基本的に壁打ち

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光ある人生・後編 ―「風が強く吹いている」感想

このタイトルでアニメ「風が強く吹いている」の感想文を書き始めてから早4年、いつの間にか2023年の春どころか夏である。

もともと、好きなところをめちゃくちゃ語るぞ!!という思いで書き始めたこの風感想文なのだが、この感情を逐一言葉にするのは野暮なのでは……という気持ちがどうしてもあり、寝かせ続けるうちに日々が大変なことになってそれどころではなくなってしまい……。

4年の間にハイキューが完結し、バクテンが放送され、更には映画が公開されたことで感情がさらにめちゃくちゃ揺さぶられ、もうここまできたら好きなだけ書こうと思いつつのんびりと一文字も増えない下書きを寝かせていたわけだが、そんなことを言っていられなくなってしまった。予想外の角度から、私の人生を支えてくれている物語たちの最後尾にブルーロックが突っ込んできたからである。そのときからももう数ヵ月が経ってしまっているが……。

いま書かなかったら、さらに4年5年と経って2030年になってしまいかねないと思い、ようやく風感想文後編かつこの関係が大好き2023を書いた。例のごとくネタバレ配慮なしに好きにやっている。これは私のブログだし個人サイト(ちゃんと形にできてよかった!!)なので……。

 

■チューニングと翻訳

風感想文後編で外せない話はやはり、葉菜子を高校生にしたことと、岩倉雪彦という人物の描き方の調整の2点だろう。どちらもアニメ風において「この設定変更は思いきったなあ……!?」と思った点で、しかし噛み締めるほど、この設定変更には納得しかない。どちらもアニメという媒体がさばける情報量を見極めたときに、そりゃそうなるのわかるしそれ以外にないのだが、だからといってそんなん思い付きます!?というもので、何年経っても何度思いを馳せても、上手すぎる……………………と唸ってしまう。葉菜子が高校生になることで花火のシーンが生まれ、繋がっていく競技である駅伝というものを多角的に描くことができ、かつ恋愛模様はしっかり織り混ぜつつ、それでも走がどうやって人と向き合うかという主軸がぶれない。もう本当に神の所業だと思う。どうやってこの設定変更に至ったんだろう、本当にすごすぎる……。当初、高校生女子がスカートはためかせて川原を自転車立ち漕ぎしてる姿、みんな好きだもんな~!くらいに安易に考えていたのだが、蓋を開けたら必然性しかなく、本当に安直ですみませんでした……。

そしてユキの描き方も同様で、や~~~~そうくる!?!!?という。6区がああなるの本当にすごすぎる。小説のユキはある意味達観しているからこそ、確固たる自分の立場から「走、おまえはずいぶん、さびしい場所にいるんだね」と思えるし、雪が溶けるようにわだかまりを溶かして、いま母が幸せならそれでいいじゃないかと思うこともできる。これはこれでちゃんとひとりのキャラクターの造形として一貫している。

翻ってアニメのユキは、どこまでも等身大の大学生だ。だから、走の速度を体感してもしかしたら、と思ってしまう。でも、普通の大学生ってそんなものじゃないかとも思うのだ。その機微よ!!自分自身に言い聞かせるようなアニメのユキの「俺には危うすぎる。俺は今日で終わる。俺には俺の生き方があるんだ」、沿道の母親と義父と幼い妹の姿をみとめて、それでもやっぱり、という感情のにじんだ「……ごめん、母さん……」と、こちらもやはりひとりのキャラクターの造形として一貫している。

話は飛ぶが、私は風において、最後まで「榊が走の不祥事を許す」ということが描かれていないところが本当に好きだ。榊は走の才能をわかっていて、でも自分達の3年間を壊した走が許せなくて、そんな走がいまや仲間とともに走っている姿を見るたびに突っかかってしまう。その断絶は断絶のままある。それでも彼らはいま別の環境にいて、走には走の、榊には榊の仲間がいる。榊の「でも認めない。寛政に未来なんてない」に対する「襷を届けたいだけだ。待ってるんだよ、みんなが」という走の返答で、いまでは走も自分と同じだということと、自分達は仲間になりきれなかったことが榊のなかで繋がる。中学の頃からずっとひたむきに目標に向かってきて、鮮烈な箱根デビューを飾った榊には、駆け寄ってきてくれるチームメイトたちがいる。だからもう走とは視線は交わらない。許せない気持ちややりきれない気持ちを曲げて許す必要は全くないし、これから榊が自分で決めればいいことだ。

というのと、同じことがユキにも言えるように思う。母の選択といまの環境がすとんと腹落ちする小説のユキ、それでもやはりわだかまりはわだかまりのままあるアニメのユキ。どちらもあり得る道で、そのどちらが正しいなどということはない。受け入れる「べき」ではなく、ひとりのキャラクターの描写という延長線の上で、受け止められない気持ちをそのまま描いてくれたことが本当に嬉しかったし、そういう描き方をしてくれるアニメ風が本当に本当に好きだ。

そしてこれは完全に余談なのだが、アニメの6区を見るとユキがニコチャンに懐いてるのってそういうこと!?!?!!?となり、非常に心臓に悪く……改めて見返したアニメ2話の「煙草のにおい、しないなーっと思って」にギャーッとなるなどした。小説風のニコチャンとユキの悪友感のある関係性もめちゃくちゃ好きだし、アニメ風のユキがニコチャンに懐いているという関係性もめちゃくちゃ好きだし、ニュアンスとか機微がわずかに異なるだけで永遠にろくろを回せてしまう。本当にありがたいことです。

そして、そんな描き方の差異から生まれる台詞の差異の味わいよ!!!区間賞に届かなかった2秒について、アニメのユキは「永遠に縮まらない、2秒だよ」と言うし、小説のユキは「その二秒は、俺にとっては一時間ぐらいある」と言う。永遠に縮まらない/一時間くらいある、この差がね……本当にね……そうだよね、小説ユキならそう言うしアニメユキならそう言うよね……と無限に頷いてしまう。

そしてそれと同じく、ニコチャンのかける言葉が小説では「よくやった」、アニメでは「やると思った!」なのもふたりの関係性を表していてとても良い。高校時代への言及について、小説の地の文の「ニコチャンの不幸は、競技選手としてではなくても走りつづけていい、走ることが好きならば、それを楽しんでいいのだと、示してくれる指導者がいなかったことだ」を、アニメにするにあたって「先生は悪くない。ちゃんと見てたから言えたことだ」「でも、好きだったんだ、走るのが。とことん走りたかった。できることなら」という台詞に落とし込んだところもすごい。

とまあ、比較対照を始めるときりがないくらい、小説では小説の、小説だからこその、アニメではアニメの、アニメだからこその描き方をしている。風感想文「アニメ化という翻訳」でも延々と書いたのだが、本当に、小説からアニメへの翻訳、そしてそれに伴う全体のチューニングがべらぼうに上手い。上手すぎる。もちろん、美しい絵や動きで原作を再現した素晴らしいアニメもたくさんあるのだが、アニメ風は原作を「そっくりそのままなぞる」だけがメディアミックスではないことを目の覚めるような嬉しい驚きとともに私に教えてくれた。風は、こんなアニメ化があるんだ……と私に思わせてくれた作品だし、私にとって間違いなく最も素晴らしいアニメ化タイトルのひとつだ。

そして、葉菜子と彼女をとりまく人間関係の描き方のチューニングも素晴らしかった。小説の、ようやっと自覚した恋心を牛の反芻なみに噛み締めている走が私はめちゃくちゃ好きなのだが、それをアニメでは潔く外したところもめちゃくちゃ好きだ。葉菜子とジョータとジョージの関係性にフォーカスして、走については恋愛に限らず広い意味で他者と生きることに絞ったところが本当にすごいと思う。メインメッセージはそこだと思うし、そうだと受け取れるような描き方になっているので……。

話が変わるが、THE FIRST SLAM DUNKが「大好きです 今度は嘘じゃないっす」にとどまらず「左手は添えるだけ」まで潔く削ってきたことに私は本当に驚くとともに深く感嘆してしまった。前者についてはリョータが主人公という再構成なのでまあそれはそうよねと思ったが、そっちも!?という……だってあまりにも有名なワンシーンだ。視点を変えた再構成だとしても、ここまでに至る花道とこのあとのことを思えば、カットするのはあまりにも、あまりにも惜しい。ここはやっぱり入れたいと私なら思ってしまう。作り手としてフラットにその判断をしたことに非常に驚き感服でひっくり返ったし、その判断をできるのはやっぱり作者さんご本人だからこそなのでは……と思ってしまった。製作陣のなかには当然長年SLAM DUNKという作品を愛してきた方もいるだろうわけで、そういう方からしたら、やっぱりここは入れたいと思ったりしなかったのだろうか、と……(私がただのいちファンであるがゆえにそう思うのでもあろうが)。入れるより削るほうが、はるかに勇気がいると思う。リョータを主軸に据えた再構成だから「大好きです 今度は嘘じゃないっす」も「左手は添えるだけ」も入れないという、そういう一貫とした姿勢に基づく取捨選択に果てに作り上げられたものだからこそ、THE FIRST SLAM DUNKも素晴らしい映画となったのではないだろうか。

削るほうが勇気がいるというのは風にも言える話で、何を描きたいのかという本質を見つめて、そのうえで描くものと描かないものを選びとるからこその一貫とした物語になっているのだと思う。だからこそ「鶴見で待ってて」がなかったときもなんでカットしちゃったの……とは微塵も思わなかったし、むしろ16話の「東京箱根間往復大学駅伝競争予選会」の垂れ幕を見上げる王子のカットからつながっていて、スタート地点のあの独特の緊張と静けさ、そしてようやくここまできたというかすかな高揚がビシビシと感じられるワンシーンになっていたと感じた。高校生に設定を移した葉菜子もまたこんなにも魅力的だし、なによりこれによって満を持して繰り出される14話の花火のシーンが……!!

花火を見上げる10人、「お父さん。私、寛政大に行きたい」、引き継がれるもの、伝わるものがある。夜空に弾ける花火、タイトル画面。この一連が本当に、本当に素晴らしくて……!!!!駅伝の襷だけではない、「繋ぐ」とはどういうことかを象徴するシーンとして、これ以上のものがあるだろうか。協力してくれる葉菜子、親父さん、お肉屋の女将さん、みんなの支えがあってここにいることを描いてきた合宿のラストに、花火という一瞬の輝きを背景に、これほどまでに鮮やかに映し出されるもの。夜明けの日差しとともに走が自ら境界線を飛び越える13話も素晴らしかったが、続く14話でまたしても最高を繰り出されてしまったので、いよいよあまりの幸福にめまいがしたのを覚えている。

 

■他者と生きるということ

と、ここまで願望と期待が予想の遥か上を行く形で報われ続けると、最も好きなシーンも絶対に絶対にやってくれ!!!と思ってしまうのは人間の性である。この頃のツイートを遡ると、亡霊のようにひたすら「東海道線会話をやってくれ……」と呟いていて笑うのだが、私は本当に、本当にあの清瀬と走の会話が好きで…………。あのやり取りが本当に本当に魂にクリティカルヒットなので、絶対にアニメでも見たいよ!!!!頼む!!!!と思い続けては、いやでもなかったらどうしよう……まあなかったとしてもこのアニメならこうだよなと納得はできるものになっているはずだが……と欲望と不安と信頼の間で揺れていた。

「アニメ化という翻訳」でも書いたが、やっぱり今回も杞憂以外のなにものでもなかった。私はアニメ風が大好きなのでどこをとっても素晴らしいし大好きと言うのだが、18話から20話の一連の流れ、本当に、本当に素晴らしくて…………アニメならではの往路それぞれの5区間だったし、それでいて走ることの高揚と孤独、それでいて決してひとりではないのだということ、神童の決意と覚悟、それを見守ることしかできない我々、そういう核の部分は本当に見事に描き出されていた。

大学で体育会系部活をやりきった今から思うと、ここで熱を出すのが神童さんなの、本当にわかりすぎてめちゃくちゃ辛くて……。ニコチャンはもう自分を確立しているし、4年は清瀬とユキとキングの3人がいるし、ムサには神童という頼れる友人かつ先輩がいるし、王子は我が道をゆくタイプだし、走にもジョータとジョージという同学年の友人がいる。そんななかで3年生は神童一人だけ。

そりゃあさあ……みんなの潤滑油兼広報兼清瀬のサポート兼事務処理担当なんて明らかに神童にも清瀬と同じかそれ以上の負担が集中しているのに、神童自身が楽しいからこそ全く苦にせず、人に振ったりもせず自分でなんでもやってしまうじゃん……。神童の前向きな性格とストイックさと責任感、そしてそれを人に感じさせない振る舞いゆえに、たぶんみんなも無意識に甘えてしまっていたのかもしれない。でも、きっと他でもない神童自身が、本当に心から楽しかったのだと思う。自分でやろうと決めたことをやり、練習のぶんだけ力がついてきているのがわかって、楽しくないわけがない。誰かと一緒に何かひとつの目標に向かうというのは本当に代えがたい経験だ。3年生、もしかしたら清瀬が箱根を目指すと言ったときに既に、自分も大学でなにかをやり遂げる経験ができるんじゃないかと、そんな予感があったのかもしれない。

あの場面で大家さんのかける言葉、本当に好きなんだよな……。アオタケの面々だけでなく、商店街のみんなも、家族も、テレビから見つめる人々も、誰もが勝とうと戦い続けていることを知っている。だから大家さんは「挑んだ末に投了した者を責めたり、逃げたと揶揄するものは誰もおらん」と言いつつ、それでもやはり神童を止めることはできない。誰よりも神童自身が走り切りたいと、戦い抜きたいと思っていることを知っているからだ。そしてここに房総大の柳瀬のゴールが差し込まれることのすごさ!!16話の予選会で描かれた選手の余韻を払うようにどんどん脇へと移動するよう急かす運営や倒れこむ選手、泣き崩れる選手であったり、19話で襷をちゃんと渡せた王子に駆け寄る清瀬と走のすぐ横で「付き添いの人は入らないでー!」という運営の声が入ること、そういう「箱根駅伝」の風景をあますことなく描いているところが本当に好きだ。主人公だけでなく、あの場のすべての人間にその人だけの人生がある、そういう現実と同じ描きかたであるところが……。

予選会で王子が呟く「美しいだけがスポーツじゃないのさ」と、神童を待つ走の言葉は、競技の本質なのではないかと思う。

「なぜ俺たちは、こうまでして走り続けるんだろう。こんなにも辛くて、こんなにも苦しいことを、どうしてやめられないんだろう。仲間、目標、自分のため。意地と誇り。わからない。きっと誰にも。だからみんな、目を逸らせないんだ。だから心に刺さるんだ」

 

アニメ『風が強く吹いている』第20話「壊れても」

当事者でない私は見つめることしかできない。私は私の戦場に立つことしかできなくて、彼らの戦場を、選択を、本当の意味で理解することはできない。応援は無責任な外野の声にすぎないのかもしれない。けれど、そのうえでなお、私はやっぱり頑張る人が好きだし、頑張る人を応援することが好きだ。人は自分の人生以外を生きることはできないが、高揚して、ハラハラして、心を揺さぶられるとき、決して至ることのない別の人の人生、その端っこに瞬間だけ触れさせてもらっている。

他者と生きることを避けてきた走が、神童の姿をまっすぐに見つめながら呟く台詞がこれであること。駅伝に向かう日々のなかで、他者と生きるとはどういうことかを見つめ直してきた走の言葉として、本当にこれ以上のものがあるだろうかと思える、素晴らしいシーンだった。

話は戻るが、監督が選手を棄権させるというのは想像も及ばないほどの決断だと思う。神童を止められない大家さん、花道を止められない安西先生。バクテンでも周作は捻挫をした翔太郎に監督として棄権するように言うが、最終的にはすぐに病院へ行くことを条件に出場を認める。監督だって選手を出場させたくないわけがない。選手本人がどれだけ心血を注いできたか、痛いほど理解しているからだ。出たい気持ちも、出させてあげたい気持ちも、この先を思えばこそ出すわけにはいかない気持ちも、同じだけあるのだと思う。そのうえで、大家さんも安西先生も周作も、最終的には彼らの背中を押す。彼らもまたかつてはプレイヤーであり、その気持ちを同じくらい理解している、理解できてしまうから。

だからこそ、はじめてハイキュー鷗台戦を読んだときの衝撃はものすごかった。あれは、武ちゃんが監督ではなくどこまでも先生だからこその選択だ。思い返せば武ちゃんはずっと一貫して先生であり、その関係性は選手と監督ではなく生徒と先生だった。いや、そうだけど、そのうえでこうくる!?!!?鷗台戦までは出るのかなと思ったし、最後までやらせてあげたいと思ってしまったよ……でもあの場面で翔陽にこれ以上試合に出すわけにはいかないと言えるの、武ちゃんしかいないし、だからこそ「…君は 君こそは いつも万全で チャンスの最前列に居なさい」という言葉がまっすぐに刺さるわけで……。そしてそういう武ちゃんの教えがあってこそ、いまの翔陽につながるわけなんだよな……。ブラジル編、本当に素晴らしかったし、ああいう形で高校から今に至る道やみんなそれぞれの人生を生きている姿を描いてくれたことが本当に嬉しい。同じ2023年を生きる同年代として、私もがんばろうと心から思えるから……。

 

■嘘と信頼

話を風に戻すが、20話のラストがユキの起床であることのすごさ!!私はずっと、顔を見合わせて微笑み、夜を駆ける二人、カメラが上がって星空、そしてエンディング、この流れ、ある!!!と思ってはカシオミニを賭けていたのだが、違う、そう、この話の最後はユキの起床であるべきなんだよ………………一人起き出すユキの強い意思のこもったまなざしで終わるの、あまりにも良すぎる。10人でかたちづくる一つの試合なんだよな……。

そして東海道線会話、本当に、本っっっっ当にありがとうございました……………………。私は小説でのタクシー内の無音が本当に好きで、その印象のまま電車内もどこか寂しく人がまばらという印象で読んでおり、それが密やかな独白と共有にぴったりだと思っていたのだけど、アニメでは隣で寝ているもののジョージがそこにいるのがめちゃくちゃ良かった。アニメの二人は明るい電車の中で、隣に人がいてもあの話をできる。視線は交わらないが向かい合っている二人。そういうところが、アニメで描こうとしている10人の群像劇としての「風が強く吹いている」という物語にとてもマッチしていると感じた。

アニメ風では10人の分け方を徹底して意識的に描いていると感じるのだが、清瀬と走の視線の動きと交わり方も、本当にどこまでも丁寧で、ファンは歓喜しめちゃくちゃになった。15話、予選会を控えた電車内で清瀬がもらす弱音のシーンもその一つだ。「眠る前、飯の途中、トイレの中。迷いはいつもついてくる」の台詞、トイレの中がこの並びにあるのすごくない!?めちゃくちゃわかる。私はよくトイレとお風呂で仕事のことを考えたり思い出したりしてウワア~~となっているので……。

このとき、清瀬は窓の外を見たり俯きつつ、走の言葉を聞いているのだが、「まだあります、時間は」で顔をあげ、「ありがとう。……強くありたいものだな、いつでも」と返しながらまた窓の外を向く。この視線の動きが……。清瀬が弱音を吐けるのは走しかいない。みんなを箱根駅伝という彼のエゴに引きずり込んだ以上、清瀬はその責任を自覚して引っ張る立場であり続けるし、きっと彼自身そうありたいと思っている。それでも清瀬にだって迷いや弱気はあるわけで、それをさらけ出せるのは唯一走なわけで……。

幾度となく繰り返されてきた「箱根は夢じゃない」「目の前にあるのはいつだって現実」から、いざ箱根駅伝への切符を手にした瞬間眼前に立ち現れる現実を描いた「夢と現」でのジョータとジョージ、8区を走るキングの「いい夢だよ。二度と覚めたくないくらいに」などに表れるように、巻き込まれた8人にとって箱根駅伝はまさに夢の舞台だった。清瀬と走だけが、覚めた現実として見据えている。それは彼らが競技者であり、走れる人だからであるのだろう。夢みたいと思いながら走るキングの直後に、どこまでも冷静に走が流星のように駆け抜けていくのも無情だなあと思うし、同時に学生スポーツのそういうところが好きだなあと思う。さまざまな人生が入り乱れて、いまこの一瞬しかない。そのなかで全力を出し切れる人、出し切れない人、実力以上を発揮してしまう人、同じ人も状況もひとつもない。王子の言葉の通り美しいだけのものでは決してないが、そこには確かに人を惹き付けるものがある。

さて、私が小説風のなかで最も好きなやり取りのひとつがここなのですが

「本当ですね?」

「俺が嘘をついたことあったか?」

「けっこうありました」 

 清瀬は少しのあいだ空をにらみ、これまでの所業を思い起こしているようだったが、 

「大丈夫、今度は本当だ」

 と笑った。「鶴見できみの走りを見るのを、楽しみにしてる」

 

『風が強く吹いている』(三浦しをん) 十、流星

ほんと何度読み返してもここ、清瀬ーーーー!!!!!!という………………。小説の清瀬、本当にお手本みたいな嘘つきだし、清瀬のことが大好きで大切な人々はその嘘を受け止めるしかないし……、だからこそ、走がそのうえで清瀬のことを嘘つきだと言うのは、正面から清瀬を見つめているがゆえの紛れもない愛だなあと思う。あとたまに走が清瀬のことを「あんた」って言うのがめちゃくちゃ良い、気安くて……。小説エピローグが本当に本当に本当に好きすぎるんだよな……。

「あれは嘘だった」が好きすぎるあまりアニメ初見の方の感想ツイートを見るまで気づいていなかったのだが(節穴)、アニメでは1話のラストですでに「仙台城西高校、蔵原走」として呼び掛けている。この有無が本当に大きな違いであり、そしてアニメではちゃんとこの呼び掛けを起点に清瀬と走の関係性を積み上げているところが本当にすごい。アニメでは走にとって清瀬は嘘つきではないし、小説の「きみに対する思いを、『信じる』なんて言葉では言い表せない。信じる、信じないじゃない。ただ、きみなんだ。走、俺にとっての最高のランナーは、きみしかいない」に対して、アニメでは「1年間、一緒に走ってきた。だから断言する。きみは俺にとって、最高のランナーだ。強くなれ、走」になる。これに対する走の「見ていてください。ハイジさんの信じたものを」も本当にめちゃくちゃすごい言葉で、アニメ清瀬は走を信じているし、走は清瀬が自分を信じているということをわかっている。運命と出会って、そして走を信じることができてしまうのがアニメ清瀬の大学生らしさというか……。重ねて言うが、どちらが良いということが言いたいのではなく、ちゃんと関係性の積み重ねに基づく一貫性があって、それぞれのふたりのやり取りになっていることが本当に素晴らしくありがたいのだ。

葉菜子をとりまく恋模様は双子に集約されたが、出走直前のシーンには、にくいな~~!!!!と私は嬉しくなってじたばたしてしまった。「大好きです 今度は嘘じゃないっす」じゃん!!!!!!なんか私以外にこの話してる人見たことないんですけど……どうして……?

「ジョージ。好きになるってさ、どんな気持ちだ」

「はあ?」

「いいよな、それって。好きだよ、俺も」

 

第22話「寂しさを抱きしめろ」

葉菜子のことが、であり、走ることが、であり、そして13話のムサの「走、僕は走のことが大好きです。みんなも、ですよね」を受けてのアンサーでもあり……。ムサ、本当に的確なタイミングで言うべき言葉を言い素晴らしい仕事をするんだよな……。私は一番の仕事人はムサと神童だと思っている。

走は流星のように駆け抜けていく。見つめる人々はその姿を通して自分の思うものを見つめ直す。藤岡は走りを追い求めることの途方もなさを、王子は走るということにおける埋めようのない差を、そして清瀬は追い求め続けた理想の姿を。藤岡と清瀬、藤岡と走のやり取りはシーンとしては少ないが、さすが現王者かつ求道者というのか、物語をずっしりと締めているなと毎回思う。その藤岡も、清瀬には諦観じみた空虚と覚悟を覗かせる。藤岡がその相手に清瀬を選んでいる時点で、清瀬を同じく走ることを追い求め続けて、そして決して満たされない者、自分と同じ存在として認めていると思うのだが、清瀬は藤岡と走をこそ並び立つ存在として見ているのが……。うらやましくて口を閉ざす清瀬のこのシーン、清瀬もまた全てが見えているわけではないのだとわかって好きだ。年相応な感じがするので……。

清瀬と藤岡のやり取りもまた、ニュアンスが少し異なっていたように思う。前述の流れを汲んで「でも、やめないんだろう?」「きみは、走るのをやめられない。ちがうか?」と言う小説に対し、アニメでは「でもやめられない。だろ?」となっている。これは豊永さんのお芝居によるところもあるのかもしれないが、小説は主語が「藤岡も走も」なのに対してアニメは「俺たちは」なんだよな……。だから藤岡の返事も、小説は「そうだな」「また一からやり直しだ」だし、アニメでは「楽しんでこい!」になるという……。どっちも良すぎる。藤岡と走だけが走りに選ばれたと思っているのも、選ばれなかったけれど追い求めずにはいられない、この先もやめられないのも、どっちも清瀬だから……。

 

■光ある人生

20話に話を戻すが、清瀬の独白と回想において光のない瞳と星空がとても印象的だった。投げ捨てられた、使い込まれた靴は清瀬自身のようだった。そして、走の「走りましょう。今までで最高の走りをするんです。俺たちが」の言葉で正面から向かい合う清瀬の瞳には光が戻り、窓の外には星空が広がる。島根の空より星は少ないが、4年前とは違う。

大家さんの「因果なもんだなあ。いつだって、おまえのいる場所が、おまえの走るコースになる」という台詞もすごく好きだ。10人を集めきったのは清瀬の執念の結果だが、10人目として清瀬の前に走が現れたのはまさに因果というほかないだろう。本人はそれこそすべてをなげうってでもという覚悟だが、周りの人間は違う。清瀬を大切に思う人々は彼の体を心配するし、二度と走れなくなってしまうとはじめからわかっていたならきっと一度は止めただろう。そんななかで、きっとその痛烈な覚悟もわかったうえで、王子は清瀬を送り出す。

「だから、あとは無事に帰ってきてくれさえすれば……。なんて。どうぞ、好きなだけお走りなさい」

 

第23話 「それは風の中に」

これを言えるのは、きっと9人のなかで王子だけだったと思うのだ。あれだけの量の漫画に無限の情熱を注げるというのは自分の知らない世界に対する想像力がしっかり培われているということだし、そもそもあの王子が走る選択をできたのだって、漫画を通じて自分のものになっていた共感性の高さや、未知の世界に対する心理ハードルの低さがあってこそじゃないだろうか。「好きなだけお走りなさい」、この王子の言葉がどれだけ清瀬の背中を押しただろう。アニメのなかで最も好きなシーンのひとつだ。

走を見つめる清瀬の瞳に光が宿り、きらりと光る。出会った瞬間からいつだって、清瀬が見つめるとき、走の走る道筋は銀色に光っている。言葉はいらない。襷がつながり、清瀬は走り出していく。

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それにしても、アニメ風、小説をふまえて何をどう見せるかというのが本当にべらぼうに上手い。清瀬灰二の強さと危うさ、そのバランスがさあ~~~~アニメ清瀬は弱音を吐けるし、小説清瀬は嘘を吐ける、そのかわりに、という…………嘘をつかない強さ、嘘をつき通せない誠実さ、その差異としてたち現れる10区ラストなわけで……。小説で走が清瀬のことを嘘つきだよと評するのは、走には清瀬が嘘をつく影にどんな真実があるのか、どんな意図をもってその嘘をつくのかということをちゃんとわかっている、わかろうとしているからこそだ。そして、どちらにおいても走は清瀬のことをよく見ているから、「視覚でも聴覚でもない部分で、清瀬に起こった異変を察知」することができる。できてしまう。

23話、ゴール直前で清瀬を見つめる走の「その答えは、あなただ。あなたそのものだ」は、小説の二人ではどうしたって到達しないひとつの地平であり、初手で「仙台城西の蔵原走」を済ませたからこそのある種の盲目でもある。それでも走が清瀬をずっと見てきたことに変わりはなく、だから気づくことができるのも変わらない。走が清瀬の滑稽で残酷な潔癖さも、潔く残酷でうつくしい嘘も受け止めるのは、本当の強さとはどういうものかというその一端を手にしたからだ。今更思惑や真実が明らかになっても積み上げた情熱と信頼は変わらないからこそ、清瀬の嘘を嘘と認めて、そのうえで受け入れている。そうしてこれから先も走るとは何なのかという答えを探し続けるという……。

改めて全編を見直すと、清瀬と走が正面から向かい合っている場面は意外と少ないなという感想を抱いた。というか、走は清瀬を見てるけど清瀬は前を向いたままとか、走は前を見たままで清瀬はそんな走を見ているとか、そういうものが多い。1話の夜明け、17話の湖畔、そして最終話に至る。竹青荘での日々のなかで、走が清瀬だけに限らずみんなと向き合ってきた、そのひとつの結果としての大手町のゴールなのだ。

小説とアニメの差異の話でもうひとつ欠かせないのは、なんといってもラストの描き方だろう。アニメが向き合い踏み出す物語とするなら、小説は戦い勝ち取る物語だ。アニメでは清瀬のゴールがED直前の盛り上がりであるのと、小説ではタイムと順位の確定が最後の盛り上がりであることからも明らかだ。それを象徴しているのが小説のこの一節で、本当にそれこそが競技というものだし、走ることを追い求めるという哲学と、明確に存在する競技の勝利をちゃんと両方ともつかもうとする清瀬が好きすぎる。

 これは競技だ。清瀬の全身がそう言っている。砕けそうに右脚が痛んでいるだろうに、清瀬の覚悟は微塵も揺らいでいない。惜しくもシード権は逃しましたが、十人だけのチームでよく健闘しました。そんなおためごかしな言葉など欲しくないのだ。俺たちは走る。最後の最後まで、一秒を争って走る。戦って、自分たちだけの勝利をつかむ。そうじゃないか? 清瀬の目が激しく走に告げている。

 

十、流星

余談だが、アニメ清瀬はベディヴィエール、小説清瀬はロマニ・アーキマン、と度々ツイッターで呻いていたのもこの辺りを受けての話だ。FGOをやっている人には分かってもらえるのではないかと思っているが、これも私以外に言っている人は見たことがない……。私が自己肯定感情と他者に左右されない自らの意思による選択と、その結果としての「全てをなげうって全てを手に入れる」が本当に本当に好きなのも、完全に魂に刻まれている風由来である。

アニメの「俺は本当に幸せだ。たとえ、もう二度と走れなくなったとしても、俺は、走ることが、大好きだ」は、小説の「たとえ、二度と走れなくなったとしても。こんなにいいものが与えられたのだから、それで俺はもう、充分なんだ。」からさらに踏み込んだ台詞であると思った。「大好きです 今度は嘘じゃないっす」、「いいよな、それって。好きだよ、俺も」、「僕たちは、男子新体操が、大好きです!!」、こういう、競技と出会って、競技を通じてあなたと出会う、そして競技を通じて自分自身ともう一度出会う、そういう巡り合わせが大好きだ。藤岡に対して「でもやめられない。だろ?」と言う清瀬なら、走ることが大好きだと言うだろう。本当に、この一貫したまなざしが素晴らしいし、良すぎるし好きすぎる。ファンとして本当に恵まれすぎていると思う。

もう、本当に、端から端まで完璧なアニメ化だと思った。小説に生きている彼らを、今度はアニメとして、完璧に余すことなく描いてくれたと感じた。確かに一度はうしなったけれど、清瀬はいま、ちゃんと光を手にしている。そして走も、竹青荘の全員も、葉菜子や応援する人々も、それぞれが見つけた大切なものをきっとこの先もずっと胸に抱いて進んでいくだろう。かがやくもの、うつくしいものを持つ人生は、なんてきれいに光るのだろう。そしてその光は、私たちの身にもきっと届くのだ。

 

ようやく感想文が書き終わった。正直まだまだ語りたいことはあるし書きもらしていることもあるだろうが、サビの部分はちゃんと書ききれたと思う。字数的にも時間的にも長かったが、ちゃんと書き終えられてよかった。

自分の人生に影響を与えるような出来事とは、いったいどれほどあるのだろう。そういうことを、この文を書きながら考えていた。それがどんなものかは人によって異なるだろうし、タイミングによってもなにを受け取るかは異なる。ある作品、人物、体験、それらとの最初の出会いががらりと自分の人生に影響を与えることもあれば、最初の出会いの時点では通り過ぎてしまったことに、あとから気づいていろいろなものを受け取ることだってある。

 

今だからわかることがある。今はまだわからないことがある。運命はただ待つだけの者のところには訪れないように、作品から何を受け取るのかはいつだって受け取り手次第。小説を読んだのがあのときでよかった。アニメを見たのがあのときでよかった。いま、感想として出力できてよかった。大切な作品と再会したときにまた新しいなにかを、そのときにしか受け取れないなにかをちゃんと受け取れるように、私はこれからも、大切な作品とそこから受け取ったものに胸を張れるように生きていきたい。