基本的に壁打ち

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自由になりたいわたしたち

昨日5月29日、ASIAN KUNG-FU GENERATIONのライブに行ってきました。(アンコール写真撮影可能の公演です) これは今回のベストショット。

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本当に……めちゃくちゃ楽しくて……すごく良かった……ぎゅっと詰まった2時間半でした。超たのしかった……余韻がものすごい……めちゃくちゃ元気になった……!!!

 

ツイートを遡ったらどうやらアルバム「ホームタウン」を最初に聞いたのは4月11日の朝の電車の中だったようなのですが、それよりも、なんか今日妙に疲れたな~と思いつつその日の帰りに改めて聞いたときの染み渡り方のほうが最初の印象として強いです。どこか力が抜けていて、ゆったりと帰路に寄り添ってくれるようなアルバム。私にとって、そんなイメージのアルバムです。

アジカンとのファーストエンカウントは鋼の錬金術師の「リライト」でしたが、その後中学生になってからツタヤで「ワールド ワールド ワールド」と「マジックディスク」を借りたのが本格的な出会いだったように思います。「サーフ ブンガク カマクラ」が好きすぎて友達をさらって江の島に行ったこともありました。

 

私は小さい頃から考察とか、何かに疑問を持つということがそれはもう絶望的に苦手で、良く言えば素直・悪く言えば考えなしという子供でした。小学生のとき理科の佐藤先生に通信簿に「もっと色々なことに疑問を持ちましょう」って書かれたりして、どうしたらいいんだろうって私にしては真剣に悩みながら、一方で「でも『こうだよ』って言われるから『そうなんだ』って納得するんじゃん」とずっと思っていました。いや今も思ってるか。

大学生の前半、たぶん十九の中頃まで、雨の日と寒い日がどうしようもなく駄目だったんですよね。肌寒い雨の日なんかもう最悪で、身の置き所がないというか、いたたまれないというか、気持ちが閉鎖的になってどうしようもないというか。そのくせ外面はいいので部活には絶対に行き、なんでもないように振る舞って、そのうち練習のハードさでそれどころではなくなり、いつの間にかニュートラルに戻っている、というのを繰り返していた。とはいっても肌寒い雨の日限定なのでそんなに頻繁ではなかったけれど。

そういう雨の日、生協で売っているドーナッツをとにかくたくさん食べて「きらきらひかる」か「号泣する準備はできていた」を読んで図書館の机で寝ると、なんだか気持ちが落ち着いたような気がして、それからはドーナッツを食べつつ、割とそのどうしようもなさを飼い慣らしていたように思う。そして、そんなどうしようもなさをは、なんの前触れもなく、いつの間にかすっかりどこかに消えてしまった。あれ本当になんだったんだろうな。

昨日、「UCLA」のイントロを聞いて、水の中にいるみたいだなあと思った。それで、「UCLA」と「モータープール」を聞きながら、もしあのときにこの曲たちがあったら、あのときのどうしようもなさは何かが違ったのかな、と。そんなことを思いました。

それとともにふっと思い浮かんだのが、開演前に少しだけ読んでいたTHE FUTURE TIMESのゴッチの連載の一文でした。

けれども、その曲が「ある世界」と「ない世界」のどちらがマシなのかと問われれば、間違いなく「ある世界」を僕は選ぶ。世界を変えられなくても、僕自身は間違いなく、その曲の誕生以前と以後では、何から何まで違う。

 

THE FUTURE TIMES 2018 winter 連載「未来について話そう」 後藤正文

わたしたちは、主観だけに基づく世界に生きている。どんなに客観的に物事を見ようと思っても、主観を排そうとしても、自分の意識のうえにしか自分は存在しえないのだから、結局すべては自分の主観だけに基づいているという意味です。

そのうえで「どれだけ自分の主観を豊かにできるか」ということに、わたしたちは向き合っていかなければいけないのだと思います。自分本位ではないか、知らないものを切り捨てていないか、ちゃんと世界の動きのアップデートについていけているかどうか。主観の豊かさとはそういうことなのではないかなあ。

中学・高校のときから好きだなあと思ってもう何度も何度もリピートしてきた音楽でも、改めて聞くとはじめて受け止めるように思えることがあります。これまでその曲を聞いていたときは全く思い至りもしなかったことを考えたり、普段から聞いている好きな曲で涙が出てきたり。そういう経験をするたびに、そのときどきによって自分に影響を与えるものから何を感じるか、何を受け取るかは異なるのだなあと思うし、わたしとわたしの好きな音楽という一対一の関係は、一対一だからこそ果てがない。

昨日のライブで、ゴッチが、自分と音楽はその間で本来完結していて、それでもそうやって震動するものによってみんなが楽しんでくれるのはありがたいことだという話をしたとき、音楽や言葉や作品というものは、どれもみんな同じなのかもしれないなと思いました。主観だけに基づく世界に生きているわたしたちは、誰かの主観に触れて、自分の主観でそれを感じ、考えながら、それらを受け取る。そのやりとりは本当はどこまでも一対一の二者間で完結していて、わたしがどう思うかということがわたしにとってのすべて。

それでも、わたしたちが一対一だけで完結できないのは、世界のなかで他者とともに生きているから。そもそももし一対一で誰もが完結していたら、生み出す人のもとで止まってしまうのだから、言葉や音楽や文章や映像というあらゆるものは他者の目に触れなくなる。わたしたちは自分で意識しなくても世界とつながっていて、生きている限り無関係ではいられない、というのは「鋼の錬金術師 シャンバラを征く者」の台詞ですが、生きるとはそういうことなのだと思います。

誰かに向ける言葉以外の、誰に向けたものでもない言葉が、何かの拍子にどこかに流れ着くことがある。誰に届かなくてもいいと思っていることが不意に誰かに届くというのは、本当にすごいことで、喜びでもあります。違う主観に基づく別々の人間が完全にわかりあうことは絶対にできなくて、だからこそ、何かがつながったと思えること、「つながった」と感じるそれが幻想だとしても、わたしたちはそういう喜びを求めながら生きている。

音楽、絵、漫画、小説、それがどんな媒体であっても、「作品」と呼ばれるものを生み出せる人はそう多くはありません。それでもみんな言葉を持って、言葉を使って誰かと一緒に生きている。「作品」というかたちをとる必要性は必ずしもなくて、きっとなんでも良いのだと思います。自分と向き合うことで生まれる何かなら、きっといつか誰かに届くし、そのかたちはなんでもいい。わたしがなんだかんだと文章を書き続けているのも、まあ後になってセルフわかりをするためというのが9割がたの理由ではあるのだけど、何かの拍子に誰かが何か感じてくれたらいいなあとか、そんなことを思っているからなわけです。

そんなことを、アンコール1曲目の「マーチングバンド」を聞きながら考えていました。「マーチングバンド」、本当に大好きな曲なので、聞くことができて本当にうれしかったです。

 

わたしがアジカンのなかで一番好きな曲は「未だ見ぬ明日に」で、就活と部活で日々に消費されていたとき、自分をちゃんと立たせるためにひたすら聞いていた曲でした。音量大きめで流しながら、ふと見上げた夕焼けのきれいなグラデーションを、いまでも覚えている。わたしの忙しさなんて、以前もいまもたかが知れているのだけれど、それでもあのときわたしの日々にこの曲があって本当によかった。

「ホームタウン」のなかでそういうふうに思った曲が、「荒野を歩け」なんですよね。

理由のない悲しみを

両膝に詰め込んで

荒野に独りで立って

あっちへ ふらふら また

ゆらゆらと歩むんだ

どこまでも どこまでも

 

ASIAN KUNG-FU GENERATION「荒野を歩け」

いろいろなことがあるけれど人生は続くし、うれしいこともあればかなしいこともある。そういう、アジカンの大好きなところがぎゅっと詰まった曲だなと思った。わたしたちは、わたしは、それでも前を向いて生きていく。そうありたいと思う、思えるようにそっと背中を押してくれる。そういうところが本当に大好きだし、アジカンの、彼らの哲学だなあと思う。

 

わたしは自己肯定感情がめちゃくちゃに高く、いやなことはすぐ忘れてしまうたちで、そういう意味では相当ハッピーでお気楽な人生を送っているのですが、昔から「〇〇になりたい」といういわゆる将来の夢というものがないんですよね。ハングリー精神も正直ほとんどない。そういえばこれも困りましたねえって塾の先生に言われてたような気がするな。

わたしの人生が一番大事、すべてはなるべくしてなるので人生レベルで後悔していることはひとつもない、と本心で思っている。同時に、土台の部分で自分は、みんないつの間に将来の夢が明確にあるの……?という不思議8割、いやでも全員が全員なりたいものがあるわけないじゃんという疑問2割を持っていたんだろうな。

最後の1曲、「ボーイズ&ガールズ」を聞きながら、ああ、そういうことじゃないんだな、とすとんと腑に落ちた。「夢」というのは具体的な何かに限ったものではなくて、「こうありたい」「こういう自分になりたい」というのも、きっとそういうものなんだ。「始まったばかり」とうたう彼らが本当にかっこよかった。人としてかっこいい。かっこいいな、わたしもこういうかっこいい大人になりたいなと、そう思った。わたしたちはいつでも始まったばかりで、どうにでも、なんにでもなれる。職業や出会いやそういう具体的な事柄はなんでも自分の思うとおりにできるわけではないけれど、自分がどうありたいかは、いつだって自分で決められる。

 

どうしてもアジカンのライブに行きたくて、去年のゴールデンウィークに日帰りで大阪に行ったとき、MCで「楽しみ方は人それぞれで、自由に心を開いて楽しんでください」と言っていたのがとても印象的でした。今回も彼らは「自由に、自分のスタイルで楽しんでね」と言ってくれて、なにより彼ら自身が本当に楽しそうで、あの空間と時間がわたしは本当に楽しかった。

自由とは日々拡張されていく概念、ということを、少し前から考えています。世界は日々アップデートされていき、情報はどんどん容易に手に入るようになって、余白部分の解像度はどんどん上がっていく。いままでうまく言えなかったこと、目を向けず認識しないままでいたこと、そういうものが認識を経てかたちを得て、わたしたちの主観は拡張されていく。世界が広がるほどに、昨日までなかったもの、価値観、そういうものが増えるたびに、わたしたちは少しずつ自由になれる。

昨日のライブの最後、「解放区」をわたしははじめて聞いて、アジカンはまた、いままでよりも自由になったんだなあと思いました。

彼らの楽しそうな姿がまぶしくてうれしくて、とてもかっこよかった。わたしの世界はまだまだ狭くて、知らないことも思い至らないこともたくさんある。生きているかぎり、そういうことだらけなのだと思います。それでもわたしは、もっと自由になりたい。こうありたいと思う自分でいたいし、もっとこうなりたいと思う自分に近づきたい。昔は苦手だった「考える」ということをようやく少しずつできるようになってきて、わたしは絶対に小さい頃よりも自由になれた。だからもっと色々なことを自分のこととして捉えて考えられるようになりたいし、「考える」というフィールドのなかでもっと自由になりたい。わたしはどうだろうと自分に問いかけて、自分と向き合いながら、わたしの、わたしだけの人生を生きていきたい。

うれしいことだけではない、かなしいこともつらいことも大変なこともたくさんある、予想できない日々に振り回されながら、それでもわたしは生きていく。どんなときでも前を向いていたいと思いながら。わたしはもっと自由になれる。わたしがそう思う限りいつだって、わたしのこれから先は、まだ始まったばかりだ。