基本的に壁打ち

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一番身近な魔法 ―「だから私はメイクする」感想

去年の8月、社会人2年目、2回目の海外出張。記念として自分へのおみやげに、免税店でアイシャドウを買った。CHANELのレ キャトル オンブル。一緒に行った上司はそういうの何か言ってきそうな人だったので、職場のみんなへのおみやげ買ってくるからゆっくりしててください!30分くらいで戻ります!と言ってラウンジに置き去り、おみやげのお菓子を確保してから、少し緊張しつつ足を踏み入れたのを覚えている。完全に無知だったせいで、日本円支払いにしてしまいかえって高くついたことまであわせて、すごくいい思い出。

劇団雌猫さんの「だから私はメイクする」を読み始めて、最初によぎったのはそのときのことだった。

だから私はメイクする 悪友たちの美意識調査

だから私はメイクする 悪友たちの美意識調査

 

 

メイクするのは楽しい。私は顔がうっすいので、裸眼ならフレームがしっかりした眼鏡・コンタクトならメイクの完全な二択で、アイメイクをやればやるほど目が大きくなるのでメイクのしがいがめちゃめちゃある。部活の甲斐あって成人式のとき人生で一番痩せていたので最高に盛れた写真が撮れた。プロの技は本当にすごい。

出掛けるときには必ずメイクするけれど、なんのためにメイクするのかということを改めて考えたことはなかった。私はどうしてメイクするのか。視力検査の一番上が裸眼では全く判別できない視力なので、家で眼鏡をかけている顔とコンタクトをしてメイクをしている顔が自分の顔という認識だから。コンタクトを入れたら必ずメイクするので、もはやコンタクト+すっぴんはしっくりこない。あと、シンプルにメイクをした自分の顔が好き。メイクの行程で自分の顔になっていくのはやっていて楽しいし、満足感もある。

でも、それはただの理由で、動機とはまた違うような気がした。「メイク」という私たちの生活の一部、ひいては人生の一部になっていることの捉え方・向き合い方は寄稿ごとに本当に違っていて、人それぞれで、みんないろんなことを考えながら生きているんだなあとそんな当然のことを思う。そうして、わかる!となる部分やそういう人もいるのか~となる部分の両方に頷きつつ、頭の片隅で私にとってメイクってなんなのかなあとぼんやり考えながら読み進めていたところ。私は「デパートの販売員だった女」を読んで思わず泣いてしまった。

 


母が働いていたころの同僚に、普段はナチュラルメイクだけど今日は言うぞという日にはがっつりメイクをする人がいたらしい。その人が戦化粧と言っていた、という母の話をなんだかずっと覚えている。

大学に入るまで、メイクなんてやったことも関心もたいしてなかった。大学生から眼鏡をコンタクトに変え、メイクもするようになったけれど、どうせ汗ですべて流れてしまうからとそこまでのモチベーションもなかった。コンタクトになると眼鏡さえあれば顔!となっていたときのようにはいかず(眼鏡は顔の一部とは本当になんて真理をとらえた言葉なんだろうと思う)、合宿の日もへろへろになりながら起きだして眉と口紅だけはなんとかやっていた。それもお昼を待たずにどこかに行ってしまっていたけれど。

部活を引退し、会社に入ってようやくちゃんと髪を巻くようになった。道着もグローブも持たなくてよくなり、代わりに通勤用のバッグを持って、ジャケットが合うきれいな格好を日常的にするようになると、なんとなくメイクや洋服もちゃんとしたくなる。もともとキラキラしたものが好きで、アクセサリーや雑貨を見るのが好きな私が、化粧品を見るのが好きではないわけがなかった。

髪がうまくいかなくて、メイクが薄いとなんとなくテンションが下がる。ばっちりいい感じにメイクができて、髪もちゃんときれいに内巻きにできると、今日も一日がんばろうという気持ちになる。思えば大会の日はいつもより念入りにメイクをして、濃い色の口紅をしていた。今も、上司と戦うときや気が重い電話の前にはメイクをなおし、口紅を塗りなおして気合を入れる。

私はどうしてメイクをするのか。私にとってのメイクは、気持ちを切り替えるスイッチのようなものなのかもしれないと思った。仕事の日は、仕事モードに移行しながら。お出かけの日は、わくわくしながら。なめられたら負けるというときは、自分で自分に気合を入れなおしながら。メイクをする時間を通して、私はその先のものへ向かうための準備をしている。

ファッションも同じで、やっぱり私は強気で行きたい打ち合わせや会議がある日にはかかとの高い強そうな靴を選んでしまう。友達と久しぶりに会う日の前日には、通勤着とは比べ物にならないほど服をとっかえひっかえして悩む。そうやって、よし!と思える自分で家を出ると、姿勢もしゃんとする気がする。

一番最後、劇団雌猫さん4人の座談会の中で出てきた「ファッションやメイクを選ぶって、なりたい自分を作っていくこと」という部分に、それだ、と思った。自分の力でなりたい自分に近づくことができるって、すごいことだと思う。

 

書籍を捨てられない女なので雑誌を買う習慣がなく、美容院で読む程度だったのが、Pinterestをインストールしてから物欲が爆発している。服もほしいし、靴もほしいし、コスメもほしい。基本的にちょろいので服と靴以外はおすすめされるとすぐにほしくなってしまう(スタバにあったかい飲み物を買いに行ったのに、期間限定のフラペチーノをおすすめされてまんまと頼んでしまうことがよくある)。服と靴は試着してみて自分がしっくりこなかったらしっくりこないのでどちらかといえば意思は固めなのだが、代わりにしっくりくるとこれは出会い!!!と即決しがちで、この間もそれで靴2足一気に買ってしまった。幸せ。大満足。

おしゃれをするのは楽しい。毎年盛大に誕生日を祝い合っている友人から今年はチークをプレゼントにもらった。人から見たらそこまで変わらないのかもしれないけど、やっぱりテンションが上がるし、つけるだけで嬉しくなる。自分のものを探すのも楽しいし、もらうのも嬉しいし、人にあげるものを選ぶのも楽しい。おしゃれしてデパートに行くと、それだけでテンションが上がる。やっぱり仕事帰りのよろっとした姿や、近所のスーパーに行くときの楽な服ではなく、そういう気分にあった格好で行ったほうが、全力で楽しめる。出かける準備をしているときから、もうお出かけは始まっているのだと思う。

 

就活のスーツや、ハイヒール論争はなかなか絶えない。私はハイヒールが好きだけど、タイトスカートが絶望的に似合わない。タイトスカートである意味がどこに!?絶対フレアのスーツの方が素敵な私をお見せできるからな!?と就活中いつも思っていた。

そのシチュエーションにあった装いというものはどうしたってあるにしろ、その範囲内から外れなければなんだっていいはずなのに、と思う。例えば結婚式に白を着ないとか、不幸の際に真珠以外をつけないとか、そういうものは社会で他人と生きている以上どうしたってやっぱりある。でも、そうではない、本当はどちらでもいいのにという場面なら、タイトでもフレアでも、パンツスーツでも、黒でも紺でも、ハイヒールでもフラットでもいいはずだ。ハイヒールが労災かどうかを画一的に決めるより、TPOに沿った装いの範囲内であればどっちでも、なんでもいいよという幅の広さが生まれればいいのに。と、おしゃれという自由を考えるのにあわせて、そんなことも思ったりした。

 

つらつらと書いてきたけれど、常に美容の意識が高いわけでもないし、メイクがめちゃめちゃうまいわけでもないし、すごくスタイルがいいわけでもない。でも、上手い・下手とか他人の視線に一切関係なく、ただただ主観的に楽しめる、もっと言えばする・しないも自分で決められるのがおしゃれの素敵なところだと思う。

生理前や繁忙期は目に見える速度で肌が荒れていくので半ば諦めモードだったのだが、救世主・オードムーゲのふき取り化粧水に出会ってからなんとか持ち直し、肌荒れと復調の波も小さくなりつつある、と信じたい。成功体験があると一気にモチベーションが上がるというのは、やはりどんなことにも共通するもので、これで肌がきれいになるのでは……!?と思えるとスキンケアにもメイクにも俄然やる気が出る。もったいなくてまだ使えていない、冒頭に書いたアイシャドウをいつおろそうか、先の予定を見ながら考えるのが楽しい。

生きているだけで痩せたい、とよく言っていたのだがさすがにそんな甘っちょろいことを言っていられる状態ではなくなってしまったので、6月の終わりからキックボクシングに通い始めた。さんざん三日坊主を繰り返してきたが、今回のダイエットはなんとか続けられている。この調子で引き続きがんばりたい。目標はまだまだ先なので……。

ジムとかホットヨガとか色々調べてはみたけれど、部活があったおかげでキックボクシングの方が私にとってはよほどハードルが低かった。ストレス発散になるし、ミット打ち・蹴りだけだから痛くないし、足のむくみもずいぶんよくなり、毎回めちゃくちゃ楽しい。部活ではスパーリングでボコボコにされていたからむしろ苦手な練習で、荷物になるからといつも備品を借りてついぞ自分用は買わなかったのに。人生とはおもしろいもので、何がどこでどう繋がるかわからない。働き始めて3年目、通勤バッグの反対側、サブバッグの一番下にはグローブが潜んでいる。