基本的に壁打ち

長文たち Twitter→hisame_tc

光ある人生・前編 ―「風が強く吹いている」感想

「風が強く吹いている」についての文も3本目となりました。最終話を見た翌朝に1話をあらためて見返したところ、ラストのこのカットに感情が爆発し、勢いのままに運命とはなんぞやという文を書き、そして全話見返したり小説を読み返したり噛み締めたりしていたらいつの間にか5月も終わりに差し掛かってしまいました。

f:id:tc832:20190513084655j:image

この記事を読んでくださっている方々は風視聴済の方がほとんどかとは思いますが、もしまだ読んだり見たりしていない方がいたら、ぜひ「風が強く吹いている」という作品に触れてみてください。原作は2006年に世に出た三浦しをん先生の小説で、アニメは2018年10月から2019年3月にかけて全23話で放送されました。

ツイッター脊髄反射で打っているので「いまからでも間に合う!」というような言い方をしてしまうこともあるのですが、本当は、作品に触れるタイミングに「間に合わない」ことなんてありません。読んでみようかな、見てみようかなと思ったときが、きっとその人にとってのタイミングなのです。「めぐりあわせ」や不思議なご縁とはそういうものなのだと思います。

この感想文はアニメの感想を中心に書いていますが、小説風が魂に刻まれているので息をするように小説の話もします。アニメ視聴済・小説未読のみなさんはぜひ小説もお手にとってみてください。

 

13話時点と最終話後に書いた文のリンクも貼っておきます(宣伝)。

前置きが長くなりました。そんなわけで「風が強く吹いている」感想文を始めますが、書いているうちに当初の予想を裏切りトータル20,000字越えが見えてきたので、今回はひとまず6話までを中心とした前編です。

 

■構成という全体図の緻密さ

私は初見時はストーリー進行に意識のほとんどを向けては毎回「続きは!?」となっているタイプなので、すべてを知ったうえで見る2周目での気付きなのですが、アニメ風は各話1話分のまとめ方と各回のつながり、エピソードを貫くテーマの描き方、そして23話というシリーズ全体を俯瞰したときの流れが実に見事です。

例えば、1話で走を見つけた清瀬はすでに彼の足元に光の筋を見ているわけですが、1話の次にこの演出(流星演出と勝手に呼んでいます)があるのは12話の記録会です。このとき走は清瀬の「走るの、好きか?」を思い出しており、そして加速し1着、覚醒の片鱗を見せるわけですが、12話までのなかで走を追ってくる(走が追われていると感じている)のは高校時代の榊やコンビニ店員など、やり直せない過去や逃避しようとしている現実ばかりでした。

6話において、清瀬はうまくいかない現状に苛立つキングに対して「明日も明後日もその先も、やるべきことに変わりはないだろう。いつだって目の前にあるのは現実だ。なら、逃げるんじゃなくて、いっそ一緒に走ってみればいいんだ。現実と」と言いますが、まだ向き合う覚悟を決めあぐねている走は7話の記録会後、「一緒にチームを導いてやれ」と言う藤岡に言葉を返すことができないし、みんなと別れて一人走って帰ってしまいます。しかし、9話の応援や10話の王子との特訓を経て、走はようやく自分のこれまでとこれからに向き合えるようになる。そうして迎える12話でようやく、走を追いかけてくるのは苦い経験ではなくなるのです。

全体の折り返し地点と言える13話、過去のノイズは幸福な現在にも届きますが、みんなと一緒に走りたいと走の心はすでに決まっているし、自分や仲間とちゃんと向き合うことを決めている。そして走り出す、ようやくなんの迷いもなく一歩を踏み出した彼のことを、もう何も追ってはきません。

向き合わず逃げようとしている者にとって、過去や現実はどんなに逃げても追ってくるものですが、向き合い、ともにあろうとする者にとっては背中を押す存在となることもある。自分と向き合うということは時に苦しく、なあなあにしたままでいたほうが楽だと、目を逸らしたままでいたいと思うときもあるけれど、それらは逃げようとするからこそ追ってくる。逃げようとする限り逃げられない、けれど共に歩もうとすればもう追ってはこない、そういうものなのだと思います。

このように、単発の回やエピソードごとに切れることなく、心情の機微や変遷が流れとして、あるいはグラデーションのように非常に丁寧に描かれていました。各場面や演出が地続きのものとして繋がりあっているからこそ、フォーカスする部分ごとに様々なことを受け取り、考えることができる。これはファンとして本当にありがたいことで、そういう重層的で多面的な描き方をしていただいたことが本当に嬉しいです。

OPの切り替わりは12話ながら、私は1話から13話が前半、14話から23話を後半と捉えています。前半を貫くテーマとしては「自分と向き合うこと」が、後半を貫くテーマとしては「前へ進もうとすること」が描かれていると感じました。再構成に関しては前述のアニメ化という翻訳 ―「風が強く吹いている」13話に寄せて - 基本的に壁打ちで書いたことが全てなのですが、小説からの再構成が本当に見事で、見返すたびに新たな気付きや発見があります。物語の筋や演出がぶれることなく、大きな流れのなかで様々なテーマが共存しているということを考えるたびに、いったいどれほど全体図を緻密に組み立てていたのだろうと、感謝の気持ちでいっぱいになっています。

 

■全体の基盤としての関係性描写

1話における清瀬の突然の箱根宣言に対し、2話・3話ではそれぞれが困惑や抵抗を示します。小説では割ととんとん拍子で箱根を目指すことになりますが、アニメでは各々がどうやって箱根へ向かうかという心情の変化をとても丁寧に描いていました。この差は小説・アニメそれぞれにおける清瀬というキャラクターの違いゆえだと考えているのですが、この話はあとで詳しくします。小説では地の文や細かな会話で生活感やそれぞれの距離感、関係性を感じとることができます。2話・3話には、物語の土台となり今後の質感を左右するそういったディテールがたくさん含まれていました。

2話は清瀬の暴君っぷりが際立ち、もしかしてわざとお風呂壊したな……!?という笑いどころに、銭湯での意地の張り合いという大学生らしさもありました。アニメの清瀬、めちゃくちゃ大学生らしいんですよね……年相応……。

他方、ニコチャンには他のみんなとは異なる背景があることを示唆する伏線も盛りだくさんでした。ランニングから帰り煙草を吐き出して苦笑ぎみに「……無理だ」と呟いたり、銭湯でわざわざユキに賭けを持ち出したり。公園でばったり走と出くわしたとき、日の中にいる走に対してニコチャンは影の中に立っているんですよね。ここでは日の中といっても夕焼けですが、今度はニコチャンが走を影の中から真昼の日の中に引きずり出す夏合宿の一幕と合わせると、彼らの日々……!!という気持ちになります。

私はユキとニコチャンの関係性と距離感が大好きなので、ユキが「煙草のにおい、しないなーと思って」などと言い出したときにはもう、あの、あのさあー!?という気持ちになり……仲良しだな……!?オープニングでも仲良しだもんな……!?ユキ、ニコチャンのことをめちゃくちゃよく見てるんだよな。よく見ているからニコチャンの未練を感じとるし、無理を押していることにも気づくんですよ。お弁当事件とか……そしてこれが一方通行ではなくて、ユキがニコチャンのことをよく見ているように、ニコチャンもユキのことをよく見ているんですよね。だからこその、6区から7区へ襷がわたるときの「やると思ってた!」なので……。

ユキとニコチャンについて、小説でもこの二人は馬が合っている描写が多いのですが、アニメを見ていてもしかして小説よりも仲良しさんだな……?という気持ちになっていたところ、6区を見て完全になるほどね!?!!?という気持ちになりました。これについては後述します。

10人もいればそれぞれに全く異なる関係性があり、誰と誰は特に仲が良いという密度のグラデーションも生まれます。前半では特に、そのあたりの描写に多くを割いているという印象を受けました。3話、清瀬がユキを追ってクラブに突撃してきますが(まさかジャージでくるとは思わなかった)、おせちを盾にユキを言いくるめる清瀬の描写がなかった代わりに、二人の互いに対する良い意味での無遠慮さがよく出ていました。優位に立つ清瀬が坂の上のほう、ユキが下のほうに立っているカットが印象的です。清瀬とユキ、お互いに対してどこか遠慮がないんですよね。そしておなじく同学年のキングはというと、どこか距離があるように感じられる。なんとなく一緒にいることが多い組み合わせ、というこれらの細かな描写が、8区のキングの独白に一気に質感を伴わせるのが本当にすごいと思います。積み重なった彼らの日々、彼の4年間なんですよ。そしてストーリーを追うことに意識を向けているとするっと過ぎ去ってしまうような自然さなのでわざとらしくない。微妙に異なるそれぞれの人間関係の描き方がめちゃくちゃに上手い……すごい……。

後になってわかる、という点でいえば、3話で清瀬が超自分理論を展開してユキを説得するとき、清瀬の背後に貼られた映画のポスターは「勝手すぎる奴」でした。王子に退去を迫る2話のタイトルは「鬼が来りて」ですし、全員をなんとしてでも走らせるというまさに「勝手すぎる奴」で、これまでの強引さを象徴する笑いどころなのですが、全てをふまえて見ると、同じ「勝手すぎる奴」でも受ける印象が全く違う。清瀬は勝手すぎる奴なんですよ。竹青荘というひとつの太陽系の中心で重力と引力によってみんなを振り回す。ただ、これもどちらかというと小説の清瀬のほうがアニメよりもずっと勝手すぎる奴だと思います。FGO勢はわかってくれると思うんですけど、小説清瀬はロマニ・アーキマン、アニメ清瀬はベディヴィエール的なところがあるので……小説とアニメにおける清瀬の違い、永遠にろくろを回してしまう。

 

■無数の価値観、それらを貫く問い

さて、最初の節目といえるのは間違いなく4話「消えない影」でしょう。竹青荘それぞれの日常がメインに描かれていた3話までに対し、4話では走の内面にフォーカスしていました。榊との再会を機に、否応なくこれまでの自分の生活と向き合わなければいけなくなる走の心情を表すように、4話ではずっとどんよりとした曇り空です。しかし今では、ずっと孤独を抱えてきた走に声をかけてくれる人がいる。

王子、なんだかんだ言いつつ、一人の走に声をかけて、友達と行くところだったごはんに誘ってくれるんですよね。それと王子の友達も、初対面の1年生を快く迎え入れて一緒にごはんを食べてくれるあたり、超いい人たちじゃないですか?たぶん王子が練習でサークルの活動にあまり参加できなくなっても、「競技者としての君の新たな解釈が聞けるのを楽しみにしている!」とか言って超応援してくれそうで……たぶんみんなツイッターで1区実況してたと思う。

私は王子が大好きなのですが、王子は確かにオタクだし超文化系として生きてきているんですけど、でもちゃんと社会性のあるオタクじゃないですか。まったく違うタイプの人々である竹青荘のみんなともそれなりに仲良くやっているし、何より人の価値観を否定しない。あれだけ走ることが嫌いなのに、それでも走る選択をできたのは、たくさんの漫画に触れることで得た共感性の高さと未知の世界に対する心理ハードルの低さゆえではないかなと思います。あれだけの量の漫画に無限の情熱を注げるということは、自分の知らない世界に対する想像力がしっかりと培われているということだし、自分が親しんでいない分野に対しても極端な拒絶はしない。なにより、23話で清瀬に対して「好きにお走りなさい」と笑って送り出せるのは、8人のなかだったら王子しかいないのではと思うんですよね。王子本当にめちゃくちゃ好き……私も王子のようなオタクでありたい……

走と王子のやり取りとともに、4話では、清瀬と走、清瀬と王子の会話も印象的に描かれていました。前編を通して繰り返される主題のひとつである「一人でいても、本当は一人ではなくいつも誰かの存在が共にある」が最初に出てくるのはこの回です。清瀬の言葉を聞いても「……よく、わかりません」と会話を終わらせようとする走に対して、清瀬は今はまだわからなくてもいい、というようなやわらかい表情をしていました。それはまだ走が竹青荘で暮らし始めて日が浅いからなんですよね。今はよくわからなくても、これからみんなと暮らし、走っていくなかでわかっていけばいい。それは現時点では、ということであって、だから8話のように、いっこうに自分自身やみんなと向き合おうとせず速さ以外の尺度の存在を切り捨てようとする走に対しては、清瀬はそれだけではだめなのだと正面からぶつかるのです。

清瀬は王子の価値観である「人生に大切なことはすべて漫画が教えてくれる」に理解を示します。王子は走ることが本当に嫌いですが、そんな王子がなんだかんだと抵抗しつつも走るのは、清瀬が自分の価値観を認めて尊重してくれるということをわかっているからではないかなと思っています。

相手への理解を示した4話に対し、9話ではそこから更に一歩踏み込み、清瀬と王子はそれぞれの話に対して「自分には難しい話だ」と距離を示しました。王子は「走ることの意義を問い直し、人が走ることの感動を追体験できる」と語る清瀬に対して、清瀬は「同じ漫画を読んでいると、呼吸さえもシンクロし、言葉以上のものを共有できたように感じることがある」と語る王子に対して。自分には難しい話だと正直に伝えることは、ときに言葉のうえで理解を示すことよりもよっぽど難しい。清瀬と王子は、そのうえでお互いの話の本質を見つめており、全く違う事柄のなかにも共通する何かがあるということへの理解を言外に共有しています。そしてその「共通する何か」とは、清瀬が走に語りかけた「一人でいても、本当は一人ではなくいつも誰かの存在が共にある」ということなのではないかと思います。

清瀬と王子は文学部の先輩後輩でもあり、そういう観点からもこの二人は仲が良いのだなあと色々な場面で思わされますが、本来全く別のタイプである二人の関係性は、やはり異なる価値観の存在の認識という土台があるからこそなのではないかなと感じました。異なる価値観を「認める」わけではなく、当たり前のものとして「ある」ということ。自分が認めて受け入れるまでもなく、そもそも多様な尺度があるということは、裏を返せば全く同じ尺度など一つもないということです。大切に思うことや自分の人生の比重を大きく占める存在は人によって異なり、万人をはかる絶対値としての尺度は存在しません。

「この人たちが仲間かどうかはよくわからない、けど、少なくとも僕を、僕の嗜好を、価値を、ちゃんと認めてくれているんだ。この人たちにレベルの高い低いは存在しない。あるのは、それぞれが誰なのかということだけだ!」

 

アニメ『風が強く吹いている』第4話「消えない影」

一方で、清瀬と王子が全く異なる話から同じ本質を見つめたように、繋がらないように見える事柄どうしが何かを介して結びつくことも確かにある。そういった普遍的な価値観、あるいは永遠に答えの出ない問いこそが、本作の核である「強さとは何か」なのではないでしょうか。

 

■「無限の選択肢」は虚構か

4話のラスト、走は清瀬の言葉を受けてようやく新たな一歩を踏み出します。続く5話と6話は、まさに5話タイトルである「選ばれざる者たち」の話でした。それは清瀬のことであり、素人ながらも走ろうとし始めた者たちのことであり、なかなかご縁が繋がらないキングのことであり、あるいは、どこにでもいる普通の人々のことなのだと思います。

個人的に、就活を経た今、キングの就活のエピソードを見ることができたのはとても幸運なことでした。「就活」というあの独特の空気には、やはり自分が体験してみなければわからない何かが含まれているように思います。

5話冒頭の合同説明会にて、ポスターは「あなたには無限の選択肢がある」と掲げますが、そんなコピーとは裏腹にキングのもとへは無慈悲なお祈りメールが届きます。苦しい状況のなかでもがくキングとは対照的に、神童はいきいきと練習に取り組み、後援会勧誘に奔走している。ニコチャンは走ることを捨てきれないから針金人形を作り続け、ユキは自分が一歩を踏み出すための理由と納得を見出だそうとしている。彼らはそれぞれ、自身を取り巻く現実、あるいは自分自身と向き合い、何かを見つけようとしています。そしてそんな彼らの姿を通じて「『走る』とは何か」という問いが走に、そして私たちに投げかけられるのです。

「傷つくだけじゃないですか。現実を見せてどうするんです。みんな素人なんですよ」

「本当にそうなのか?」

「え?」

「選ばれた者にしか許されないのか? そういうものなのか? 走るって」

 

第5話「選ばれざる者たち」

「わかりません。あなたの言う走るって、なんですか」

「それだよ走」

「え?」

「俺も知りたいんだ、走るってなんなのか。走るってどういうことなのか」

「わからないってことですか」

「答えはまだない。ようやく走り始めたばかりだからな」

 

第6話「裸の王様」

「選ばれた者」である走は、これまで走ることそのものについて考えることや自分に問うことはなかったのだと思います。同時に、これまで走ることを好まない・さほど思い入れがない人々と関わりあう機会も少なかったのでしょう。問いかけというスタートに立ち、ようやく走の世界が拡張をはじめます。

さて、6話において、自分には自分の人生があるとかたくなな姿勢を崩そうとしないキングに対して清瀬が「おまえは俺たちのためにいる」「俺もおまえたちのためにいる」と言いますが、思い返せば3話でユキともよく似たやり取りをしているんですよね。ユキもキングも自分は清瀬の勝手な夢のためにいるわけではないと反発しますが、ユキに対しては「確かに」とあっさり引き下がる清瀬は、キングには自分だってみんなのためにいるのだと言う。3話の部分でも書きましたが、これが現時点での清瀬とユキとキングの関係性の差なんですよね。そしてそんなキングが、1年を経て「もうおまえ一人の夢じゃねえんだ。俺たちの夢なんだ」と思うようになるという……!
中学生の頃は大学生ははるか大人で、遠い存在だったけれど、年齢を通り越した今になるとキングの人間らしさが一番胸に迫るんですよね。選ばれたい、認めてほしい、でも踏み込まれるのはこわい。そういう部分は、多かれ少なかれ、きっと誰にでもあるのだと思います。
身体能力でも芸術性でも、あるいは人間性においても、才能というものが明確に存在する以上、絶対にそこに差は生まれます。突出した才能という意味における「選ばれた者」なんてこの世にほんの一握りしかいない。それではそんな少数の人間しか夢を抱くことも目指すことも許されないのかといえば、清瀬が言ったように、決してそんなことはない。
9人のなかで最初に箱根を目指すことを宣言した神童もまた、走のような「選ばれた者」ではありません。でも、彼は他人にやらされるのではなく、自分の意志でやると決め、その目標のためにどんどん行動を起こしていきます。明らかな才能や特定の競技・分野との運命的な出会いを持たない人々とは、言い換えればほとんどの、どこにでもいる普通の人々です。そんな私たちにとって、強い思い入れや感情は、ときに渦中に飛び込んでみてはじめて生まれる実感です。
私の感想文なので唐突に私の話をしますが、運動神経皆無のくせに大学では体育会系の部活をやっていました。その競技がとても好きだったわけでもなく、単に新歓期によくしてもらったという理由だけであっさり入部し、練習に追われるうちにいつの間にか4年生になって引退して、そして卒業してしまった。体力も技術もセンスもなくて、大会で特別輝かしい成績を残したわけでもないし、本当に部活ばかりで終わってしまった大学生活だったけれど、あの3年半は私の人生に絶対に必要なものだった。
だから、今だからこそ、神童の言葉がこんなにも刺さる。 

「好きだから本気になるんじゃなくて、本気になってみたら、もしかしたら」

 

第6話「裸の王様」

やる前にはわからなくても、やってみたらわかることがある。それほど思い入れはなかったはずが、自分にとってかけがえのないものになることがある。それは、数年前の私には字面でしかわからないことでした。
「あなたには無限の選択肢がある」とキャッチコピーは謳うけれど、無限の選択肢とは自分が希望する通りに物事が進むということではない。世の中には選ばれた者と選ばれざる者がいて、選択肢は本当は無限ではない。それは真理であるけれど、代わりに、その中で自分が何を選び、どうありたいかを決めることはできる。「無限の選択肢」は虚構かもしれないけれど、持てる選択肢の中から自分の意志で選び、決めることはできる。

誰の姿に何を見出すかは受け取り手によって異なるし、前は気づかなかったことに、時間が経ってから思い至ることもあるかもしれません。彼らはそれぞれ、自分の意志で前を向き、走り始めます。その姿に、私たちはそれぞれ何かを感じ、受けとるのです。

 

 

ここまでの字数をカウントしたら8700字くらいでした。まだ13話の話も葉菜子の話もユキの話も清瀬と走の話もしていない……一体何字になるんだ……。

感じたことや考えたことを出力しきるぞという気持ちで書いているのでとても気力と時間がかかるのですが、めちゃくちゃ楽しい。大好きだから妥協せずに最後まで走り抜けたいです。それではこのあたりで。今回は以上です!

 

追記:中編はこちら。

 

運命の必要条件

「やはり思うだけじゃだめなんだなあ。願いは口に出して言うべきだ。運命は自分で手繰り寄せるしかない」

アニメ『風が強く吹いている』第1話「10人目の男」

 

アニメ「風が強く吹いている」の放送が終わってしまった。最終話である第23話「それは風の中に」はひとつの作品の終わりとして本当に素晴らしく、10年以上「風が強く吹いている」という作品を愛してきた身としてはアニメによる小説へのアンサーに胸がいっぱいになった。

最終話を視聴した翌朝(今朝)に第1話を再び見返したところ「もう一周しつつ感想をまとめようかな」という気持ちが覚悟に変わったため、詳細な感想は後日文にするとして、取り急ぎ、「運命」とは何なのだろうかという話をしたい。

 

なお、本記事はこの関係性がだいすき2019でもあるため、「風が強く吹いている」の内容およびネタバレは含みませんが、風履修勢は大手町のゴールに思いを馳せながら読んでください。まだの方は今からでも間に合うので小説を読むかアニメを見てください。

 

以前、ハッピーエンドの要件とは「自らの意思で選択し、その選択を互いに尊重しあうこと」ではないかという記事を書いた。「相手のことが好き」という感情は必ずしも恋愛関係やフィジカルな性欲とだけ結び付いているわけではなく、様々なバイアスを取り除けば本来は非常に幅の広い感情であり、関係性の向かう先もまた本来は当事者間の意思と選択のみによって決定されるのではないか、というのが主な内容である。

当時は恋愛関係だけが全てではないという主張に重きを置いていたのだが、様々な作品や色々な人の感想、意見に触れて考えるうちに、今では「自分の意思と選択があるかどうか」というシンプルな観点に落ち着いた。物語の展開のための変化ではないか、そのキャラクターや関係性がそうなるべくしてなる整合性があるか。物語の枠外の様々な要因に左右されるのではなく、こういう経過を経てここへ至るのだなあと思えるような物語、キャラクター、関係性が好きだ。結局のところ私は、その物語やキャラクターたちが、何を思い何を選び取り何を選ばず、そして自らの赴く先を決めるのかという部分に一番惹かれるのだと思う。

とある二者、あるいは複数人の関係性を愛する人々にとって、「運命」という言葉は時に大変な重みを持つ。「これは運命だ」と天啓のように脳裏に一閃することもあれば、「あれは運命だった」とゆっくりと染み渡るように思い至ることもある。物語の受け取り手は、物語のなかで提示されたすべてと自分の経験や価値観を総動員して自分だけの解釈をかたちづくる。その結果として彼ら・彼女らの間には確かに「運命」があると、そう思うとき、それは受け取り手本人にとっては確かにひとつの真実である。

 

では、私たちは、何をもってそこに「運命」があると感じ取るのだろう。その前に、「めぐりあわせ」としての運命とは、そもそも何なのか。

「運命で全てが定められているのなら、意思による選択は存在しないのではないか」と考えたことはないだろうか。仮に、ある事象とその結果が人間の意志にかかわりないところであらかじめ定められているとするなら、その結果にならないよう手を尽くして別の結果へと至ったとき、抗うこと、その先の異なる結果も実は最初から定められていたのではないか。自分の意思で運命に抗ったつもりでも、その抵抗ももとより運命によって決められているのなら、自分が考え選択した行動、ひいては自分の意思とはどこにも存在しないことになってしまうのではないか。

この問答を突き詰めるとそもそも自分の意識以外のものは実在するのかという問いにまで到達してしまうので早々に切り上げるが、ここで着目したいのは、運命とは与えられるものなのか、あるいは選び取るものなのか、ということである。受動的か能動的かと表現することもできるだろう。あらかじめ定められ与えられるものとして考えるなら、それは受け入れるべきものであるし、自分の意思で選び取るものとして考えるなら、そのためには自分の求める結果に向かって進んでいくべきである。前者は「結果を受け入れることで前進する」、後者は「前進した結果を受け入れる」と表すことができる。これらはコインの裏表のような捉え方であり、結局のところ、どう捉えるかという角度の違いでしかないのだ。

「めぐりあわせ」としての運命それ自体は、おそらく中立的なものだ。良いめぐりあわせならそのまま受け入れ、悪いめぐりあわせなら変えたいと抗うのは個人の恣意的な捉え方にすぎない。きっと、良いめぐりあわせ・悪いめぐりあわせというように最初から分類されているものではないし、自分の人生のどの部分を切り取って運命とみなすかは考え方次第である。

 

「めぐりあわせ」としての運命そのものについて考えたところで、次に関係性における「運命」へと目を向けたい。読者・視聴者が作品から読み取る関係性に様々な運命を見出すとき、そこには何があるのか。私たちは、なぜそういう関係性に惹かれるのか。

誰しも、そのときどきによって悩んでいることや突き詰めて考えていること、探しているものや追い求めるものを抱えながら生きている。それらは人によって異なり、ある人にとっては些末なものが別の誰かにとってはこれ以上ないほどに重大だったりする。人によってあまりにも違うために完全に凹凸がはまることは滅多になく、その代わりに、完全には理解しきることはできなくても最大公約数のような理解のもとで共感したり、理解しようと歩み寄ることはできる。

ほとんどの人にとって、人生とはきっとそういうものなのだろう。相手と上手くはまる部分とはまらない部分があって、そのうえでなんとか相手のことを知ろうとしながら生きている。それでも稀に、歯車が完全に噛み合うことがある。自分が求めていたまさにそのものを相手が持っているとき、自分の人生に相手が完全に溶け込んでいるとき。そしてそれに気づいたとき、強烈な引力が発生する。「運命」とは、きっとそういうことだ。

前述の通り「めぐりあわせ」はニュートラルな出来事であり、良い・悪いという基準は存在しないが、一方で気づくか気づかないか、認識するかしないかという基準は確実に存在する。気づくこと、認識することとは言葉にすることであり、言葉にすることとはかたちを取ることである。認識されないものは「ない」ままに通り過ぎていく。ある事象、ある因果関係は、認識されなければそもそも「めぐりあわせ」としての運命になる前提にすら立てない。

気づくこと、認識することではじめて運命は運命としてのかたちをなすのなら、その意味において、運命とはただ与えられるものではない。意思による選択、その結果を認識することで、ただ過ぎ去っていくはずだっためぐりあわせは、「運命」になるのだ。

 

フィクション・ノンフィクション問わず、小説や漫画、アニメ、映画、舞台等、様々な作品を通じて、私たちは自分以外の人生を垣間見る。全ての人にわかりやすくドラマティックな事象や出会いがあるわけとは限らないし、人はどうしたって自分の意識に基づいてしか認識や経験という実感を得られない。だから、作品を通じて他者の人生や経験を想像することで、自分だけでは知ることのできない世界の一端に触れようとする。そうしてはじめて触れるものは、様々な体験や感情をもたらし、想像という余白を拡張して自分の人生を豊かにしてくれる。

私たちが現実に生きていくうえで、ぴったりと合致する存在に出会うことは本当に稀だ。だからこそ、めぐりあわせが「運命」へと変わる瞬間や、互いに強烈な引力で引き合う関係性は、私たちを惹き付けてやまないのだろう。そしてその関係性に「運命」があるからといって、両者がずっと物理的に共に過ごしていくかというとそうとは限らない。ある部分では完全にぴったりと当てはまったからといって他の部分は当てはまらないことはなんら不思議なことではないし、行く先が別たれたとしてもお互いの歯車が完全に噛み合った事実は消えない。両者がそれぞれ自分の意思で答えを出し、双方の選択を互いに尊重することがハッピーエンドの必要条件であるように、そこにある、そこにあった「運命」は各々の中に残り続ける。物語の中の彼ら・彼女らも、物語と受け取り手も、もう出会っているのだ。

 

最後に、これは個人的な意見であるが、私は運命とは誰かに与えられるものではなく、選び取るものであると考えているタイプだ。こうありたいと願い行動することではじめて開かれる道があると思うことは希望だし、性格的に向いている。そして不思議なことに、素敵な作品体験をもたらしてくれる作品に対して「ほかでもないいま、出会うべき作品だった」と感じることが多い。私のいまは、私が出会い受け取ってきたすべてによって成り立っていると、そう思う。物語のなかで鮮烈に描かれるような「運命」は稀ながら、自分の人生をかたちづくる様々な運命は、意外と身近に溢れているのかもしれない。この記事を書くに至った一番最初のきっかけといえる小説「風が強く吹いている」を読んだのも、勇気を出して先送りせずにいまアニメを見ると決めたことも、きっと運命だった。

 

アニメ風に関するブログはこちら

アニメ化という翻訳 ―「風が強く吹いている」13話に寄せて

「走、走るの好きか?」

 はじめて会った夜にも聞かれたことだ。走は言葉に詰まった。

「俺は知りたいんだ。走るってどういうことなのか」

 

『風が強く吹いている』(三浦しをん) 二、箱根の山は天下の険

 

本記事には小説「風が強く吹いている」およびアニメ13話までの内容が含まれますが、あらすじや展開のネタバレはありません。演出については最後にすこし触れます。

未履修のみんなはぜひ「風が強く吹いている」を読んだり見たりしよう!!

風が強く吹いている

風が強く吹いている

 

 

2006年に世に出た三浦しをん先生の「風が強く吹いている」が、2018年ついにアニメ化された。私が小説「風が強く吹いている」を学校の図書館で借りて読んだのは確か中学2年生のときで、気づいた頃にはすでに必ず毎年お正月に箱根駅伝を見ていた私は2日ほどで小説を読破し、そして本作品は、私の人生にとって最も大切な作品のひとつになった。冬が来て箱根駅伝の季節の足音が聞こえてくるたびに何度も読み返し、背表紙の折り返し部分の臙脂色が少し剥げた文庫本は私の宝物で、10年近く、あるいは10年以上ずっと好きで大切にしている作品はもう完全に私の一部になっていると、そう思っていた。

そこで、2018年、アニメ化。アニメ化である。正直「えっ今?」と思ったし、好きすぎる作品ゆえに若干不安な気持ちもあった。でも、違った。1話を見始めた瞬間、杞憂以外の何物でもないそれらは全部消し飛んだ。そこにあったのは、アニメというかたちに完璧に再構成された「風が強く吹いている」だった。

ずっと大好きでいる作品が、時を越えて最高のアニメとなってやってきてしまったのである。

 

小説でも、漫画でも、アニメでも、ドラマでも、映画でも、ゲームでも、楽曲でも、絵画でも、舞台でも。それがどんな媒体であれ、作品に触れるということは自分の知らない世界に触れることだ。未知に触れ、出会わないままでいたかもしれないものと出会い、そうして自分の世界は拡張されていく。作品体験とは、物語そのものだけではない。作品に出会った経緯や、夢中で物語を追う瞬間の息苦しいほどの高揚、その作品に触れている瞬間の温度や場所、そして感想まで含めて、自分自身だけの唯一無二の体験として人生の一部になるのだと思う。

作品の媒体は完全に並列の関係だが、アニメ化が「映える」作品というものは確かにある。スポーツを題材とした作品は例としてわかりやすい。例えばその競技に長年向かい合ってきた読者と、その作品に触れることで初めてその競技の世界を垣間見ている読者では、作品体験は明らかに異なるだろう。想像の余地が無限にあるということは、翻せばその想像のための土台がなければ全く想像ができないかもしれない、ということになりうる。

その点で、作品が扱う分野をこれから知る読者、あるいは視聴者にとって、視覚で理解できるというのは非常にありがたいことだ。ページをめくっていたときには自分の脳内のみに留まっていたものが、色と動きと声と音で彩りを増す。曖昧な輪郭しか持たなかったイメージ、あるいは想像の及んでいなかった部分が、ひとつの明確なかたちを取って眼前に現れる。想像の及ばなかった質感や、音や、疾走感を体感することができる。それがアニメの特徴であると思う。

一方、ではなぜ「声が違う……」や「楽しみなのに見るのが怖い……」というファンの複雑な感情も確かに存在するのかといえば、それは無限にあった想像という余白がなくなるからではないか。

たったひとつのかたちを取るということは定義されるということだ。思い浮かべていた、自分の想像の中の声や容貌は、定義されたキャラクターを前に行き場を失う。アニメ化が決まる以前からその作品を追っていた読者のほうがそういった複雑な感情を抱く可能性がより高いのは、自分の中の想像や感想や解釈が既にある程度強固に形成されているからだろう。

アニメ化だけではなく、実写ドラマ化、実写映画化も同様だ。私が今回、アニメ風を見るにあたってわずかばかりの勇気が必要だったように、大好きな作品だからこそ、そのかたちが変わるのがこわいのだ。

 

アニメ「風が強く吹いている」第1クールを一気見したところ感謝の気持ちと様々な感情が最高潮に達したため、今私は小説を読み直している。

アニメと同時並行で小説を読み返すと気づくのは、結構な部分で差異があるということだ。しかもおもしろいことに、小説を読んでいてもアニメを見ていても、両者の差異に対して、ネガティブな「改変された」「付け加えられた」という気持ちが一切沸かない。ひたすらに、「ここをこう補完するのか……!」と唸ったり「ここがこうなるのかあー!!」とひっくり返ったりして、アニメの再構成の巧みさに感謝でいっぱいになっている。

アニメ風、特に各々がどのような心境の変化を経て箱根に向かうのかという部分では、小説にはない描写が大半だ。小説の一部分がひとつのエピソードに膨らまされている箇所ももちろんあるが、体感ではアニメで新たに描かれた描写のほうが多いように思う。だって小説では、清瀬箱根駅伝を目指すと言ったあの宴会の席で(走の本気を除く)全員がもう箱根を目指すことを決めているのだ。キングの就活話はないし、ユキはあっさりとランニング用のシューズを買ってくる。おそらくアニメ14話が満を持しての王子回だが(心の底から楽しみにしている)、小説では早々に全員が公認記録をクリアしている。そしてこれだけ変更点があるのに、変わっていることにも追加があることにも全く違和感がない。小説どおりの描写も、アニメで新たに描かれた描写も、完全に地続きでひとつの物語をかたちづくっている。

いわゆる「アニメオリジナル」を本筋に差し支えない範囲で原作のストーリーの合間に差し込まれるシーン、あるいは数話分として定義するなら、アニメ風における描写の補完は「アニメオリジナル」を越えている。このメディアミックスで行なわれているのは、紛れもない翻訳だ。

 

先ほど作品の媒体は完全に並列の関係であると書いたが、媒体ごとの特徴は当然全く異なる。

世界大百科事典 第2版では、「一般に翻訳とは、ある自然言語の語・句・文・テキストの意味・内容をできるだけ損なうことなく他の自然言語のそれらに移し換えることをいう」(抜粋)とある。日本語を英語に訳すときに直訳をすればよいわけではないように、日本語では同じ単語でも英語ではニュアンスの異なる複数の単語があるように、言語の変換は機械的に行なうだけでは不十分だ。オリジナルの文脈における意味や内容や本質を損なわないように、その言語の特徴を捉えながらかたちを変える。そうしなければ、適切には伝わらない。

小説や漫画というかたちで生み出されたものを、映画やアニメ、ドラマ等の別のかたちに変えることは、言語の変換に似ている。ただ漫画に色と声をつければアニメになるわけではないし、台詞と情景を文に起こせばノベライズ小説になるわけではない。小説で描かれた物語を、アニメというかたちに翻訳する。その作品を、作品の根底に流れる本質を受け止め、解釈し、それらを損なわないように、ちゃんと伝わるように、丁寧に丁寧に別のかたちとして再構成する。小説には小説の、漫画には漫画の、アニメにはアニメの文法がある。だからこそメディアミックスに必要不可欠なのは、オリジナルの媒体の文法から別の文法への翻訳なのではないかと思うのだ。

小説は描写の分量と読者の読み進め方に対して自由度が高い。連載等は1回何字や全何回という制約があるのでまた事情が異なるのだと思うが、どのような部分、内容に描写の重点を置くのかは基本的に作者に完全に委ねられている。一冊の本を読み進める読者も同様で、「今はここまでしか読めない」という制約は一切なく、どこで止まるか、何日かけて読むかという進め方は完全に各々の自由だ。少しずつ時間を空けながら読んでもいいし、我慢できなくて夜通し一気に最後まで駆け抜けてもいい。作者にも読者にも区切りや時間という物理的な制約がないからこそ、物語として自然な流れであれば多少あっさりとした描写でも気にかからないのだと思う。

例えば同じひとつの作品で比べたときに、アニメや漫画よりも小説のほうが大人びて感じるのも、先ほど書いた想像という余白の広さの違いに起因しているのだと思う。小説では所作や表情が常に提示されるわけではなく、代わりに心情や内面の描写がゆたかだ。言語化され提示される内面は、表情や動作を手がかりに行う視聴者の想像よりもきっと整然としている。小説の走と比べてアニメの走はまだもがいている最中というような印象を受けるし、アニメのユキは意外と感情的、そして想像すらしなかったツーブロックかつ片耳ピアスである。

地の文があるからこそ登場人物の内面や背景の細部を描くことができるというのは、小説の大きなアドバンテージだ。読者が「ここからここまでは何分間で読む」という制限に晒されることもない。一方、映像になるとそうはいかない。動くということは時間という物理的な制約に縛られるということで、映画なら2時間から3時間という絶対的な枠組みの中で物語を構成しなければならない。アニメなら約24分×話数という全体構成、各話における1話分という枠組みの中での構成、全体の中での位置づけ、前回からの接続と次回への流れを組み立てなければならない。最初から「区切られた話の連続」として構成されている漫画は、各話の切れ目がある程度の目安になるのかもしれない。しかし、小説の文字をなぞるように映像にしたとしたら、きっとそれは両者の良さを殺してしまう。

小説における物語の構成の仕方と、アニメにおける物語の構成の仕方は異なる。別の文法のもとで再構成するなら、情報を提示するタイミングの改変、場面の取捨選択あるいは補完、場面の並び替えは必要不可欠なのだと思う。その再構成にあたって、原作で非常に重要だった場面や要素がカットされてしまったり、のちの展開を踏まえたらここではこうはならないという展開を追加されてしまうと、様々な悲しみを生み出してしまう。ある作品(A)とその作品のメディアミックスによって生まれた作品(B)の関係について考えたとき、あくまで原作Aが上位・BはAの派生という「原作の○○化」という認識と、BはAをもとに再構成した別個の作品という「○○のA、○○のB」という認識では、明らかにA・B両者に対する捉え方が異なる。

これは個人的な意見だが、せっかく別形態を取って自分の好きな作品が世に増えたのに、その作品を「原作の下位」として捉えてしまうのはもったいない。確かに原作があってこそ生まれた別形態だが、せっかくなら「○○としてのこの作品はこうなるのか」と考えられたほうが楽しいし、一粒で二度も三度もおいしい。

確かに自分の作品が別のかたちになった結果望ましくない状態になってしまうのは悲しいことだが、「原作どおりではない=原作から変わっているから良くない」というのは本質ではないのだと思う。オリジナルの文脈における内容や本質を損なうことがないように行われた、一貫した解釈に基づく別の文脈への翻訳と、それに伴う変更であれば、原作を知る人々も初めて触れる人々も、きっと納得してひとつの作品として受け入れるはずだ。

 

上記のようなことを、アニメ風13話を反芻しながら考えていた。ようやくアニメ風の話ができる。

先にも書いたとおり、第1クールでは各々の葛藤や心情の変遷、鶴の湯での会話やニコチャンお弁当事件などから垣間見える彼らの生活感、そして実際に走る姿が、非常に丁寧に丁寧に描かれていた。後援会や広報のためにひたむきに奔走する神童の姿や、「走る」ということに関する走とニコチャンの会話およびニコチャンとユキの会話、王子と走と清瀬の衝突とそのわだかまりの氷解、そして彼らの走り。それらが、3ヶ月かけて描かれる。アニメは1週間につき1話24分という制約があり、視聴者はどんなに先を見たくても1週間待たなければ次回を見ることはできない。時間というどうしようもないものに縛られる以上、あっさりしすぎれば展開の速さに急かされてしまうし、冗長すぎれば進みが遅く退屈になってしまう。

それが、毎回最高のバランスで繰り出される。小説を読んでいるからこそ「ここではこう思っているんだよなあ」とにこにこする描写もたくさんあるし、アニメ初出ゆえに「知っているはずなのに知らない……」とどきどきする描写もたくさんある。登場人物たちの心情の変化や関係性の機微、アニメならではのレースの緊迫感や疾走感が毎回積み重ねられていき、どんどん物語の厚みが増していく。小説とアニメを両方履修しているとなおさら、相互に作用しあってどんどん世界が膨らんでいく。メインの竹青荘の住人たちですでに10人、それに加えて葉菜子や榊、藤岡など、登場人物が多いのに、それぞれの関係性が本当に丁寧に描かれている。関係性だけではなく、そもそも10人いたら描写の多いキャラクター・少ないキャラクターという偏りが出てもおかしくない。その偏りがない。そのあたりのバランスが本当に絶妙に上手い。

そして、レースの疾走感をはじめとして、アニメならではの演出がどこまでも魅力的だ。「だが断る」の遊び心や王子のTシャツ、走のマヨネーズなど、挙げきれないほどの愛溢れる小ネタにはくすっとなるし、レースの場面、特にユキと神童のゴール前のカウントのような描写には手に汗握り、たまらなくなって声が出て自分も応援してしまう。なかでも私は王子と走の特訓が本当に好きで、ページをめくる瞬間には感情が高まって涙が出た。くわえてスマートフォンやホームページの作成など、2018年・2019年への適応のさせ方が本当に上手い。そういった細部に至るまで描写が丁寧なので、回を追うごとにどんどん加速度的に好きになっていく。

13話「そして走り出す」は、実質劇場版かテレビスペシャルなのでは……? と思うほどの熱量だった。アニメ風は小説を読んでいるのに展開がわからなくてどきどきするという貴重な体験ができるアニメなので、12話の引きのあの音で「間に入ったハイジさんを殴ってたらどうしよう……!」と本当に怯えていたのだが(何事もなくて本当によかった)、そこからの畳み掛けが……本当に……すごかった……。

ばらばらのテンポで揺れていた振り子のテンポが少しずつシンクロしていき、そしてようやく全部が同じテンポで動き出す。そういう象徴的な回のタイトルが「そして走り出す」であることに、もう、感謝しかない。

 

良い作品は何度見返しても、何度読み返しても良い。それどころか、その作品に触れるタイミングによって違う感想を抱き、新しい一面を発見する。中学生当時、高校生当時には抱かなかった気づきを今あらたに得ることができる。2006年に世に出た作品が2018年にアニメとなるということは本当にすごいことだ。

659ページで幕を閉じる文庫では、405ページから1月2日が始まる。約3分の1を占める往路と復路だけではなく、そこへ至るまでの彼らの日々がこの先どのようにアニメで描かれるのか、心の底から楽しみでならない。

 

 一人ではない。走り出すまでは。

 走りはじめるのを、走り終えて帰ってくるのを、いつでも、いつまでも、待っていてくれる仲間がいる。

 駅伝とは、そういう競技だ。

 

『風が強く吹いている』(三浦しをん) 八、冬がまた来る 

最高の聖女・マルタははちゃめちゃに良い

2部2章がド直撃した関係性オタク私の魂の叫びこと前回記事「愛しているから笑ってくれ」の最後でまた星4配布をやってくれ~!!と駄々をこねていたらまさかの現実になりました。夢だけどー!夢じゃなかったー!!
ということで、この記事は回復役・強化解除役・アタッカー・その他すべてを兼ねる万能ライダーであるマルタのプレゼン、という体でお送りする私の最高の推しの話です。

f:id:tc832:20181107082437j:image

気になっている方や、持ってはいるけど使ってないなあという方の参考になれば(なれば……)幸いです。
あと上記2章感想文も暇潰しにでも読んでやってください。18,000字、端から端まで全力でめちゃくちゃがんばって書いたので……よろしくな!!!!

 

■まずスキルがつよい
FGOは同じようなスキルをたくさん持っているとつよいというゲームだと思いますが、マルタのスキルではなんと自分の回復+自分含む味方の回復+弱体解除が全部できる!!つよい!!

f:id:tc832:20181107082518j:image

スキル1・信仰の加護では自分のHPを回復かつ弱体耐性をアップ、スキル2・奇蹟では味方全員のHPを回復かつ弱体解除をできます。火傷や毒やその他厄介なテバフを一掃し、しかもHPも回復できる!つよい!加えてこの弱体解除のタイミングを合わせれば、メルトリリスの加虐体質(攻撃力↑+防御力↓)やクライムバレエ(自分の宝具↑2ターン+他敵味方全員の宝具↓1ターン)など、本来デメリットつきのスキルをリスクゼロで使える!すごい!つよい!!!

回復量もめちゃくちゃ多くて、「信仰の加護」はレベル9で2200、レベル10では2500、「奇蹟」はレベル9で1800、レベル10では2000回復できます。ギル祭高難易度のレオニダス戦でガッツで一時はHP1になるも、その後回復に回復を重ねフルHPまで復活した実績もあるぞ!自分だけじゃなくて味方もたくさん回復してくれるの、めちゃくちゃ頼りになる!ラスト単騎になっても回復を繰り返して踏ん張ってくれるので超心強い!つよい!最高!!!

スキル3・聖女の誓いは敵単体の強化解除+防御ダウンで、アアーー宝具前に回避されてしまった……!とかこのタイミングの無敵やめてくれよ!!みたいな悲鳴を一瞬で救ってくれます。しかも防御ダウン付き……えっそんなおいしいことが……至れり尽くせりでは……?

節目のバトルや高難易度など、ここぞというシーンでたくさん助けてくれる、マルタは最高のサポーターだ!!!!

 

■アタッカーとしてもつよい

そしてマルタの最高ポイントは、サポーターとしてだけでなく自身もめっちゃ強いアタッカーだというところです。カード編成はQAAAB、つまりアーツ中心編成や単騎になったときには秒でNPが貯まるということです。そして宝具はみんな大好き赤いカード。先日の強化でめでたくタラスクにバスターアップがつきました。

f:id:tc832:20181107085947j:image

前述のスキル3「聖女の誓い」で防御力を下げられるマルタ、なんと宝具でも防御力を下げます。しかも今度は大ダウンだ!すごい!宝具チェインのときにめちゃくちゃありがたい!つよい!

ライダーはお星さまをたくさん吸うのでデメリットと言われることもあるようですが、マルタ自身もみんなに道筋を示す北極星のような存在なのでしょうがない。というか、マルタ、めっちゃクリティカル出る。体感なので根拠はないけどクリティカル自体がめちゃくちゃ出やすい。星3個だけしかなくて各10%だったのに全部クリティカルとか普通にある。獣国のアナスタシア戦ではラスト一騎討ちになって、宝具で決着つけるためにNP貯めようと思ったらアーツチェインでクリティカル連発して8万削りきったこととかあるもん……めちゃくちゃクリティカル出る……つよい……

NPが秒で貯まるかわりに自分で星出しは苦手なので、新宿のアサシンくんにサポートしてもらうなどするか(ピンポイント指名)(彼も推しなので……)、単騎になったらアーツチェインでNPを貯め防御を下げ宝具を撃ち防御を下げ、またNPを貯め……というのを繰り返すほうが運用しやすいように思います。通常バスターも超つよいので普通にB始まりもおすすめ。

サポーターとしてだけでなく、アタッカーとして自身もめちゃくちゃつよい!パーティーの最後にいてくれるだけで安心感が桁違い!!傷ついた味方を回復し、かつ前線で戦えるマルタはいつでもどんなときでもなんとかしてくれる最高のサーヴァントだ!!!!

 

■存在そのものが心強い

これはまじですが、聖女がいるカルデア、本当に、精神にめちゃくちゃ良い。右も左もわからずFGOを始めたチュートリアルガチャで「きっと世界を救いましょうね」と微笑まれた日にはもう……もう……こんなんついていく以外になくない……!?私の周辺のみんなはもうロストベルトに突入してるけど、でも本当にねえ、マルタと駆け抜ける人理修復の旅、本当に存在そのものが支えだったから……

水着のほうがクローズアップされがちだからか世間ではファイターイメージが強いマルタだけど、思い出してほしい。オルレアンで敵として出てきたときの彼女を……狂化されてもなお自我を保ちマシュたちに道を示した姿を……そう、マルタは鉄の聖女なんですよ……!!!聖女なんです!聖女だけどやんちゃだったりおてんばだったりする一面もある、それは確かにそうだし拳を炸裂させれば超強いけど、紛れもなく聖女なんだよ~~~~どっちも彼女の一面なんだよ~~~~どちらも素、どちらも取り繕ったものではない彼女そのものなんだよ~~!!!!!どちらの一面も最高!!!!そんないろんな彼女を知ることができるの、めちゃくちゃ最高じゃない!?!!?ルーラーマルタは星5だし期間限定だけど、ライダーのマルタは今回のチケットで誰でもお迎えできるんですよすごくないですか!?!!?えっ……すごい……思い返すと星4配布まじでとんでもないシステムだな……(11/9追記:友人に教えてもらうまで神々しさと来なさでガチで勘違いしていたんですがルーラーマルタも星4らしい……知らなかった……)

マルタ最高ポイント、戦闘ボイスがはちゃめちゃにいいんですよね!!!!!!宝具の「奇蹟を!」がねえ~~~~私は本当に本当に大好きなんですよ……あの「奇蹟を!」を聞いたら、どんな窮地でもなんとかなるような気がする、一筋の光がさすような、そういう神々しさがある……終了時の「10年早いよ!」もめちゃくちゃにかっこいいし……ウウーーッかっこいいのにかわいい……かわいいのにかっこいい……人としてつよくて人としてかわいらしい、本当に素敵な女性なんだよな……

マルタは最初はどこからどう見てもお行儀のいい聖女様なんだけど、だんだん本来の明るくてときどきはっちゃける元気で快活な人柄がにじみ出てくるんですよね。知れば知るほどどんどん好きになる、そんな魅力的なサーヴァントです。聖女の一面もはっちゃけた一面もどちらもマルタで、そういういろんな面があるところが本当に魅力的なんだよ~~!!!同じことまた言ってるけどサビだからまた言うね……これは私のブログだし……
宝具とかコマンドとかでたくさん話してくれるサーヴァントも好きだけど、マルタの「奇蹟を!」は本当に、信じたぶんだけ救ってもらえるんじゃないかって、そう思わせてくれるそういう頼もしさなんですよね。前述のスキルもめちゃくちゃ彼女らしくて、自分の回復と味方の回復両方あるのが本当に最高なんですよ!!敵の強化解除+味方の弱体解除+回復でみんなの本来の力を出せるようにしてくれるところが聖女らしいし、攻撃バフとかの強化スキルは持っていないけど、アーツ3枚・バスター宝具なのも、祈りだけに頼るのではなく自力で活路を開いてきたマルタらしいと思いませんか?スキルはサーヴァントが生前獲得した順なのでは、という考察ツイートをお見かけして、なるほどな~!!!とめちゃくちゃ頷いたんですが、マルタは「信仰の加護」「奇蹟」「聖女の誓い」なんですよね……!!!!もうほんと、信仰に生きることを決めた彼女が、やがて聖女として立つことを決めるまでの道筋が見えるもん……最高……だいすき…………

あと最終再臨がさいっっっっっっこうに良いのでぜひ育ててあげてください。再臨ごとに朝→夕→夜になってるところもめちゃくちゃすきです。

 

自分がこの人だ!!!!と思う人をお迎えするのが一番というのは変わりませんが、マルタはまじで最高だということだけは覚えていってください。そしてもしマルタいいじゃんと思っていただけたり、育ててみようかなと思っていただけた方がいたとしたらプレゼン記事としてこれを書いた意味があったというものです。まあプレゼンにならなくてもわたしが私の推しの話をしたかっただけなので書いた時点ですでに満足なんだけどな!!!マルタ嬢はいいぞ!!!!!!チケットを握りしめてダ・ヴィンチちゃん工房へダッシュだ!!!!!!今回は以上です!!!

 

2023/10/13追記:その後宝具5、HP・ATK2000、Lv120の完全形態になりました!!!いま進めてるミクトランでも強い!!!!!大好き!!!!!
f:id:tc832:20231013211225j:image

愛しているから笑ってくれ

大学の部活の先輩に、パズドラの頃からフレンドさんでお世話になっている先輩がいます。その先輩のコメント欄が2章クリア後「ナポオフェのオタク……」になっていたのを見て、そんなに……と思っていたのですが、先輩、わかります。私にもわかりました。北欧、いろいろな愛の物語だった……

7月18日に配信されたゲッテルデメルングですが、ちょうどその頃仕事が修羅場だったこともありスタートは遅めでした。「消えぬ炎の■■■」が快男児だとわかったときにはまさかの3文字にツイッター大盛り上がりだったのに、蓋を開けたら……開けたら……!!!!

私は展開予想を当てられない人間なので、「アーチャーのナポレオンは人々の願望やイメージの反映で、ライダーが史実のナポレオンらしいよ」とフォロワーさんに教えていただき、ナポレオン(弓)は実は異聞帯サーヴァントで、史実のナポレオンがかくあるべしと望まれたナポレオンを打ち倒す話だったらどうしよう……実質ブレイブストーリーじゃん……などとのたまっておりました。何も明らかになってないからって好き勝手言い過ぎでしょ……

本当に、開始前に何も知らずに色々言っていた頃が遥か昔に思えるほど、たくさんのものが詰まった異聞帯でした。ということで、書こうとするたびにハア~~~~~となったりイベントを走ったりしていて遅くなりましたが、橘FGO「無間氷焔世紀 ゲッテルデメルング」感想です。

 

ロストベルトNo.2 無間氷焔世紀 ゲッテルデメルング(8/1~8/8)

f:id:tc832:20180809085054j:image

 

■認識をかたちづくるもの

2章の後半に差し掛かったあたりから感じていて、プレイし終わったいま殊更強く思うのは、2章、あまりにもテーマの反復が上手いということです。ツイッターでも何回か話していたように、反復によって「そうだったのか!」がどんどん増えていき、情報が多層的・多面的になっていくという構造が本当にすごい。そして起承転結の構成がうつくしいからこそ、反復が本当に効果的に生きてくるんですよね……!またこの話をして恐縮なんですけど(でもサビだからまた話す)、真実なんてものは結局のところどこにもなくて、あるのは事象と主観だけで、何をもってその事象を捉えるかによって「自分が認識している事実」は簡単に姿を変えるんですよね。どれだけの情報が手元にあるか、どの立場からものごとを捉えるかという、事象を捉えるための角度のようなものに応じて認識は容易く変化する。

いったいどんな過酷な地が広がっているのかと思えば、北欧は穏やかなところで、子供たちは健やかに暮らしている。子供たちが穏やかに暮らせる場所なのかと思ってよくよく話を聞けば、大きくなって大人として生き続けるのではなく時がきたら死ぬことが定められているのだという。どれだけ穏やかに見えてもやはり異聞帯、そもそもの価値観が全く違っている別の文化なのだと認識を改めつつ進めていくと、最後の最後でそれ以外に人類が生き延びる方法がなかったのだということがわかる。

2章を読み進めるなかで一番多く認識が二転三転したのはこの点だろうけど、2部序と1章から思い描いていたキリシュタリアの人間性はオフェリア視点の回想でがらりと印象を変えるし、2章において大令呪とはどういうものか明らかになってはじめて、1章におけるアナスタシアの言葉が本当に意味するところを知る。

このように、情報が次第に開示されることで認識の解像度は上がっていく。「こういうものなんだろうな」という自分の認識は自分の手持ちの情報だけに基づく推察に過ぎなくて、知らなかった新たな一面を知れば認識は何度でもアップデートされうる、ということが繰り返し示されているわけです。

FGOにおいて「形に残らないとしても自分がしてきたことは無駄ではない」「たった一つだけの正しさというものはなく、だからこそ悩みながらも自分の手で選択をする」というのは繰り返し提示される大きなテーマだと思っているのですが、これらをテーマとするに当たって「見つめる角度によって認識は容易に変化する」ということを取り上げるのは物語に対してとても誠実だなあと思います。それが最後のムニエルさんとダ・ヴィンチちゃんの会話における「人間は『顔を知っている』者とだけ戦うべき」という部分に繋がるわけで、それが自身の世界を守るために戦うことを選んだカルデアの彼ら彼女らの責任であり、その責任とちゃんと向き合う物語なんだよな。この選択と責任というのも1章から2章までの大事なところで繰り返し示されていて、そこも含めてやっぱり反復が上手いな~~物語の構成が本当に上手い……と何回も噛み締めてしまう。

真面目な前段を終えたのでホームズの話をしますが、私はホームズの顔が本当に好きで(ホームズちゃんとたくさん好きなんだけどなんかもう顔が本当に好き)、宝具のたびにしみじみと顔がいい……と呟いてしまうタイプなんですけど、2節、こんなことがあるか!?!!?!?というくらい動揺してしまった……「え? 本当に?」とか「は! 失礼、きまっていた」とかなんだそのかわいい言い方~~きまってたって何~~~~と不意打ちにンンンッとなっていたんですけど、ホ、ホムーーーーーー!!!!!死ぬなーーーーーーー!!!!!!!!!とあまりに動揺しすぎて指先ビリビリしてしまった。差分……差分…………ダ・ヴィンチちゃんの「下手すると君ここで退場だぜ」完全にフラグだったんじゃん……素面だと難しいとかほんとそういうこと言うなよ……!!!!ガチャの先行実装でシグルドさんの一人称が当方なのは知っていたので、一人称違いを見てどうやらあのブリュンヒルデさんラブなシグルドさんじゃないっぽいぞ……などと余裕で構えている場合ではなかったし、目の色が赤のときはあんなかんじで青だと穏やかというか本来の彼なのかな、それ完全に怒りで我を忘れている王蟲じゃん……絵面は東京喰種だし……とか呑気に思っている場合でも全然なかった。炎の正体を話そうとすると必ず邪魔が入るホムにふふっとなっていたのだけど全然そんな場合じゃなかったじゃん!!!動揺しすぎてホームズもう使えない……???と一瞬思い詰めたけど(橘カルデアにはなぜかホムがいるのだ)、なんとか生きてくれて本当によかった……よかった……!!!

そして、これは今から思えばという話なんですが、前述の「情報の多層化に伴う認識の変化」を物語の下地として反復するにあたっては「シャーロック・ホームズの不在」というのは必要不可欠な舞台装置だったのかなと思いました。FGO3周年記念のFateシリーズのPVでもホームズは「真実を照らす者」だったし……ていうかあの激ヤバウルトラスーパー莫大熱量動画本当にすごくないですか!!?!?!?これが公式PVの力……ありがとう……ありがとう……めちゃくちゃヤバイ……サムネがセイバーなのも本当に本当にすごい……もし万が一まだ見ておられない方がいたら絶対に見てほしいしなによりこのブログを読み返した私が絶対また見たくなるからリンクを貼っておくね……


The Essentials of “Fate Series” - 人類史最大の英雄譚 - | Fate/Grand Order 配信3周年記念映像

まだ話すべき段階にないと言いながらも、その姿勢によって言外に「何かありますよ」という提示をしてくるホームズがいることで、プレイヤーの意識は「最終着地点はどこなんだろう」というところに向かっていくように思います。虚月館殺人事件がまさにそういう感じだったよね。あれも性癖直撃概念もりだくさんで大変だった……探偵がいるということは謎解きがあり、「至るべき真実」というゴールがあるように感じる。実際は探偵がいてもいなくても情報の多寡によって認識が変化するというのは変わらないのだけど、やはりゴールを意識するかしないかという点において探偵の存在は大きな影響力があると思うし、受け取り手の心理は無意識的に、謎解きという答え合わせに向かっているような方向性になるのではないでしょうか。

最後の最後まで認識が変動する2章において、「答え合わせ」という意識をプレイヤーから取り除くためにはやはり探偵の不在が不可欠だったのではないかな。人生において、全ての情報が明確に開示されることはあり得ない。「まだ開示されていないもの」が何か最後までわからないからこそ、怒濤の最終局面にあれだけ心揺さぶられたのだろうな。

 

■話をすること、相手を知りたいと思うこと

このブログ書くにあたってちゃんと読み返しているんですが、3節時点でフォウさんが空の鳥に向かってフォーウ!てしてるの、伏線がすごい……!ゲルダちゃんと初対面時、マシュの「彼女が喋っているのはスウェーデン語?」「少しだけ聞き取り難い。気のせいか、どこか訛りがきついような」という内心の台詞があり、実はここですでに古語というのが言及されているんですよね。ゴルドルフ所長が服装につきてプリミティブと言っていたり、読み直すとああーー!!となるポイントがとても多い。それでいて初読時には神代が続いてるからか~程度にさらっと流せてしまえるというの、バランス感覚がはちゃめちゃに良い……すごい……!あと2章、フォウさんめっちゃしゃべるけどこれフォウさんまたなんかありますよね!?ぜったいにそう……たのしみ……

穏やかで友好的で明るい北欧世界の実態が明らかになる3節・4節、全く異なる価値観に対する違和感の描き方が本当に上手い。後から完全に異なるものだと明らかになるような描き方をする物語に対して読者が「これは全く自分の理解の及ばない価値観/世界なのだ」と感じるとき、大抵は不気味さや空恐ろしさが先に立つように思うのだけど、2章においてはそういった底の見えぬ穴を覗きこんでしまったような冷え冷えするような感覚をほとんど受けず、どちらかといえばやるせなさや切なさを感じる。この絶妙のバランス感覚本当にすごくないですか……!?「大人になれない」ですらないんだよな、「大人にならない」ことが当たり前の世界……それが世界の当たり前のことだから「受け入れる/受け入れず抗おうと思う」という選択肢がそもそも存在しない。そして朝になったら日が登るくらい当たり前のことだから、言葉を失うマスターやマシュやゴルドルフに対して困惑し、「難しくてわからないの」と申し訳なさそうに言う。ゴルドルフが様々な人生の可能性について説明しても、その可能性は彼女にとっては生身の選択肢ではないから、物語の中の世界のことのように捉えて「素敵ね」「そんなの考えたこともなかったわ」と笑う。なぜそんなことを聞かれるのかという困惑とリアルでないものに対する屈託のない好感が淡々と描かれているからこそ、そういうやるせなさ、もどかしさ、切なさを感じる。このあたりのバランス感覚が本当にすごいなと思った……そしてそんなゲルダが、おそらく初めて選んだ自由が幕の閉じ方というのがね……本当に……

ゴルドルフ所長がゲルダちゃんに聞くとき、最初は淡々と説明しようとしているのに、段々感情が押さえられなくなっていくところに、なんというか所長の人の良さが垣間見えてグッときてしまった。というかそれをマシュに言わせる前に所長が言うんだよな……所長、マシュもマスターもまだこんな子供じゃないか!くらいに思っていそうで、「子供がちゃんと大人になる」ことは大人の責任と思っていたりするのかな……とぼんやり思うなどした。 だからスルトとの戦いで無茶を承知で出撃を提案するダ・ヴィンチちゃんやホームズや、それに頷くマスターとマシュに対して、ゴルドルフ所長はちゃんと無理なものは無理だと、そんな選択をするべきでもさせるべきでもないと言えるんだろうな。読み直したとき、ホームズに対する「わ、私は! 貴様を殴ってやりたい!」読んで泣いてしまったよ……ウウーッ所長……

そしてゴルドルフ所長が「大人になったら子供や孫ができるもの」に留まることなく、色々な生き方があるんだよ、と言ってくれたの、なんだかとても救われるなあと時間が経つごとに強く思う。昨今、こういったテーマに対する作品内での言及って以前に比べて何倍も配慮と丁寧さ・慎重さを求められるようになっていると思うのだけど、こういうふうに丁寧さを見せてもらえると私はファンとして本当に安心できるんですよね。ありがとう……これからもFGOについていくよ……!!!

f:id:tc832:20180919084120j:image
f:id:tc832:20180919084135j:image

スカサハ=スカディ女王の「殺そうか、愛そうか」が唯一の判断ラインというの、今回も獅子王とコアトルさんの女神の視座を思い出した。そして北欧異聞帯の唯一の神・唯一の母としての姿勢が徹底しているからこそ、最後あの選択になるというの、反復による下地づくりがめちゃくちゃに上手……すごい……。

そしてついに登場するナポレオン、いったいどんな感じなのかと思ったら、めちゃくちゃにかっこいい!!!!快男児ーーーーー!!!!の一言に尽きる……!!!!あの現れ方はずるい……ずるいでしょ……しかも宝具ボイスが声を張るかんじじゃないところが特にーー!!!特にーーー!!!!!あまりにかっこいいのでむしろずっと、味方だよね……?人理の英霊だもんね……!?これで裏切られたら立ち直れない……ううっ信じたい……信じていたい……と無駄に不安になってしまった。今読み直すとこんなにも何度も自分は人理の英霊だって繰り返してくれてたんだなあ。ううっ好き…………

城内におけるオフェリアさんとマシュの会話に、ああ……道が別たれてしまって……マシュは強い瞳をするようになったし……ってじーんとしていたところ、ナッさんがめちゃくちゃブッこんでくるから温度差で風邪引きそうになってめちゃくちゃ笑った、んですけど、これ展開を知ったうえで改めて読み直すとさあ~~~~!!!!!ナッさん……!!!!!最初は普通にナポレオンって呼んでたのにどんどん好きになって呼び方がナポレオン→ナポさん→ナッさんという謎の変遷をしている。マシュの婚約者(およめさん)がかわいすぎたし、ナッさんがこの言い方はよくない……ていうのもかわいかった。このあたりですでにふせったーで「北欧は愛の話なんだよなあ」って言ってたんですけどやはり自分の感想はめちゃくちゃに信頼できるな。そう、冒頭でも書いたし後述もしますけど、北欧、いろいろな愛の物語なんですよね。神の愛、人の愛……この話をするためにこのブログを書いているといってもいい……

オフェリアさんの魔眼、とってもおしゃれだなあ。「私は、それが輝くさまを視ない」で封じられるマシュ、そう、マシュは輝くものなんだなあ……となんだかじんわりした。

バトル面では、シグルド戦にマシュ+アンデルセン先生+エウエウで臨んだところ安定しすぎてめちゃくちゃ余裕で、安定しすぎるあまりこのパーティー誰にでも組めるとか嘘やん……みたいな気持ちになっていました。FGOはこういう、レア度関係なしに工夫次第でどうとでもなるところが本当にありがたい……!エウエウの宝具くらうたびに「耐えなければ……!」ていうシグルドさんおもしろかったな。モールドキャメロットと貴方の為の物語重ねまくったところ、回避も無敵もなしでマシュがシグルド宝具持ちこたえたのが超絶アツかったです。
ナッさんをサブにしてしまっていたのでオフェリアさんにいいところ見せられなくてごめんな……という気持ちになってたところ、ちょうどマシュが下がってしまって、それで出てきたナッさんの即NPアップ→オフェリアさんの即NPダウン、めちゃくちゃ笑った。オフェリアさん辛辣!!でもこれ今改めて思うと、オフェリアにとってはナポレオンは輝くものという意味なわけで、ハア~~~~~~本当にもうやばすぎるでしょ……何……???初見時全く思い至らなかったんですけど……???これはシグルド残りHP1003でも自前バフ全盛り+宝具+バスター2枚のバスターチェインでオフェリアさんにいいところ見せようぜ!!とテンション上がって撮ったスクショ。

f:id:tc832:20180920093955j:image

シグルド強制再臨時の「英霊シグルドの手による」て言い方がなんだか引っ掛かり、シグルドの霊基に何かを上書きしてるのでは……と予想していたので、のちに正解とわかって嬉しかったです。

夢に落ちたとき、またしても助けてくれる岩窟王、やっぱりいい人だ……いい人なのに私は岩窟王のことを何も知らない……と岩窟王が助けてくれるたびになんともいえない気持ちになってしまう。監獄塔復刻是非よろしくお願いします……。そしてそしてシトナイさんめちゃくちゃびっくりした!!!ヘラクレスバーサーカー呼びからの「守ってくれてありがとう。いつも私を守ってくれるんだね──」でこれは……!もしや……!!と思っていたらやっぱりーー!!!めちゃくちゃびっくりした……!イリヤちゃん……!!雷帝みたいな突然実装もTLでのネタバレもなくてよかった……!!

さて、このあたりは起承転結でいうところの承にあたるのかなと思うんですが、北欧世界の構造、ナポレオンの譲れない事情、キリシュタリアからの宣戦布告、シトナイの存在、そしてブリュンヒルデの存在等、様々な情報が明らかになる、後に繋がる重要な部分だからこそ言葉・対話が重要な意味を持っている。それを象徴するのがスカサハ=スカディの「言の葉には意味が宿ろう?」という台詞のように感じます。いやまあ言ってしまえば言葉や対話が大事なのは全てにおいてなんですけど、城内におけるマシュとオフェリアの会話をはじめ、殊更その部分にフォーカスしているような印象を受けました。マシュがオフェリアに対して「以前のわたしは皆さんと会話をしていませんでした」「わたしはAチームの皆さんを知ろうとしなかった。だから──だからこそ、皆さんの事を知りたいのです」と語りかけたように、話をすることは相手を知ろうとすること、話をしたいと思うことは相手を知りたいと思うことなんですよね。そして、対話を通じて他者と触れあうことで色々なことを感じ、思い、考えるようになる。その過程はまさしくマシュがここまでずっと経験してきたものであり、そうやって感情というものの解像度は上がり、一言では言い表せない、グラデーションの微妙な色合いのような、細やかな感情を獲得していくのだと思います。1部を通じて様々な場所でたくさんの人と話して、たくさんのことを経験して、自分の考えや思いを言葉で伝えられるようになったマシュ、まさしく成長だし、「私に色彩をくれた」なんだよな……

言葉によるラベリングについては1章感想(願いに罪はあるか - 基本的に壁打ち)でも言及していますが、言葉という輪郭を得たことではみ出しとして削ぎ落とされてしまう感情もあれば、言葉という輪郭を得てはじめて認識される感情というものもある。ゲルダは北欧異聞帯以外の価値観を知らないながらも自分の言葉で真摯に話をし、そんな彼女に対してゴルドルフはちゃんと言葉を尽くす。マシュはオフェリアに「敵になったつもりはありません。あなたたちと対話する意思が、わたしにはあります」と呼び掛け、オフェリアは「本当に、アナタとはもっと話をしたい」と言いながらも対話を拒絶する。言葉を尽くすことは相手に対する誠意だし、対話の拒絶は関係の拒絶なんですよね。これ関連ですが、このあとコヤンスカヤがオフェリアに「そんなだから──ミス・キリエライトに拒絶されるんですよ。あなたとはお友達になりたくありません、って、ね?」と言うけど、違うよーーーッ!!!マシュは話をしましょうって言ってたじゃん!!!!そんなことないよーーーッ!!!!コヤンスカヤは黙っててくれや!!!!!!!となりました。あえていい感じに解釈を曲げて伝えて本来の意図や事実と違うように思い込ませるのはやめろ……!!!!

そしてこれを書いてるときにふと思い出したんですけど、終章感想(彼女の旅路を振り返る 後編 - 基本的に壁打ち)のⅡの座のところでも「浪漫を語るのは文学だし思いを伝えるのは言葉」と書いており、もしかして1部と2部、対応していたりしませんかね?1章はアマデウスサリエリだったし……いやこじつけおたくのこじつけに過ぎないかもしれませんが……浪漫を語るのは文学だし、思いを伝えるのは言葉だし、愛を語るのも言葉なんだよな……言葉を尽くして言葉では描ききれない感情をなんとか伝えようとする二人が本当に本当に好きだし、言葉にしないから相手に届かないまま消えていく感情を抱いている片方と相手の内心を知らないままの片方という二人も同じくらい本当に本当に好き……

 

■彼女たちの愛

上で触れた感情の獲得、そして細分化については、まさしく戦乙女たちの戦いのなかでとても丁寧に描かれていましたね。一言「愛」と言っても、まるで春の日向のような暖かで穏やかな愛もあれば苛烈に身を焼く炎のような愛もあるし、その存在すべてをただまるごと慈しむ愛もある。相手を思っているから自分にできることならなんでもしようとする愛もあれば、本当は相手を思っているのにそれが表にうまく出ずに誰にも伝わらない愛もある。北欧はいろいろな愛の物語で、それを愛という言葉をほとんど使わずに描いているからこそそれぞれのかたちが克明に浮かび上がっているように感じました。

スルーズとヒルドとオルトリンデは、自分達は精神などという不確実性を持たないと言いながらもブリュンヒルデに対して何度も「なぜ」と問い掛け続け、溢れる感情のままに槍を振るう。ブリュンヒルデが人となってシグルドと過ごしてこころを獲得したように、彼女たちは3000年の時を経るなかでいつの間にかそれを獲得している。

そもそも、戦乙女は本来不確実性を持たない機構だと言いながらも感情は最初から有しているわけで、その時点で彼女たちにこころがないわけがないんですよね。精神、感情、情動、こころ、表す言葉は複数あっても結局は同じもの、というかそれぞれが不可分に繋がりあっているもの。感情はこころがあるから生まれて、こころがあるから感情がゆらぐ。量産型の戦乙女たちからは不確実性が排除されているから感情もなければこころもなく、感情を有しているブリュンヒルデ、スルーズ、ヒルド、オルトリンデにこころがないわけがない。マシュの場合は彼女自身の経験や他者とのふれあいを通じて感情を獲得していったけれど、そういう意味では、最初からそもそもそれらを手にしている彼女たちに対しては感情の自覚という表現のほうがぴったりかもしれません。感情を自覚し、言葉とともに認識するけれど、枠組みとしての言葉は同じでも中身の感情は人によって千差万別で、全く同じものはどこにもない。だからスルーズとヒルドはオルトリンデに対して「貴女は駄目。連れてはいけない」「あなたはあなたの好きにするといい」と言う。スルーズにはスルーズの、ヒルドにはヒルドの嫉妬という感情やその言葉の枠に収まりきらない思いがあるように、オルトリンデにもオルトリンデだけのこころがあるから。そしてオルトリンデは、感じることはできてもうまく言葉にできないから言葉の代わりにブリュンヒルデとの共通言語たる槍を振るうし、彼女自身のこころに、意思にしたがってすべてを見届けることを選ぶ。

このあと、中盤のラストかつ佳境の幕開けとしてシグルド戦があるわけですが、ブリュンヒルデの感情がね……本当に……スルーズとヒルドは異聞帯も汎人類史も関係なくお姉様が大好きだから自らブリュンヒルデに貫かれることを選ぶし、ブリュンヒルデは「シグルドを殺す」存在として刻まれているからシグルドを殺せるわけではなく、正しい彼を愛したからこそ、異聞帯で悪を為すシグルドを殺す。シグルドを愛したから、シグルドを殺すことだけを見据えて、他の可能性には見向きもしない。真の勇士の魂こそを愛するからこその、燃え盛る炎のように苛烈でひたむきで狂おしい、そんな戦乙女たちの愛なんだよな……

で、そうしてシグルドを討った……と思いきや、そこからのあのシナリオってさあ~~~!!!!いやもうすごすぎるんですが……シグルド霊基上書き説は当たってたけどこんなんだと思いもしなかった……ここ、シグルドではないとブリュンヒルデが気付くきっかけが二人がかつて交わした会話というところがめちゃくちゃいい。二人が互いに向かい合いながらたくさん話をしていたからこそなので……霊核が破壊されてスルトが解放されたことで、ここでシグルドが自由になるのも、スルトの剣からマシュたちを守るのもアツい。ブリュンヒルデの愛した勇士の魂……シグルドが立ち上がるのは、冒頭でスルトの刃を止めたときも今も、限界を超えてなお立ち上がり、絶望が形になったようなスルトに立ち向かうマスターとマシュの姿があってこそなんだよな……

若干前後しますが、今回限り肩を並べて共闘できるブリュンヒルデとシグルド、よかったねえ!!!の気持ちでいっぱいになった。二人して既に霊核が壊れかけているからこそ、思いがけずブリュンヒルデの夢が叶ったように、異聞帯にだって希望があり、未来があるんですよね。このあたりの話は最後の部分でちゃんと触れますが……ブリュンヒルデばかりが愛が重い系女子かと思いきや、シグルドが「当方は生存し、尚且つ愛を証明してみせよう」というスタンスなの、も~~~~~ベストカップル!!!!!かわいい!!!!!お幸せに!!!!!!という気持ちになる。いやほんとうにお似合いの、お互いがお互いにぴったりの二人で、見てるこっちが最高に幸せになるでしょ……もうほんとこのときの二人がめちゃくちゃいい笑顔で最高にかわいい……どこかのコンテナで幸せになるんやで……

f:id:tc832:20181024213523j:image

思い返せば何度も言及されていた太陽の正体がようやく明らかになり、ホームズの言葉を借りるなら解決編へ……と思いきや、確かに解決編は解決編なのだけど、そのうえでなおまだ明かされていなかったと判明するものがあるの、重ね重ね本当に物語として上手いんですよね。終わったと思って全く終わってないの、あまりにも上手い。私はスルトの独白に一番アアーーーーーー!!!!!となりました。いやもうね……本当に……オフェリアとキリシュタリアとナポレオンとスルト、あまりにもあまりにも感情が渦巻いてやばすぎる。たくさん話をして二人の関係と愛を育んだシグブリュとの対比もはちゃめちゃにやばいし……感慨が先行しすぎてうまく文章に起こせなくて、このブログ、マテリアルを読み返しスクショの山を見返してはひたすらハア~~~~~となりながら書いています。

 

■いつか王子様が

ここまできたからようやくオフェリアの話ができるぞ!!!!!ねーーーえーーーーー15節めちゃくちゃ刺さったんですが…………あの淡々とした序盤からこの佳境になるなんて全く思いもしなかった……ドドドやばかった……あまりにツボ……グサグサに刺さる概念全部盛りだし、しかもまさかの「嘘つき……」だし、あまりにも私特攻だった……わたし「うそつき」がほんっっっっっとうに一番のピンポイントのド性癖台詞なんですよ……!!!志摩廉造はあんなだし緋色シリーズラストで江戸川が降谷に言った「うそつき」がなかったらこんなことになっていないので……ウウーーーーッナッさん…………炎の快男児だよ……わかるもん……ナッさん……人理の英霊、炎の快男児、期待に応える男……

TLがおおむね2章をクリアしていて私がまだ始めてもいないタイミングのとき、回ってくるツイートがだいたいキリシュタリア様……みたいなかんじになっていて、2章で何があった……!?という気持ちだったんですけど、ハアーーーーーーー、なるほどね……これは唯一知っているオフェリアからしたらキリシュタリア様になってしまう……コヤンスカヤがオフェリアに「あの方の綺麗事も大概ですが、その根底にあるのは紛れもない人類愛。人間の基本原則……その野生(せいしつ)は、助け合い、認め合い、殺し合う事だとしっかり受け止めていますのに」と言ったときにはそうなんだ……と思う程度だったのが、ここにきてなるほどな~~!!!となるんですよね。「人類悪とは即ち、人類愛そのもの」なんだよな……人類が滅ぼす悪、人理を守ろうとする願い……キリシュタリアが他の6人を救ったことを誰も知らず、オフェリアだって彼女の魔眼がなければ知らないままだったように、プレイヤーもまたオフェリアの独白がなければ知らないままでいたように、きっとプレイヤーの手持ちの情報だけでは人理再編の背景の全てには遠く及ばないんですよね。終章のときも同じ構図で、きっとクリプターたちが星の漂白という選択をするに至った理由が開示されればまた見方ががらりと変わるのだろうな。とはいえ異星の神ばかりは本当になんともいえませんが……もはや本当に「異星の神」かもわからないし……

そうしてなんとしてもキリシュタリアの期待に応えようと思いながら召喚したはずのシグルドがスルトだとわかったときの衝撃たるや……と、プレイ時はなんて不運な……!!と思ったんですけど、最後まで読んでから改めて読み返すと、本当に……ねえ……!!スルトの側から物事を見ると受け取り方ががらっと変わるの、もう、あまりにも構成が上手い……こんなんずるいでしょ……

スルトがオフェリアの魂を掴んだの、召喚後すぐのもうこのタイミングだったの、読み返してはじめて気づきました。魔術師は恋をしない、恋の代わりに絶対の忠誠を抱くキリシュタリアの意見を仰いで、そうして自分の為すべきことをしようと決めたとき、オフェリアはちゃんと自分の足で踏み出そうとしているんですよね。悲鳴の代わりに咄嗟に令呪で自害を封じるだけの冷静さと判断力と行動力だってある。そしてそれ以前にも、燃え盛る炎のなか、ちゃんと自分に与えられた運命と向き合おうと前を見据えている。そこでスルトを視てしまったのが彼女にとっての不運であり、スルトにとっては幸運だったわけですが……

本来、オフェリアはちゃんと自分で自分の運命を見据える強さを持っている。「キリシュタリアの期待に応えたい」という他者の存在ありきだったとしても、自分の運命から逃げない、自分のするべきことをしようと思うのは他ならぬ自分。でも、そんな彼女を変容させたのが、スルトの呪詛だった。言及はなかったけれど、両親の多大な期待や自己肯定の低さ、「魔術師は人のようには想いを抱かない」という価値観の内面化など、オフェリアには自分自身によって幾重にもかけられた呪縛があったのだと思います。本来スルトの呪詛はその人を丸ごと作り替えて思考や選択を操るような強さを持っているのだろうけど、「抵抗力が強い」と言っていることを踏まえるときっとオフェリアにはそこまでの強制力をもって作用はしていないはず。とすると、スルトはほんの少しオフェリアの精神のバランスを崩した程度なのかもしれない。自分で自分にかけた呪縛もあいまって、彼女は一歩も動けなくなってしまう。

自分自身が嫌いで、自分では外への一歩が踏み出せなくて、誰かが自分を連れ出してくれるのをずっと待っていたオフェリア。恋した相手は自分の手を引いてはくれない。自分の先を行っているから、行く先を示してはくれても背中を押してはくれない。王子様は現れない。ハッピーエンドへと連れていってくれる王子様なんて、そんなものはいない。

だから、やっぱりオフェリアは、自分自身の意思で、自分の足で一歩踏み出す以外に、ない。

f:id:tc832:20181026122233j:image

ナポレオンとオフェリアの関係性の何がやばいって、一見ナポレオンによるオフェリアの救済のように見えて、突き詰めていくと救済とは全くの別物であるところなんですよね。きっかけはナポレオンの言葉だけど、それはほんの後押しにすぎない。ナポレオンの行動や言葉がオフェリアの心を動かし、まっすぐに貫いたことは確かだけど、それらがオフェリアの行動を決定したわけではない。一歩踏み出したのは、ほかでもないオフェリア自身の、オフェリアだけの意思なんだよな……ナポレオンのオフェリアに対する姿勢・行動、彼女にかける言葉は献身であると同時に「オフェリアの笑顔が見たい」という紛れもないエゴだし、そういうストレートな感情がオフェリアの呪縛を砕いたのだけど、ナポレオンの献身やエゴがオフェリアを変えたかというとそんなことはなく、もとより彼女が持っている、己の運命に立ち向かう本来の強さがあることを思い出させただけ。オフェリアにかけたスルトの呪詛を砕いたのは確かにナポレオンだけど、彼女に幾重にもかけられていた呪縛から自分を解き放ったのはオフェリア自身で、だからこそ彼女は堂々と胸を張ってその一歩を踏み出し大きく息をして、そして「意外に、気持ちのいいもんだぜ」というナポレオンの最後の言葉に対して「嘘つき……」と言えるんですよね。同じ「一歩踏み出す」という選択であっても、この選択はキリシュタリアの意見を仰ぎそれに従おうというのとは全く違う。彼女自身の意思による、彼女のためだけの行動なので……

ナポレオンがオフェリアに対して言葉を投げ掛けるたびに鳴る、硝子が砕けるような音がとても印象的なシーンでした。「胸を張れ。オフェリア。オマエは、ただ、あるがままで美しい」がね、本当に……本当に……あるがままの自分で、ただそれだけでいい、そのままの自分を大切にしてほしいという、人生の先輩が後輩に送る祈りと愛なんですよ……!!ナポオフェ、導入は男女の愛と思わせておいて、英霊の生者に対する愛なのが、もう、本当に、めちゃくちゃに最高だった……そしてそれを受けてオフェリアが言うのが「私にも、希望のひとつくらいはあるの。いえ、あったのよ。お節介なアーチャーのお陰で気付けたわ」っていうのがさあ!!!もともとあったことに気付く、もともとあったものを思い出すという……「視ないようにしてきたものが、今は視える。自分自身が何を為すべきなのかも」という言葉のとおり、気づかなかっただけで、目を背けているうちに忘れていただけで、本当は最初から全てを持っているんだよな……

救済とは全く違うものというのはまさにここなんですよね。これは私の持論ですが、他者に与えられるだけの救済なんてものは存在しないと思っています。究極、人は誰も他者を救わないし救えない。救われたと思うのもそこからまた立ち上がるのも、その人自身の主観、その人自身の選択であり、他者はそのきっかけや影響を生み出した触媒にすぎないわけで。これは過去のツイートから発掘してわかりやすい!!となった例えなんですが、親知らずを抜くときに誰かが手を握っていてあげたとして、それはあくまで「手を握っていた」それだけなんですよ。その手に励まされたのは主観にすぎないし、手を握っていてくれるなら抜こうと決断したのだって主観に基づく選択。誰しも自分の人生以外に決められることはない。その人の人生は本人にしか選べない。

そういう意味で、ナポレオンとオフェリアの関係性はもう本当に100点中8000億点なんですよ……!!!!!!ウウーーッ自己肯定の獲得はどんなシチュエーションでも何度でも良い……だいすき……ほんとうに……「立って歩け、前へ進め あんたには立派な足がついているじゃないか」なんだよな……前でも後ろでも右でも左でもいい、とにかく動くこと、その選択をしたということこそが一番重要……めちゃくちゃ泣いた……だいすき……

キリシュタリアに従おうとした自分もスルトの復活の契機となってしまった自分も呪詛に取り込まれかけていた自分も悔いることなく、「私は希望をもってこうするの。だって、せめて、私はあのひとの期待に応えたい」と自分の意思で選択するところがさあ、まさに、ナポレオンが伝えたかったことがちゃんとオフェリアに届いたことの証じゃないですか。そして、これまで輝くさまを視ないようにしてきた彼女が大令呪を使うときの言葉が、「輝け」なんだよな……オフェリア……ぐだこちゃんもだしマシュもだしアナスタシア様もだし、前を向くことを決めた女は強い……だいすき……

2章クリア後、時間差で大令呪の代償は術者の生命だということはアナスタシア様の真意は……と気付き、カドアナーーー!!!!!となって大変だった。しかもそのときちょうどルルハワで拉麺好き好きアナスタシア様本が出て、なんかもうやばかった……「そんな勝利に、何の意味があるのでしょう」ってつまり、「あなたのいない世界に何の意味があるのでしょう」てことでしょ???む、無理……ウウーッ……アナスタシア様……カドックくん、なんとしてでも生きてくれ……

そして、ナポオフェに貫かれてべしょべしょになりながらスルトを倒した、そのタイミングでスルトの独白が入るの…………ほんとうに…………何………………??????こんなん、ここでこんなん、すべてがガラッと変わってしまうじゃん……スルト…………スルトからしたら、自分を唯一見つけてくれたオフェリアの存在こそが希望だったのかもしれなくて、でもそれは最期まで誰にも届かないままというのがさあ……

f:id:tc832:20181026210010j:image

もしかしたら、スルトは破壊と炎でしかない自分が彼女にできることなんて人の尺度においては存在しないと思ったのかもしれないけれど、でも、もし仮にオフェリアとスルトがちゃんと話をしていれば何かが違ったのかもしれないとか、でもそうして言葉という枠に押し込められることで失われるものが確かにある以上、きっとスルトはやはり何も言わないまま、オフェリアへの感情とともに心中することを選ぶのだろうなとか、そんなことを思い……戦いの最中、何度も呼ぶオフェリアの名に込められているのは裏切られたという怒りや自分を滅ぼそうとする怨みだと思っていたけれど、本当は、と思うと……あまりにも切ない…………知ったうえで読み直すと、断末魔が「なぜ」という嘆きのようで、本当に胸が詰まって思わず泣いてしまったよ……なぜこうなってしまったのだろう、そんな呼び声すらもオフェリアには届かない。そうして切除されてゆくのが、異聞帯というもののかなしみなのかもしれない。

 

■責任と誠意

でも、行き止まりの人類史でも、明日がなくても、願いを抱けない世界でも、「異聞帯」という世界が存在する以上、そこで暮らす人々は確かに生きているんですよね。ナポレオンは異聞帯のことを誰も希望も願いも抱けない世界だといったけれど、スカサハ=スカディはこの北欧世界こそを奇跡と呼ぶ。きっとそのどちらも正しくて、どちらの側面もあって、どう捉えるかはその立場によって簡単に変わるものなのだと思います。でも、1章の感想でも書いたように、汎人類史というただひとつだけを守ろうとするなら他の可能性を切り捨てなくてはならない。だからこそ、彼女たちは、選択することの責任を何度も口にするのだろうな。そのことを忘れないように、後ろに退いてしまわないように、目を背けずに全てを背負って前に進むために。

1章ではまだカルデアの彼ら彼女らに迷いがあったけれど、パツシィの「負けるな。こんな強いだけの世界に負けるな」やナポレオンの「生きているのなら進め。生者の進む先が、人理の行く先だ」という言葉が、彼女たちの求める明日を手にするための指針となっている。それでも、本当にこれでいいのかという不安や迷いが彼女たちの歩みを鈍らせることもきっとこの先ある。そういうときには、イヴァン雷帝の「貴様が認めずとも、余は認め、去りゆくのみだ」という言葉や、スカサハ=スカディの「己が人理を救わんとするならば、殺せ! 我らを踏み散らしてゆけ──汎人類史のモノども!」という発破が、再び彼女たちの足を進ませるのだと思います。

スカサハ=スカディに明かされる空想樹の名前、一体どんな意味なのかと思えば、なるほど銀河の名前……これは完全に蛇足の余談なんですけどソンブレロって何だろうと思ってぐすんぐすんなりながら検索したら一番最初にWikipediaの謎のおじさんのイラストを見てしまって、……???となってしまった。ぐぐってください。というか、それはどうでもよくて、異聞帯を支える銀河、Cosmos in the Lostbelt、なるほどな~~~~!!!あまりにもうまいでしょ……なるほどね…………あとからの情報の開示の仕方が本当に上手いんだよな……ゲッテルデメルングのバナー、なんでこの色なんだろうと思っていたところ、空想樹を飲んだスルトを見てアッ!!!!!てなったし、最後の最後にオフェリアとマシュの回想を持ってくるのさあ……!!!!一緒に食事をとること、とりたいと思うこと……ウウーーッ……嫌いな相手やなんとも思っていない相手とは一緒に食事をしようとは思わないので……相手ともっと話してみたいから、そうして相手を知りたいからこそ声をかけるし、相手もそう思っているから笑って頷く……マシュもオフェリアも人とのつきあい方に不馴れすぎただけで、きっともう、とっくの昔に友達になれていたはずだったんだよな……

そして、ホームズが言ったように、人類史そのものによって不要と判断され切り捨てられたとしても、そこに生きる人々に罪はなく、文明に落ち度はない。消えゆく獣国を、彼らが余剰と切り捨てた無数の綺羅星が包んでいたように、春を迎えられなかった北欧の世界を浚っていくのは、春の芽吹きを感じさせる暖かな風なんですよね。

彼女たちは無数の屍を越えて、その思いも抱いて進み続ける。相手を知ろうとすることも、辛くても思い出すことも、主語が「自分」だということを絶えず再認識するということ。それは自分の選択に対する責任であると同時に誠意だし、そういう誠意をしっかりと持って向き合っているからこそ、「自分達はそれでも進む」という意思を持ち続けることができるのだと思います。

 

これだけ長い記事になってしまったのでわかってもらえると思うんですけど、2章、あまりにも、性癖直撃大爆発だった……反復が上手いからこそ語り始めると無限ループになってしまって、文章に起こすのが超大変でした。特にキリシュタリアとオフェリアとナポレオンとスルトのところ……なんとこの記事18000字あります。長……

2章、もう本当にめちゃくちゃ良かった……しんどいし苦しいけど、どこまでも誠意があるので……ありがとう……鉄の棺桶にすべてを積み込みながら、これからも進むんだなあ……

さて、ゲッテルデメルングプレイ中に、なんと!!!ずっと爆死していた婦長が!!!!きました!!!!!!めでたい!!!!!!そしそして調節していたわけでもないのに、スカサハ=スカディ戦で絆5になりました。ウウーーッ好き………………

f:id:tc832:20181026231318j:image

婦長がきてくれて(しかもその後まさかの宝具2になった)物欲が消えたのか、その後空前絶後の星5ラッシュが続き、なんと1日にアナスタシア様と英雄王とアキレウスさんがきて、しかもアナスタシア様は極大成功呼符1発、英雄王とアキレウスさんは2枚引きという……何……あの日まじですごかった

f:id:tc832:20181026231833j:image

そして、実装された新宿のアサシンの幕間「ある侠客の死」が、もう、ほんっっっっっっとうにウルトラスーパーエクセレントグレイテスト幕間で……わたしは……わたしは……ほんとうに……なんであれは新宿のアサシンがいる人しかできないの……?完全に新宿のエピローグじゃん…………うちの新宿のアサシンは星4配布のおかげなんですけど本当にあのとき欲望に正直になってシンシン選んでほんとうによかった…………

新宿のアサシンの幕間をまだやってない人、絶対にやって!!!!!!もしくは新宿のアサシンを引いて!!!!!!!ていうかまた星4配布をやってくれ!!!!!!!頼む!!!!!!今回は以上です!!!!!

 

 

何度でも床は抜け金だらいは頭上に落ちる

君はもう、かんばまゆこ先生の「錦田警部はどろぼうがお好き」を読んだだろうか。

「けいどろ」こと当作品は、昨日今日において間違いなくどの作品をも上回る瞬間最大風速を記録した作品だ。

読んでいない君はいますぐKindleでぽちっとやるかサンデーの公式アプリ「サンデーうぇぶり」でぽちっとやって全話読んでほしい。うぇぶりは最初にフリーコインがたんまりもらえるので、なんとそのフリーコインだけで全話読めてしまう。そしてKindleでぽちっとやって2巻まで読み、そこで止まっている君。頼むからいますぐうぇぶりのかんばまゆこ劇場へ行き、15話と16話を読んでくれ。頼む!!!!!

錦田警部はどろぼうがお好き - かんばまゆこ - サンデーうぇぶり

https://www.sunday-webry.com/series/557

かんばまゆこ劇場 - かんばまゆこ - サンデーうぇぶり

https://www.sunday-webry.com/series/996 

 

はじめに、このブログはプレゼン記事ではない。けいどろが性癖に直撃して大爆発を起こした関係性オタクの魂の叫びである。プレゼンブログは数々の神が既に書いてくださっているので、プレゼンの折にはぜひそちらをご参照願いたい。

まだけいどろ履修済の世界線に至っていない諸兄は早く全話読み、そしてもし気が向いたら当記事に戻ってきてほしい。1時間もあれば、君もけいどろ履修済の世界に至ることができる。なぜなら、大っっっっっっ変残念なことに、けいどろは、16話までしかないから………………

しかし、逆に考えれば、長く見積もってもたったの1時間で君はけいどろを完全に履修することができるのだ。これはものすごいことではないだろうか。漫画を読んでいる1時間なんて実質一瞬だ。ぜひ読んでほしい。じわじわきたりひんひん笑ったりラブコメの波動にテンションが上がっていると不意打ちで死ぬ。けいどろはとんでもない作品である。

 

 

 

さて、私がこの記事を書くに至ったのは、ひとえに死んだ目警部の存在ゆえである。恋する中学生のような警部の姿ににこにこしたり噴き出したりしていたらいきなりとんでもない展開に殴られて私は宇宙に放り出されてしまった。

警部とアンリくんとジャックの3人で進んでいくんやな~と思っていたらとんでもなかった。実質4人だった……全話読んでから読み返すと1話の「内通者はハチの巣だ!!!」がまじでやばくて震える。ジャックに出会って恋する中学生になっても、この人の根っこの部分のヤバさは変わらないんだ……と思うとはちゃめちゃにヤバい。しかも何事にも興味ないくせに命令順守さえ守れば部下は命がけで守ってくれる。警部、いったい、何………………

私は関係性オタクなので、「君に出会うために生まれてきた」と同じくらい「君に出会うために生まれてきたわけでは断じてなかったのに」が好きだ。そういったどうしようもない遭遇によって否応なく運命が変わってしまう二人が好きだ。性癖に直撃したり、爆発直撃の余波で二次創作をしたりするのは圧倒的に後者の二人が多い。月刊ジャンプスクエアで絶賛連載中の「青の祓魔師」では志摩事変および島根イルミナティ編によって私の人生そのものが変わってしまったし、昨年10月の島根イルミナティ編の舞台はどうしてもどうしても行きたくて神社にお参りもした。今年の4月は主に「ゼロの執行人」にあって「純黒の悪夢」にないもの、「ゼロの執行人」になくて「純黒の悪夢」にあるものに思いを馳せているうちに終わった。

死んだ目警部がもたらしたのは、「アンリは『死んだ目の錦田』を知らない」 というとんでもない事実である。怪盗ジャックと出会ったことで目が輝きだし、退屈だった人生が動き出して以降の錦田のことしか知らない。定期的に警部はときめきやら衝撃で心臓が爆発し目が死んでしまうが、そうして目にする死んだ目の錦田はアンリにとってはあくまで暫定的な姿にすぎず、アンリにとっての錦田は、死んだ目モードを目にしてもなお、恋する中学生なのだ。そう、アンリは自らが変えた男のかつての姿を知らないのである!!!!!!

これはとんでもないことだ。我々が当初思い描いていた「アンリはジャックを前にするとぽんこつになってしまう錦田を知っているが錦田はアンリがジャックであることを知らない」という情報に不均衡がある関係という解釈は実は不完全で、実態は「錦田はアンリがジャックであることを知らないし、アンリはジャックと出会って以降の錦田しか知らない」というお互いに空白を抱えた、情報の不均衡さの均衡がとれた関係である、ということが明らかになってしまった。とんでもないことである。

私は芥川龍之介の「藪の中」が大好きだ。ツイッター青空文庫が話題になるたびにリンクを貼っているし、大抵こじらせると藪の中じゃん……と言い始める。「藪の中」はある事件に対する複数人の証言からなる短編なのだが、こちらもすぐに読める長さなのでぜひ読んでほしい。

青空文庫 藪の中 https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/card179.html

事実関係はひとつだけであるはずなのに、「真実」というものは主観という眼鏡を通せばいとも容易く変わりうる。あるのは事実関係・因果関係と各人の主観のみであり、たった一つの確かなものなんて、そんなものはどこにもない。不均衡のある関係はこの世に溢れており、互いに歩み寄ることなしに対等な関係というものを築くことは難しい。しかし、だからこそ人が誰かを大切にしたり、一緒にいようとすることは本当に素敵なことだなあと思っている。そこには、相手に対する思いやりや愛情がたしかにあるからだ。きっと私は、だから不完全さを不完全なままで大切に抱えながら対等な関係を築いている二人にどうしようもなく惹かれるのだろう。

話をけいどろに戻すが、死んだ目の錦田の存在が明らかになったことによって、錦田とアンリの関係性もまさにこのような関係であることが明らかになってしまった。しかもそういう関係だとわかっただけでなく、銃を向けられたジャックがあんな……あんな顔を……するなんて……!!!!!!!!性癖直撃大爆発の瞬間である。その瞬間、床が抜け、頭上に金だらいが落ちてきたかのような衝撃が私の体を駆け抜けた。「床が抜けて頭上に金だらいが落ちてくる」というのは何かにハマったことを観念するほどの衝撃が走ったときの私の常套句なのだが、まさにそれだった。そのとき橘に稲妻走る、である。

錦田はジャックに焦がれ、アンリを大切にする。アンリは錦田に自分を追わせてやっているようでいて、その実錦田の人生の大半を占める死んだ目の時代を何も知らないのだ。16話のアルバムのシーンの圧倒的致死量で私の心臓も止まってしまった。あまりにも、あまりにも完璧な関係性である。ありがとう………………!!!!!!!!!!

 

これは関係性オタク私の魂の叫びなので唐突に降谷零やFGOの話をするが、上記の「あるのは事実関係と主観のみで、たった一つの確かなものなんてどこにもない」という性癖をこじらせ続けた結果、2018年4月に「ゼロの執行人」と「Cosmos in the Lostbelt」のベン図が重なるというまさかの事態が起きてしまった。結局同じひとりの人間の性癖なのですべての沼は繋がっており、それらの性癖はこれまでに触れた人や作品や出来事によってかたちづくられる。当然のことといえば当然だ。

私はドラマも好きなので毎クール数本は見ているのだが、恋愛が題材になっている作品に関してはピンとくる/こないがかなりはっきり分かれる。「スラムダンク」と「鋼の錬金術師」に育てられ、「BLEACH」→「NARUTO」→「ONE PIECE」という王道ルートを経て少年漫画にすっかりはまりながら生きてきたので、人格形成や性癖に影響を与えた少女漫画は「カードキャプターさくら」「ハチミツとクローバー」「坂道のアポロン」「夏目友人帳」等々、いわゆる恋愛題材ものとは少し毛色の違うラインナップのように思う。

妄想や二次創作においても大抵恋愛色のうすい、あるいは皆無のものを好み、「離別萌え」なるものを提唱しつつせっせと生産してきた私にとって、ラブコメと藪の中性癖が共存するということは果てしない衝撃だった。「錦田警部はどろぼうがお好き」は圧倒的にラブコメであり、それでいて二人の手持ちの情報は完璧に不完全で、その不完全さを抱えたまま互いに向き合っている。この語るのにやたら文字数のかかるツボとラブコメが共存しうるなんて考えたこともなかった。この2つは、ここまで完璧なバランスで共存することができるのか!

全ての出会った人や作品や経験は自分の一部になり、自分の思考に影響を及ぼす。志摩事変を皮切りに様々な場面で関係性萌えをこじらせつづけ、自分の性癖の形成はほぼ完成したのではないかなと思っていたが、まだこんなにも衝撃を与えてくれる作品に出会えたことが嬉しい。いまある性癖にぐさぐさに刺さって、それーーーーー!!!!!!!となる作品との出会いは本当に楽しく大切なものだし、自分のときめきの新たな可能性を教えてくれる作品との出会いは本当に貴重で嬉しいものだ。

できれば、叶うなら、私は水族館編が読みたいしもっと警部とアンリくんの関係性にのたうち回りたい……!!!!!!連載再開という夢を抱きつつ、私は布教を続けていく。

 

追記:

うすうす「もしや死んだ目警部はアンリくんがジャックだと気づいているのでは……?」と思いつつもいやいやそんな、それはさすがに私の性癖色眼鏡を通しすぎだろう……そんなことは……と思おうとしていたところ、狂ったようにツイッターで検索していたら「死んだ目警部はアンリ=ジャックだと気づいているよね?」というツイートをちらほら拝見したのですが、やっっっっぱり!?!??!?そうだよね!?!!?!?!!?!?

まっっっっってほんとうにほんとうにむりなんですが……?警部はアンリ=ジャックを知らず、死んだ目警部はアンリ=ジャックに気づいてそのうえで放置しており、警部は死んだ目モードの記憶がなく、アンリくんは死んだ目警部に気づかれていることに気づいていないし死んだ目時代を知ることはないという……そんな……そんなことが……!!!

先に書いた「お互いに空白を抱えた、情報の不均衡さの均衡がとれた関係」というのが、すでに完璧な関係だったのに、更に高次元の更に完璧な関係性になってしまう。

藪の中性癖につながる私の性癖に、何かを隠しているAとそれに気づいているB(Bは本当はAの隠していることに気づいているが気づいていないふりをしており、AはBが気づいたうえで気づいていないふりをしていることに気づきながらなにも知らないふりをしている、そしてBもまた、Aがすべてわかったうえで知らないふりをしていることをわかっている)というものがある。長くて申し訳ないがこれ以上短くすることができない。私はこういう二人がほんっっっっっっっとうに心の底から魂に刻まれたレベルで好きなので、志摩廉造と奥村燐(青の祓魔師)や、赤井秀一と降谷零(名探偵コナン)の関係性にのたうち回り続けているのだが、ここへきてまさかの警部とアンリくんもこの流れに名を連ねることになってしまった。とんでもないことである。出会うべくして私はけいどろに出会ったのだと確信した。ありがとう……ありがとう……!!!!!藪の中性癖にピンときたみんなはきっと同じく藪の中性癖持ちのご友人がいるかと思うので、ぜひその方にけいどろをおすすめしてください。私もおすすめを続けます。

 

願いに罪はあるか

こんにちは。4月開始以降推しジャンルをまたいで立て続けに爆弾を落とされています。ずらしてくれ!時期を!!

4日の獣国配信以降ぐわーーーっと勢いでクリアしたら予想を遥かに上回る感情がぐるぐるしてしまい、何を書けばいいのか……と放心しているうちに11日のサンデーでは赤井と降谷がやっと公式で顔を合わせ、13日には「劇場版名探偵コナン ゼロの執行人」が公開され、14日に執行されてウワーーーッとなって、獣国と執行人を反復横飛びしているうちに4月が終わりかけてました。はやい。ゼロの執行人はまじでおもしろいのでみんな見てね。今年のコナンは刑事ドラマの映画化作品のようなので、「相棒」シリーズをはじめ刑事ドラマが好きな人、土日にたまにやる警察とか公安とかの2時間スペシャルドラマはなんとなく気になって見てしまう人、芥川の「藪の中」が好きな人、派手なアクションが好きな人、車が好きな人、そしてなにより、獣国をプレイして正義は決してひとつではないということにウワーーーッとなった人に大変おすすめです。ゼロの執行人を見たあとに福山雅治の歌う主題歌「零 -zero-」を聞いて私と一緒にウワーーーッとなろう。そしてまた零を聞きながら今度はFGO2部に思いを馳せてウワーーーッとなってください。

 

さて本題に入りますが、ついに待望の2部・Cosmos in the Lostbeltが開幕してしまいましたね……!いやまじでどうなるんだ……どきどきする……

タイトル画面~~~~~とアップデート直後ここから既にしんどかったんですけど、内容はなんというか、想定していたものとは少し違う、斜め上のしんどさで、やっぱりとても面白かったです。そして2部はどういう通称で章の名前を呼べばいいんでしょうか。永久凍土帝国/永久凍土派、アナスタシア編派、2部1章/2-1派、獣国派などを観測しているんですけどなんかどれがいいんですかね……今後のタイトル次第でうまいこと呼び方の法則づけをしたいです。

ということで、橘FGO「永久凍土帝国 アナスタシア」感想いきまーす!

 

ロストベルトNo.1 永久凍土帝国 アナスタシア(4/4~4/9)

f:id:tc832:20180420084310j:image

 

■食べることは生きること

しょっぱなのクリプターズ会議、最後は私と君の異聞帯が競うことが望ましいキリッというキリシュタリアにあのそのオフェリアさん次の異聞帯だしあなたも5番目ですよ!大丈夫ですか!?とちょっと笑ってしまったりとか、外だー!!!と存外たくましいカルデアスタッフ達にウルクの民を思い出してぐすんとなったりとか、まあそんな感じで思ったよりはいきなりしんどさMAXではないスタートだな……1章は控えめなのかな……と油断していたところ全くそんなことはなく、全体的に緩急の付け方が上手でたくさん泣いてしまった。特にサリエリ、なんかもうめちゃくちゃに泣いてしまう……30秒CMの最後……マスターミッションのマシュの鼻歌きらきら星まで仕込みだと思わないでしょ……!?

全編通してずっと一貫して悲壮感や絶望が漂っているわけではないところ、早々に食事の問題に行き当たるところや食料調達の場面が他の章よりも多いところに、こんな状況でも彼女たちは生きているんだよなあ、ということを何度も思った。6章感想でも書いたように、食べることは生きることで、どんな危機的状況でも生きていればお腹は空くし、ごはんを食べればおいしいとかおいしくないとか感じる。普段と同じように。それは生きている限り変わらないことで、人もヤガも変わらない。

なかでもゴルドルフ新所長あらため司令官が本当に良いキャラクターで、普通ではない状況に慣れきってしまったマスター、マシュ、小さくなったダ・ヴィンチちゃんとホームズ、そしてムニエルさんはじめカルデアスタッフ達に対していちいち突っ込むことができる人はもはやゴルドルフさんしかいないんだよね。そしてその存在が、マスター達を「日常」というものに繋ぎ止めているのではないかなと。あの状況でおいしいごはんが食べたい~~!と言い続けたり、青ざめるような場面で当然のようにサッと顔を青ざめさせたり、できるなら逃げる!当たり前だろう!という姿勢を貫いたり、そういう最終的に戻ってくるべきニュートラルな基準ともいえる「普通」の感覚を、いつもなんでもないことのように示してくれているゴルドルフ司令官、大好きです。

7章におけるウルクの人々の活気のある生活にも同じことを思ったんですけど、どんな状況であってもなんだか普通に日々を過ごせてしまう(その状況に適応してしまう)というのは人間のかなしさでもあり強さだなあと思います。イレギュラーな出来事や感情は、それが良いことであっても良くないことであっても等しくエネルギーを消費するんですよね。ストレス強度の調査においては、親しい方の死や怪我や病気等のいわゆる「ストレスを受ける」と言われたときに想定する出来事だけでなく、結婚や出産などの喜ばしい出来事も項目に上がるとか、そういうやつです。そして、だからこそその瞬間の鮮烈さをキープしておくにはエネルギーがいる。悲しくても辛くても変わらずお腹はすくし眠くなる、喜びも悲しみも時間が経てば少なからず角がとれて丸くなってしまうということは、きっと人間が生きるために必要なことであり、自分が生きていることの証明に他ならないのだと思います。だからこそいつかは前を向いてしまうんだよなあ。

 

■名前について

パツシィさんのことを考えると本当にもう彼のあの言葉が全てで、いろんな思いがぐるぐるしてうまく言葉にできなくて、時間が経つごとに途方もない気持ちになってしまう。本編が全てすぎて語る言葉を持たない……プレゼントボックス泣くに決まってるでしょ……

パツシィさんへの言及はたくさんされていますが、私が一番印象的だったのはイヴァン雷帝に関するやり取りで、彼は神父にイヴァン雷帝を見せられて以降繰り返しあれは怪物だ、あんな恐ろしいものに勝てるわけがないと言い続けているんですよね。そしてパツシィさんからの刷り込みのような語りに対して、ストーリーの受け手は「雷帝はそんなやばいやつなのか……どうやって倒すんだ……」と思っていたんじゃないでしょうか。私はティアマト的なアレか……?山の翁はもういないんだぞ!(泣)となっていました。そして、いざ姿を現すと、まさかのマンモス……!!!と驚き、そしてそのときにはもう、ストーリーを進めているときに自分の中にあった「得体の知れない敵」に対する恐怖はいつの間にかなくなっているわけです。

以上は私の個人的な捉え方に過ぎませんが、この一連の認識の変化は妖怪に対する捉え方に似ているな~と思いました。人は形のないものを恐れ、名前がないからこそ得体が知れないと思う。それが姿が明らかになり、それを表す名前がわかると輪郭がはっきりするようになる。輪郭がはっきりするということは、対処が可能になるということなんですよね。最後に空想樹の名前が明らかになったうえで切除に挑むという構図も同様と言えるんじゃないかな。普段関係性についてろくろ回しているときにはラベリングに対して苦い思いをすることが多いんですけど、ラベリングの良さはここなんだよな~~~!ちなみに関係性におけるラベリングについては過去記事で触れているのでこちらもよろしくお願いします!(宣伝)

そして、あの世界に生きるヤガとして全てを見届けた彼の名前を、カルデア一行が知っているということ。本当はどんなモブAにも名前があり、それぞれの人生があるのだけど、物語においては幕の外へ追いやられてしまう。そんななかで、パツシィさんや反逆軍のヤガたちの家族の話が出てきたのは今回のストーリーにおいて大きな意味があったと思います。名前を知るということは唯一のものとして認識すること。名前を知ることで、自分の人生という物語の外側にあった「多数の中のひとつ」としての存在は、唯一無二の存在として物語の内側に飛び込んでくる。とあるひとりのヤガではなく、パツシィとしてマスターにあの言葉をかけるからこそ、あれだけの力強さを持つのではないのかなと。 

順番が前後しましたが、アヴィケブロンとミノタウロスも名前が鍵になってましたよね。アポクリファ未履修の民なのでアヴィケブロンさんはここで初邂逅だったんですけど、まさかソロモンの名を冠していらっしゃったとは……!!!!!胸アツでした……一度きりの、しかも初の詠唱つき召喚で応えてくれたのが、異聞帯のソロモン……泣いてしまう……

ミノタウロスについては、3章感想でも言及した通りエウリュアレとアステリオスのところでめちゃくちゃ泣いたので、こんなのって!!こんなのって!!!と思いました……そしてそんなミノタウロスにも、根差す霊基が同じだからかオケアノスでの記憶がよぎるわけで……17節タイトルの「もはや雷光ではなく」、当初は変容してしまったイヴァン雷帝がもはや自我を保ってないとかなんかそういうあれなのかな?と思ったんですけど、蓋を開けてみればそういうことかーーーー!!!!と唸るとともにとてもしんどかったです……ただ、同様の考察や感想を多数お見かけしたように、この「汎人類史のほうが幸せだった」という状態はまだ救いがある方なんですよね。汎人類史の正しさを信じていられる。異聞帯を滅ぼし、汎人類史に戻すことが正しいはずだと思うことができる。──では、異聞帯のほうが幸福であるならば?……ということがいずれあるんでしょうね……しんど…………ロマニ・アーキマンが生存する異聞帯はあまりにもえぐすぎるので、もしロマニかソロモンが消えていない異聞帯を考えるとするなら、個人的には汎人類史の断末魔で召喚されたソロモンと少しだけ旅をして、少し泣いてから笑って手を振ってお別れする的なそういうのがいい……NARUTOの穢土転生的なあれだ……たのむ……

 

■サーヴァントと生者たち

まさかFGOで天才と限りなく天才に近い凡人の関係性に斬りかかられるとは思わず、見事にクリティカル即死しました。無理……

剣豪と近い性癖なんですけど、その二人にしか理解できない世界や価値観を共有している二人というのが非常に性癖なんですよね……!!!!!サビなので何回も言ってしまう。遭遇してしまう二人~~~好き~~~~~~!!!!!!なんかもうあまりにもドドドドド性癖すぎてめちゃくちゃ泣いて大変なことになったんですけど、なかでも群を抜いてやばかったのが「何、パトロンの耳は鈍い。僕たちにしか分からぬ違いなど、どうってことはないさ」という、ここ、ここですよ…………とんでもない………………自分たちにだけわかる差異、自分たち以外にはわからぬ差異………………それでも彼は弾き続ける、それが彼らにできること、彼らにしかできないこと、彼らが唯一できることだから…………これ以上ない信頼じゃないですか……………………いやもうほんとうに……ほんと……全部がやばすぎて何から言及すればいいのかわからない……「怒りの日」が戦闘BGMだっただけでめちゃくちゃ泣いたんですけど、あれ実は一人じゃ弾けないやつだったって考察をお見かけしましたが本当ですか?む、無理………………

折に触れて書いている気がしますが私は本当に総力戦が好きで、ウルクの冥界の加護と花の魔術師とか、新宿の名探偵の名推理とか、ああいう演出が本当に本当に好きなので、今回も!!!!!ありがとう!!!!!!となったんですけど、今回はこれまでとは訳が違っていて、だからこそやっぱり胸が詰まった。これまでと違うのはアヴィケブロンさんもアマデウスサリエリも己の存在を賭すという選択をしているところで、それはつまり未来に対する祈りにも似た希望の表れなんだよな……未来を切り開くのは生者のみであることに対する希望。世界を転々とし続ける武蔵ちゃんは自分はどの世界でも異邦人という意識をいつも持っているし、ビリーくんやベオウルフも、結局のところ「いま」という世界の行く先を決めるのは生者たちのみであるということをわかっているんだろうなあと感じた。アタランテは、サーヴァントの身でありながら「いま」を生きるヤガたちに対して思い入れがあったわけで、それが彼女を板挟みに追い込んでしまった。

アヴィケブロンの懺悔と選択も、やっぱり「生者だけが未来を変えうる」という彼の考えが根底にあったのではないかなと。

f:id:tc832:20180424183156j:image

そしてサーヴァントである彼らの援護を受けて戦うマスターのもとにやってくるのが、マシュ・キリエライトなわけです。

 

■再び立つ動機

2部序でOPが公開されてからずっと、長い旅を経て聖女になり、そして人間になったマシュが、今度は戦う女の顔になってるの最高すぎる……最高……と言い続けていたんですけど、本当にこれなんですよね!!!!!!これまでは大義の元で戦ってきたけれど、今度は彼女たちが自分の手で選ばなければならない。これまで信じてきた正当性という道標はもうどこにもなくなってしまった。それでも、迷いながら、悩みながら、彼女たちは異聞帯を戦っていくしかない。

そういう点で、最初に異聞帯の大先輩武蔵ちゃんに出会えたのはとてもありがたいことだなあと思いました。悩んでいる自分も苦しんでいる自分も自分という、まあサビなのでまた懲りずにこの話をしてしまうんですけど、まさに自己肯定の後押しなんですよね。自己肯定とはどんな自分も自分の一部だと受け入れることで、私はそれが生きていくうえでとても大事なことだと思っているので……答えが出せないのは悪いことではない。ただひとつの正解というものがないからこそ、たくさん考えて悩んで、そのうえで自分の意思で選ぶということが大切なのだと思っています。金城さんも「本質は自分のなかにしかない」と言っていたあれです。わからない人は弱虫ペダルを読もう。サリエリアマデウスがぐさぐさに刺さった人に大変おすすめです。

獣国でマシュが出撃するなら何か現時点なりの答えを携えて再び戦場に立つのかなと思っていたんですけど、あくまでもそれが「誇らしさも、そうするべきだという確信もない。わたしは悩んだままで、悲しさより怖さがある」「それでも、怖いから、分からないからといって手を放すことは、もっと恥ずべき事だと分かっている」というものだったのが、もうほんと、100億点だった……わからなくても、悩んだままでも、唯一見える光に手を伸ばすんだよな……!

そして、これギャラハッドなんですか?と今も疑問符なんですけど、『──永遠に続く城塞はないんだよ、マシュ。あるとすれば、それは再起する心の在り方。朽ちてもなお立ち上がる、その姿が永遠に見えるんだ』という、これがさ~~~~~~永遠なんてどこにもなく、あるのは一瞬の永遠と永遠に続く一瞬っていう、あれじゃないですかーーーー!!!!!!!性癖!!!!!!!あとから思ったんですけど、「わたしが見てる未来はひとつだけ」だった1部から「もう運命が決まってるなら選べなかった未来は想像しないと誓ったはずなのに」と嘆き悩む2部になり、でもやっぱり「わたしはここにいる」という答えで「永遠などすこしもほしくはない」に戻ってくるんですよね……いや私が勝手に言ってるだけなんだけど……そうするべきだという確信がもてたのは彼女がその域に達してしまったからで、今やそうするべきだという確信もないままそれでも立つのは彼女が人間だからなんだよな……!!!あの旅で命を獲得したマシュ・キリエライト、まさに、それ……!でもまだ彼女はマスターに従うサーヴァントという姿勢が色濃くて、たからこそ、これからより個として強くなっていくのだろうなと思い、本当に本当に楽しみです。マシュの成長……!!

そして、すべてが等しく正しいということは、すべてが等しく正しくないということなんですよね。完全なる正しさは無なんだよな…………

 

■願いに罪はあるか

そしてやっと表題に至りますが、2部1章「永久凍土帝国 アナスタシア」の根底にはこの問いがあったように感じました。こちら、1.5章の感想で述べたように、Epic of Remnantの四篇では感情の鮮烈さと感情の正負は独立した基準であり「強い感情」に正負は関係しない、価値観や感情そのものに正負や善悪はないとするならばそれを決定づけるのは倫理ではないか、ということが描かれていたのではないかなと思っています。

これらの断章を経て始まったのがこの2部であるわけで、やっぱり地続きだよな、というのが私の印象でした。

突然未来を奪われた彼らクリプターにとって、生きたいと思うこと、奪われた未来を取り戻したいと願うことは当たり前のことだと思います。普通の人間だもの。

やはり生きていればやり直したいと思うことや、あのときああしていれば、こうしていれば、と後悔することはたくさんあるわけで。でも実際には時間を巻き戻すことはできないし、やったことはなかったことにはできない。だからこそ生きていくうえでは、自分の選択がどんなものでも結果を拒絶するのではなく、受け入れてそのうえで前を向く、ということが大事なんじゃないかな、というふうに私は考えています。

では、もしその後悔のとおり、過去を変えられるなら。過去を変えるということは未来を変えるということ。過去を変えて未来を変えたいと願うこと、それ自体には善悪はないのではないか。願いの善悪を決めるのも同じく倫理なのではないか。もし彼らが汎人類史に侵攻することなく、自分の生を異聞帯でやり直すことを願っただけだったとしたら、それは「悪」と断ぜられるものではなかったのではないか?

異聞帯に対する自分なりの解釈なので今後違ってたわー!となるかもしれないんですけど、下総国が亜種平行世界=ある種の異聞帯であったとするなら、本来異聞帯と汎人類史は交わらないまま、独立して同時に存在できるはずなんですよね。だから、異聞帯の存在そのものは排斥されなければならないものではない。しかし、「汎人類史の凍結」というその一手ゆえに、異聞帯は滅ぼされるべきものになってしまった。

水島精二監督の「劇場版鋼の錬金術師 シャンバラを征く者」を見た方にはわかっていただけると思うんですけど、獣国、実質シャンバラでしたよね!?「シャンバラを征く者」のあらすじはざっくり言うと、錬金術が発達した作中世界と科学が発達した現実世界は平行世界であり、第一次世界大戦の最中、更なる戦力を求めるドイツの女性将校が錬金術を武力として使用するために錬金術世界に侵攻してくる、というものなんですけど、終盤において彼女は理解できないものが恐ろしいと言って錬金術世界を破壊しようとするわけです。そして、なぜ現実世界から錬金術世界への侵攻が可能になってしまったかというと、それは全く意図せずに、しかしぴったりのタイミングで錬金術世界の側から二つの世界を繋ぐ門を開いてしまったから。興味のある方はぜひテレビシリーズと合わせてご覧になってください。原作が連載中で完結が遠かったタイミングでのアニメ化だったため、第3クール以降は完全にアニメオリジナル展開ですが、荒川弘先生の「鋼の錬金術師」とは別のひとつの作品と言えるほどのストーリー完成度です。

カドックは自分にもできるということを証明しようとしただけ。アナスタシアは皇女としての誇りを胸に、自分の国を築こうとしただけ。イヴァン雷帝は幸福な国を夢見ただけ。ヤガたちは必死に毎日を生き抜こうとしていただけ。アタランテは彼らが必死に生きる世界を守りたかっただけ。異聞帯による汎人類史への侵攻がなければ、彼らのひとつの完結した世界はきっとずっと続いていた。

それでも、汎人類史の生き残りであるカルデアの人間たちは、彼ら彼女ら自身の世界を守るために戦わなければならない。その足元には歴史の敗者たちの無数の亡骸が積み上がる。その事実を自覚していることが、過去に対する責任なのではないかなと思います。

イヴァン雷帝はマスターに対して「この世界に生きる全てのヤガを殺す決断をする覚悟はあるのか」と問いますが、異聞帯とはもとより行き止まりの人類史であるわけで、「殺す」よりも「なかったことに戻す」というほうが的確なのでは、と思いつつ、それでも出会ってしまった以上あまり変わりはないよなとも思い……「貴様が認めずとも、余は認め、去りゆくのみだ」というイヴァン雷帝の最期の言葉の重みよ……。

そして、その問いかけに対するアンサーがアヴィケブロンの「戦え、少女」であり、パツシィの「負けるな。こんな、強いだけの世界に負けるな」なんですよね。敗者と勝者という二極ではなくて、誰が最後に生き残るかという、並列のなかのただのひとつに過ぎないもの。追い詰められたカドックが口にする「まだだ。まだ終わってない!」という叫びは、これまでマスターが何度も口にしてきた叫びと何も違わない。マシュに手を伸ばしたのも、アナスタシアに手を伸ばしたのも、同じ「生きたい」という願いだった。彼らの立場はきっと容易に入れ替わりうるものだった。

けれど、あり得たかもしれない未来がいくらあったとしても、現実はひとつしかない。だからこそ、アナスタシアはただ一度だけ、カドックの前に身を投げ出すことができたのかなあと思うのです。

f:id:tc832:20180427210001j:image

同じ霊基を持っていたとしても、記憶を記録として同期されることはあったとしても、召喚されたサーヴァントとしての生は唯一無二であると思っていて、そんなアナスタシアがカドックを守るのが、まさに今生なんですよね……サーヴァントは生者ではないけれど、唯一無二の今生がある…………生者たるカドックは勝つために世界をやり直そうとするけれど、サーヴァントであるアナスタシアは「そんな勝利に、何の意味があるのでしょう」と言うことができる、そしてアナスタシアはカドックに「その後悔を抱いて生きなさい」と微笑む……今生に後悔があるからこそやり直そうとする男と今生の尊さを知っているからこそそのひとつに殉ずる女、あまりにも、あまりにもじゃないですか…………こんなん、この先なにがあっても、カドックは生きる以外にない…………あまりにも……あまりにも性癖…………どうせ刺さるんでしょと予想していたのに思った以上にぐさぐさに刺さってめちゃくちゃ泣いてしまった…………改めて色彩を聞いたら今度はアナスタシアに思いを馳せて泣いてしまう……永遠などすこしもほしくはない……

生存を求めることは悪ではないし、間違いは悪ではなく、間違いにも意味がある。ただ方向性を違えただけで誰にも罪はないということが全編を通じて繰り返されていて、それを包み込むのが、かつて彼らが生存には役に立たないと切り捨てた余剰そのものというの、異聞帯に生きる者たちに対する優しさにほかならないじゃないですか。やがて消える世界を静かに満たし見守る綺羅星、彼らはそれを見つめながら届かなかったものに思いを馳せるけれど、地上に届く星の瞬きは、遥か過去のものなんですよね。

f:id:tc832:20180427211224j:image

すべてが等しく正しく、すべてに等しく正しさはない。願いそのものには罪はないけれど、ただ一つだけの、万人に共通する正義はない。道を違えない人間はいない、後悔や、胸が詰まるような思いをもって、人は何かを願ってしまう。誰かの正義は誰かの悪であり、ある人の願いは他者にとっては倒すべき悪かもしれないけれど、他の誰かにとっては、確かに希望であるのです。

 

いやぜったい2部しんどいよな~~~と思っていたんですけど、1章において彼女たちにずっとのしかかる問いに加えてこの先も指針になる言葉が示されたことで、なんだか希望が見えたような気がします。結末がどうであれ、きっとこの選択しかないと思えるような展開になるはずだと信じているので、今後も非常に楽しみです。あの終わり方、続きが気になるよーーー2章はいつですか……!!!!!

2章のタイトル「ゲッテルデメルング」はラグナロクを指しているそうで、キリスト教の終末思想たる怒りの日に続いて、次はラグナロク……なるほど世界の終焉……

 

今回は時系列順の感想ではなかったのでなんだかとっちらかってしまったような気もしているのですが、プレイしたり、クリア後に読み返したりして、ぐるぐるとこういったことを考えていました。

そして、アナスタシアとの最終戦においてついにマルタ嬢が絆10になりました!!!めでたい!!!いつもありがとう~~~だいすき~~~!!!!!!これは宝具で倒そうと思ってじりじりNP貯めていたのにマルタ嬢が強すぎてアーツチェインで8万削って倒してしまったときにびっくりしすぎて呆然としながら撮ったスクショ。マルタ嬢、なんかなにもしてないのに日々強くなっていっている気がする(気のせい)。信仰の力かな。だいすきです。

f:id:tc832:20180428020311j:image
f:id:tc832:20180428020329j:image

 

イメソン判定ガバガバなので、この記事も色彩と逆光と零 -zero-をひたすら聞きながら書きました。2つのジャンルで同じタイミングで「正義は決してひとつではない」という同じテーマで殴られるの、本当に何……同じ人間の性癖だから容易にいろんな沼が繋がってしまう。シャンバラも水島ハガレンもペダルも本当に大好きなんですよね。しんどい。零を聞きながら降谷零のことも考えてしまうしマシュのことも考えてしまうし、これでスコッチの名前が光とかだったら未来の私はどうするんでしょうね……いや実際ありそうで洒落にならない……そのときは強く生きてください 2018年4月の私より

正義はいつもひとつではなく、だからこそ、迷い悩みながら自分の信じる一条の光を見つけようとひた向きに進む姿勢は胸を打つのだろうな。繰り返しになりますが獣国をプレイしてウワーーーーッとなってまだ執行人を見ていない人!!劇場へ走れ!!!!!!今回は以上です!!!!!!!