽や言葉や作品というものは、どれもみんな同じなのかもしれないなと思いました。主観だけに基づく世界に生きているわたしたちは、誰かの主観に触れて、自分の主観でそれを感じ、考えながら、それらを受け取る。そのやりとりは本当はどこまでも一対一の二者間で完結していて、わたしがどう思うかということがわたしにとってのすべて。

それでも、わたしたちが一対一だけで完結できないのは、世界のなかで他者とともに生きているから。そもそももし一対一で誰もが完結していたら、生み出す人のもとで止まってしまうのだから、言葉や音楽や文章や映像というあらゆるものは他者の目に触れなくなる。わたしたちは自分で意識しなくても世界とつながっていて、生きている限り無関係ではいられない、というのは「鋼の錬金術師 シャンバラを征く者」の台詞ですが、生きるとはそういうことなのだと思います。

誰かに向ける言葉以外の、誰に向けたものでもない言葉が、何かの拍子にどこかに流れ着くことがある。誰に届かなくてもいいと思っていることが不意に誰かに届くというのは、本当にすごいことで、喜びでもあります。違う主観に基づく別々の人間が完全にわかりあうことは絶対にできなくて、だからこそ、何かがつながったと思えること、「つながった」と感じるそれが幻想だとしても、わたしたちはそういう喜びを求めながら生きている。

音楽、絵、漫画、小説、それがどんな媒体であっても、「作品」と呼ばれるものを生み出せる人はそう多くはありません。それでもみんな言葉を持って、言葉を使って誰かと一緒に生きている。「作品」というかたちをとる必要性は必ずしもなくて、きっとなんでも良いのだと思います。自分と向き合うことで生まれる何かなら、きっといつか誰かに届くし、そのかたちはなんでもいい。わたしがなんだかんだと文章を書き続けているのも、まあ後になってセルフわかりをするためというのが9割がたの理由ではあるのだけど、何かの拍子に誰かが何か感じてくれたらいいなあとか、そんなことを思っているからなわけです。

そんなことを、アンコール1曲目の「マーチングバンド」を聞きながら考えていました。「マーチングバンド」、本当に大好きな曲なので、聞くことができて本当にうれしかったです。

 

わたしがアジカンのなかで一番好きな曲は「未だ見ぬ明日に」で、就活と部活で日々に消費されていたとき、自分をちゃんと立たせるためにひたすら聞いていた曲でした。音量大きめで流しながら、ふと見上げた夕焼けのきれいなグラデーションを、いまでも覚えている。わたしの忙しさなんて、以前もいまもたかが知れているのだけれど、それでもあのときわたしの日々にこの曲があって本当によかった。

「ホームタウン」のなかでそういうふうに思った曲が、「荒野を歩け」なんですよね。

理由のない悲しみを

両膝に詰め込んで

荒野に独りで立って

あっちへ ふらふら また

ゆらゆらと歩むんだ

どこまでも どこまでも

 

ASIAN KUNG-FU GENERATION「荒野を歩け」

いろいろなことがあるけれど人生は続くし、うれしいこともあればかなしいこともある。そういう、アジカンの大好きなところがぎゅっと詰まった曲だなと思った。わたしたちは、わたしは、それでも前を向いて生きていく。そうありたいと思う、思えるようにそっと背中を押してくれる。そういうところが本当に大好きだし、アジカンの、彼らの哲学だなあと思う。

 

わたしは自己肯定感情がめちゃくちゃに高く、いやなことはすぐ忘れてしまうたちで、そういう意味では相当ハッピーでお気楽な人生を送っているのですが、昔から「〇〇になりたい」といういわゆる将来の夢というものがないんですよね。ハングリー精神も正直ほとんどない。そういえばこれも困りましたねえって塾の先生に言われてたような気がするな。

わたしの人生が一番大事、すべてはなるべくしてなるので人生レベルで後悔していることはひとつもない、と本心で思っている。同時に、土台の部分で自分は、みんないつの間に将来の夢が明確にあるの……?という不思議8割、いやでも全員が全員なりたいものがあるわけないじゃんという疑問2割を持っていたんだろうな。

最後の1曲、「ボーイズ&ガールズ」を聞きながら、ああ、そういうことじゃないんだな、とすとんと腑に落ちた。「夢」というのは具体的な何かに限ったものではなくて、「こうありたい」「こういう自分になりたい」というのも、きっとそういうものなんだ。「始まったばかり」とうたう彼らが本当にかっこよかった。人としてかっこいい。かっこいいな、わたしもこういうかっこいい大人になりたいなと、そう思った。わたしたちはいつでも始まったばかりで、どうにでも、なんにでもなれる。職業や出会いやそういう具体的な事柄はなんでも自分の思うとおりにできるわけではないけれど、自分がどうありたいかは、いつだって自分で決められる。

 

どうしてもアジカンのライブに行きたくて、去年のゴールデンウィークに日帰りで大阪に行ったとき、MCで「楽しみ方は人それぞれで、自由に心を開いて楽しんでください」と言っていたのがとても印象的でした。今回も彼らは「自由に、自分のスタイルで楽しんでね」と言ってくれて、なにより彼ら自身が本当に楽しそうで、あの空間と時間がわたしは本当に楽しかった。

自由とは日々拡張されていく概念、ということを、少し前から考えています。世界は日々アップデートされていき、情報はどんどん容易に手に入るようになって、余白部分の解像度はどんどん上がっていく。いままでうまく言えなかったこと、目を向けず認識しないままでいたこと、そういうものが認識を経てかたちを得て、わたしたちの主観は拡張されていく。世界が広がるほどに、昨日までなかったもの、価値観、そういうものが増えるたびに、わたしたちは少しずつ自由になれる。

昨日のライブの最後、「解放区」をわたしははじめて聞いて、アジカンはまた、いままでよりも自由になったんだなあと思いました。

彼らの楽しそうな姿がまぶしくてうれしくて、とてもかっこよかった。わたしの世界はまだまだ狭くて、知らないことも思い至らないこともたくさんある。生きているかぎり、そういうことだらけなのだと思います。それでもわたしは、もっと自由になりたい。こうありたいと思う自分でいたいし、もっとこうなりたいと思う自分に近づきたい。昔は苦手だった「考える」ということをようやく少しずつできるようになってきて、わたしは絶対に小さい頃よりも自由になれた。だからもっと色々なことを自分のこととして捉えて考えられるようになりたいし、「考える」というフィールドのなかでもっと自由になりたい。わたしはどうだろうと自分に問いかけて、自分と向き合いながら、わたしの、わたしだけの人生を生きていきたい。

うれしいことだけではない、かなしいこともつらいことも大変なこともたくさんある、予想できない日々に振り回されながら、それでもわたしは生きていく。どんなときでも前を向いていたいと思いながら。わたしはもっと自由になれる。わたしがそう思う限りいつだって、わたしのこれから先は、まだ始まったばかりだ。