基本的に壁打ち

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願いに罪はあるか

こんにちは。4月開始以降推しジャンルをまたいで立て続けに爆弾を落とされています。ずらしてくれ!時期を!!

4日の獣国配信以降ぐわーーーっと勢いでクリアしたら予想を遥かに上回る感情がぐるぐるしてしまい、何を書けばいいのか……と放心しているうちに11日のサンデーでは赤井と降谷がやっと公式で顔を合わせ、13日には「劇場版名探偵コナン ゼロの執行人」が公開され、14日に執行されてウワーーーッとなって、獣国と執行人を反復横飛びしているうちに4月が終わりかけてました。はやい。ゼロの執行人はまじでおもしろいのでみんな見てね。今年のコナンは刑事ドラマの映画化作品のようなので、「相棒」シリーズをはじめ刑事ドラマが好きな人、土日にたまにやる警察とか公安とかの2時間スペシャルドラマはなんとなく気になって見てしまう人、芥川の「藪の中」が好きな人、派手なアクションが好きな人、車が好きな人、そしてなにより、獣国をプレイして正義は決してひとつではないということにウワーーーッとなった人に大変おすすめです。ゼロの執行人を見たあとに福山雅治の歌う主題歌「零 -zero-」を聞いて私と一緒にウワーーーッとなろう。そしてまた零を聞きながら今度はFGO2部に思いを馳せてウワーーーッとなってください。

 

さて本題に入りますが、ついに待望の2部・Cosmos in the Lostbeltが開幕してしまいましたね……!いやまじでどうなるんだ……どきどきする……

タイトル画面~~~~~とアップデート直後ここから既にしんどかったんですけど、内容はなんというか、想定していたものとは少し違う、斜め上のしんどさで、やっぱりとても面白かったです。そして2部はどういう通称で章の名前を呼べばいいんでしょうか。永久凍土帝国/永久凍土派、アナスタシア編派、2部1章/2-1派、獣国派などを観測しているんですけどなんかどれがいいんですかね……今後のタイトル次第でうまいこと呼び方の法則づけをしたいです。

ということで、橘FGO「永久凍土帝国 アナスタシア」感想いきまーす!

 

ロストベルトNo.1 永久凍土帝国 アナスタシア(4/4~4/9)

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■食べることは生きること

しょっぱなのクリプターズ会議、最後は私と君の異聞帯が競うことが望ましいキリッというキリシュタリアにあのそのオフェリアさん次の異聞帯だしあなたも5番目ですよ!大丈夫ですか!?とちょっと笑ってしまったりとか、外だー!!!と存外たくましいカルデアスタッフ達にウルクの民を思い出してぐすんとなったりとか、まあそんな感じで思ったよりはいきなりしんどさMAXではないスタートだな……1章は控えめなのかな……と油断していたところ全くそんなことはなく、全体的に緩急の付け方が上手でたくさん泣いてしまった。特にサリエリ、なんかもうめちゃくちゃに泣いてしまう……30秒CMの最後……マスターミッションのマシュの鼻歌きらきら星まで仕込みだと思わないでしょ……!?

全編通してずっと一貫して悲壮感や絶望が漂っているわけではないところ、早々に食事の問題に行き当たるところや食料調達の場面が他の章よりも多いところに、こんな状況でも彼女たちは生きているんだよなあ、ということを何度も思った。6章感想でも書いたように、食べることは生きることで、どんな危機的状況でも生きていればお腹は空くし、ごはんを食べればおいしいとかおいしくないとか感じる。普段と同じように。それは生きている限り変わらないことで、人もヤガも変わらない。

なかでもゴルドルフ新所長あらため司令官が本当に良いキャラクターで、普通ではない状況に慣れきってしまったマスター、マシュ、小さくなったダ・ヴィンチちゃんとホームズ、そしてムニエルさんはじめカルデアスタッフ達に対していちいち突っ込むことができる人はもはやゴルドルフさんしかいないんだよね。そしてその存在が、マスター達を「日常」というものに繋ぎ止めているのではないかなと。あの状況でおいしいごはんが食べたい~~!と言い続けたり、青ざめるような場面で当然のようにサッと顔を青ざめさせたり、できるなら逃げる!当たり前だろう!という姿勢を貫いたり、そういう最終的に戻ってくるべきニュートラルな基準ともいえる「普通」の感覚を、いつもなんでもないことのように示してくれているゴルドルフ司令官、大好きです。

7章におけるウルクの人々の活気のある生活にも同じことを思ったんですけど、どんな状況であってもなんだか普通に日々を過ごせてしまう(その状況に適応してしまう)というのは人間のかなしさでもあり強さだなあと思います。イレギュラーな出来事や感情は、それが良いことであっても良くないことであっても等しくエネルギーを消費するんですよね。ストレス強度の調査においては、親しい方の死や怪我や病気等のいわゆる「ストレスを受ける」と言われたときに想定する出来事だけでなく、結婚や出産などの喜ばしい出来事も項目に上がるとか、そういうやつです。そして、だからこそその瞬間の鮮烈さをキープしておくにはエネルギーがいる。悲しくても辛くても変わらずお腹はすくし眠くなる、喜びも悲しみも時間が経てば少なからず角がとれて丸くなってしまうということは、きっと人間が生きるために必要なことであり、自分が生きていることの証明に他ならないのだと思います。だからこそいつかは前を向いてしまうんだよなあ。

 

■名前について

パツシィさんのことを考えると本当にもう彼のあの言葉が全てで、いろんな思いがぐるぐるしてうまく言葉にできなくて、時間が経つごとに途方もない気持ちになってしまう。本編が全てすぎて語る言葉を持たない……プレゼントボックス泣くに決まってるでしょ……

パツシィさんへの言及はたくさんされていますが、私が一番印象的だったのはイヴァン雷帝に関するやり取りで、彼は神父にイヴァン雷帝を見せられて以降繰り返しあれは怪物だ、あんな恐ろしいものに勝てるわけがないと言い続けているんですよね。そしてパツシィさんからの刷り込みのような語りに対して、ストーリーの受け手は「雷帝はそんなやばいやつなのか……どうやって倒すんだ……」と思っていたんじゃないでしょうか。私はティアマト的なアレか……?山の翁はもういないんだぞ!(泣)となっていました。そして、いざ姿を現すと、まさかのマンモス……!!!と驚き、そしてそのときにはもう、ストーリーを進めているときに自分の中にあった「得体の知れない敵」に対する恐怖はいつの間にかなくなっているわけです。

以上は私の個人的な捉え方に過ぎませんが、この一連の認識の変化は妖怪に対する捉え方に似ているな~と思いました。人は形のないものを恐れ、名前がないからこそ得体が知れないと思う。それが姿が明らかになり、それを表す名前がわかると輪郭がはっきりするようになる。輪郭がはっきりするということは、対処が可能になるということなんですよね。最後に空想樹の名前が明らかになったうえで切除に挑むという構図も同様と言えるんじゃないかな。普段関係性についてろくろ回しているときにはラベリングに対して苦い思いをすることが多いんですけど、ラベリングの良さはここなんだよな~~~!ちなみに関係性におけるラベリングについては過去記事で触れているのでこちらもよろしくお願いします!(宣伝)

そして、あの世界に生きるヤガとして全てを見届けた彼の名前を、カルデア一行が知っているということ。本当はどんなモブAにも名前があり、それぞれの人生があるのだけど、物語においては幕の外へ追いやられてしまう。そんななかで、パツシィさんや反逆軍のヤガたちの家族の話が出てきたのは今回のストーリーにおいて大きな意味があったと思います。名前を知るということは唯一のものとして認識すること。名前を知ることで、自分の人生という物語の外側にあった「多数の中のひとつ」としての存在は、唯一無二の存在として物語の内側に飛び込んでくる。とあるひとりのヤガではなく、パツシィとしてマスターにあの言葉をかけるからこそ、あれだけの力強さを持つのではないのかなと。 

順番が前後しましたが、アヴィケブロンとミノタウロスも名前が鍵になってましたよね。アポクリファ未履修の民なのでアヴィケブロンさんはここで初邂逅だったんですけど、まさかソロモンの名を冠していらっしゃったとは……!!!!!胸アツでした……一度きりの、しかも初の詠唱つき召喚で応えてくれたのが、異聞帯のソロモン……泣いてしまう……

ミノタウロスについては、3章感想でも言及した通りエウリュアレとアステリオスのところでめちゃくちゃ泣いたので、こんなのって!!こんなのって!!!と思いました……そしてそんなミノタウロスにも、根差す霊基が同じだからかオケアノスでの記憶がよぎるわけで……17節タイトルの「もはや雷光ではなく」、当初は変容してしまったイヴァン雷帝がもはや自我を保ってないとかなんかそういうあれなのかな?と思ったんですけど、蓋を開けてみればそういうことかーーーー!!!!と唸るとともにとてもしんどかったです……ただ、同様の考察や感想を多数お見かけしたように、この「汎人類史のほうが幸せだった」という状態はまだ救いがある方なんですよね。汎人類史の正しさを信じていられる。異聞帯を滅ぼし、汎人類史に戻すことが正しいはずだと思うことができる。──では、異聞帯のほうが幸福であるならば?……ということがいずれあるんでしょうね……しんど…………ロマニ・アーキマンが生存する異聞帯はあまりにもえぐすぎるので、もしロマニかソロモンが消えていない異聞帯を考えるとするなら、個人的には汎人類史の断末魔で召喚されたソロモンと少しだけ旅をして、少し泣いてから笑って手を振ってお別れする的なそういうのがいい……NARUTOの穢土転生的なあれだ……たのむ……

 

■サーヴァントと生者たち

まさかFGOで天才と限りなく天才に近い凡人の関係性に斬りかかられるとは思わず、見事にクリティカル即死しました。無理……

剣豪と近い性癖なんですけど、その二人にしか理解できない世界や価値観を共有している二人というのが非常に性癖なんですよね……!!!!!サビなので何回も言ってしまう。遭遇してしまう二人~~~好き~~~~~~!!!!!!なんかもうあまりにもドドドドド性癖すぎてめちゃくちゃ泣いて大変なことになったんですけど、なかでも群を抜いてやばかったのが「何、パトロンの耳は鈍い。僕たちにしか分からぬ違いなど、どうってことはないさ」という、ここ、ここですよ…………とんでもない………………自分たちにだけわかる差異、自分たち以外にはわからぬ差異………………それでも彼は弾き続ける、それが彼らにできること、彼らにしかできないこと、彼らが唯一できることだから…………これ以上ない信頼じゃないですか……………………いやもうほんとうに……ほんと……全部がやばすぎて何から言及すればいいのかわからない……「怒りの日」が戦闘BGMだっただけでめちゃくちゃ泣いたんですけど、あれ実は一人じゃ弾けないやつだったって考察をお見かけしましたが本当ですか?む、無理………………

折に触れて書いている気がしますが私は本当に総力戦が好きで、ウルクの冥界の加護と花の魔術師とか、新宿の名探偵の名推理とか、ああいう演出が本当に本当に好きなので、今回も!!!!!ありがとう!!!!!!となったんですけど、今回はこれまでとは訳が違っていて、だからこそやっぱり胸が詰まった。これまでと違うのはアヴィケブロンさんもアマデウスサリエリも己の存在を賭すという選択をしているところで、それはつまり未来に対する祈りにも似た希望の表れなんだよな……未来を切り開くのは生者のみであることに対する希望。世界を転々とし続ける武蔵ちゃんは自分はどの世界でも異邦人という意識をいつも持っているし、ビリーくんやベオウルフも、結局のところ「いま」という世界の行く先を決めるのは生者たちのみであるということをわかっているんだろうなあと感じた。アタランテは、サーヴァントの身でありながら「いま」を生きるヤガたちに対して思い入れがあったわけで、それが彼女を板挟みに追い込んでしまった。

アヴィケブロンの懺悔と選択も、やっぱり「生者だけが未来を変えうる」という彼の考えが根底にあったのではないかなと。

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そしてサーヴァントである彼らの援護を受けて戦うマスターのもとにやってくるのが、マシュ・キリエライトなわけです。

 

■再び立つ動機

2部序でOPが公開されてからずっと、長い旅を経て聖女になり、そして人間になったマシュが、今度は戦う女の顔になってるの最高すぎる……最高……と言い続けていたんですけど、本当にこれなんですよね!!!!!!これまでは大義の元で戦ってきたけれど、今度は彼女たちが自分の手で選ばなければならない。これまで信じてきた正当性という道標はもうどこにもなくなってしまった。それでも、迷いながら、悩みながら、彼女たちは異聞帯を戦っていくしかない。

そういう点で、最初に異聞帯の大先輩武蔵ちゃんに出会えたのはとてもありがたいことだなあと思いました。悩んでいる自分も苦しんでいる自分も自分という、まあサビなのでまた懲りずにこの話をしてしまうんですけど、まさに自己肯定の後押しなんですよね。自己肯定とはどんな自分も自分の一部だと受け入れることで、私はそれが生きていくうえでとても大事なことだと思っているので……答えが出せないのは悪いことではない。ただひとつの正解というものがないからこそ、たくさん考えて悩んで、そのうえで自分の意思で選ぶということが大切なのだと思っています。金城さんも「本質は自分のなかにしかない」と言っていたあれです。わからない人は弱虫ペダルを読もう。サリエリアマデウスがぐさぐさに刺さった人に大変おすすめです。

獣国でマシュが出撃するなら何か現時点なりの答えを携えて再び戦場に立つのかなと思っていたんですけど、あくまでもそれが「誇らしさも、そうするべきだという確信もない。わたしは悩んだままで、悲しさより怖さがある」「それでも、怖いから、分からないからといって手を放すことは、もっと恥ずべき事だと分かっている」というものだったのが、もうほんと、100億点だった……わからなくても、悩んだままでも、唯一見える光に手を伸ばすんだよな……!

そして、これギャラハッドなんですか?と今も疑問符なんですけど、『──永遠に続く城塞はないんだよ、マシュ。あるとすれば、それは再起する心の在り方。朽ちてもなお立ち上がる、その姿が永遠に見えるんだ』という、これがさ~~~~~~永遠なんてどこにもなく、あるのは一瞬の永遠と永遠に続く一瞬っていう、あれじゃないですかーーーー!!!!!!!性癖!!!!!!!あとから思ったんですけど、「わたしが見てる未来はひとつだけ」だった1部から「もう運命が決まってるなら選べなかった未来は想像しないと誓ったはずなのに」と嘆き悩む2部になり、でもやっぱり「わたしはここにいる」という答えで「永遠などすこしもほしくはない」に戻ってくるんですよね……いや私が勝手に言ってるだけなんだけど……そうするべきだという確信がもてたのは彼女がその域に達してしまったからで、今やそうするべきだという確信もないままそれでも立つのは彼女が人間だからなんだよな……!!!あの旅で命を獲得したマシュ・キリエライト、まさに、それ……!でもまだ彼女はマスターに従うサーヴァントという姿勢が色濃くて、たからこそ、これからより個として強くなっていくのだろうなと思い、本当に本当に楽しみです。マシュの成長……!!

そして、すべてが等しく正しいということは、すべてが等しく正しくないということなんですよね。完全なる正しさは無なんだよな…………

 

■願いに罪はあるか

そしてやっと表題に至りますが、2部1章「永久凍土帝国 アナスタシア」の根底にはこの問いがあったように感じました。こちら、1.5章の感想で述べたように、Epic of Remnantの四篇では感情の鮮烈さと感情の正負は独立した基準であり「強い感情」に正負は関係しない、価値観や感情そのものに正負や善悪はないとするならばそれを決定づけるのは倫理ではないか、ということが描かれていたのではないかなと思っています。

これらの断章を経て始まったのがこの2部であるわけで、やっぱり地続きだよな、というのが私の印象でした。

突然未来を奪われた彼らクリプターにとって、生きたいと思うこと、奪われた未来を取り戻したいと願うことは当たり前のことだと思います。普通の人間だもの。

やはり生きていればやり直したいと思うことや、あのときああしていれば、こうしていれば、と後悔することはたくさんあるわけで。でも実際には時間を巻き戻すことはできないし、やったことはなかったことにはできない。だからこそ生きていくうえでは、自分の選択がどんなものでも結果を拒絶するのではなく、受け入れてそのうえで前を向く、ということが大事なんじゃないかな、というふうに私は考えています。

では、もしその後悔のとおり、過去を変えられるなら。過去を変えるということは未来を変えるということ。過去を変えて未来を変えたいと願うこと、それ自体には善悪はないのではないか。願いの善悪を決めるのも同じく倫理なのではないか。もし彼らが汎人類史に侵攻することなく、自分の生を異聞帯でやり直すことを願っただけだったとしたら、それは「悪」と断ぜられるものではなかったのではないか?

異聞帯に対する自分なりの解釈なので今後違ってたわー!となるかもしれないんですけど、下総国が亜種平行世界=ある種の異聞帯であったとするなら、本来異聞帯と汎人類史は交わらないまま、独立して同時に存在できるはずなんですよね。だから、異聞帯の存在そのものは排斥されなければならないものではない。しかし、「汎人類史の凍結」というその一手ゆえに、異聞帯は滅ぼされるべきものになってしまった。

水島精二監督の「劇場版鋼の錬金術師 シャンバラを征く者」を見た方にはわかっていただけると思うんですけど、獣国、実質シャンバラでしたよね!?「シャンバラを征く者」のあらすじはざっくり言うと、錬金術が発達した作中世界と科学が発達した現実世界は平行世界であり、第一次世界大戦の最中、更なる戦力を求めるドイツの女性将校が錬金術を武力として使用するために錬金術世界に侵攻してくる、というものなんですけど、終盤において彼女は理解できないものが恐ろしいと言って錬金術世界を破壊しようとするわけです。そして、なぜ現実世界から錬金術世界への侵攻が可能になってしまったかというと、それは全く意図せずに、しかしぴったりのタイミングで錬金術世界の側から二つの世界を繋ぐ門を開いてしまったから。興味のある方はぜひテレビシリーズと合わせてご覧になってください。原作が連載中で完結が遠かったタイミングでのアニメ化だったため、第3クール以降は完全にアニメオリジナル展開ですが、荒川弘先生の「鋼の錬金術師」とは別のひとつの作品と言えるほどのストーリー完成度です。

カドックは自分にもできるということを証明しようとしただけ。アナスタシアは皇女としての誇りを胸に、自分の国を築こうとしただけ。イヴァン雷帝は幸福な国を夢見ただけ。ヤガたちは必死に毎日を生き抜こうとしていただけ。アタランテは彼らが必死に生きる世界を守りたかっただけ。異聞帯による汎人類史への侵攻がなければ、彼らのひとつの完結した世界はきっとずっと続いていた。

それでも、汎人類史の生き残りであるカルデアの人間たちは、彼ら彼女ら自身の世界を守るために戦わなければならない。その足元には歴史の敗者たちの無数の亡骸が積み上がる。その事実を自覚していることが、過去に対する責任なのではないかなと思います。

イヴァン雷帝はマスターに対して「この世界に生きる全てのヤガを殺す決断をする覚悟はあるのか」と問いますが、異聞帯とはもとより行き止まりの人類史であるわけで、「殺す」よりも「なかったことに戻す」というほうが的確なのでは、と思いつつ、それでも出会ってしまった以上あまり変わりはないよなとも思い……「貴様が認めずとも、余は認め、去りゆくのみだ」というイヴァン雷帝の最期の言葉の重みよ……。

そして、その問いかけに対するアンサーがアヴィケブロンの「戦え、少女」であり、パツシィの「負けるな。こんな、強いだけの世界に負けるな」なんですよね。敗者と勝者という二極ではなくて、誰が最後に生き残るかという、並列のなかのただのひとつに過ぎないもの。追い詰められたカドックが口にする「まだだ。まだ終わってない!」という叫びは、これまでマスターが何度も口にしてきた叫びと何も違わない。マシュに手を伸ばしたのも、アナスタシアに手を伸ばしたのも、同じ「生きたい」という願いだった。彼らの立場はきっと容易に入れ替わりうるものだった。

けれど、あり得たかもしれない未来がいくらあったとしても、現実はひとつしかない。だからこそ、アナスタシアはただ一度だけ、カドックの前に身を投げ出すことができたのかなあと思うのです。

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同じ霊基を持っていたとしても、記憶を記録として同期されることはあったとしても、召喚されたサーヴァントとしての生は唯一無二であると思っていて、そんなアナスタシアがカドックを守るのが、まさに今生なんですよね……サーヴァントは生者ではないけれど、唯一無二の今生がある…………生者たるカドックは勝つために世界をやり直そうとするけれど、サーヴァントであるアナスタシアは「そんな勝利に、何の意味があるのでしょう」と言うことができる、そしてアナスタシアはカドックに「その後悔を抱いて生きなさい」と微笑む……今生に後悔があるからこそやり直そうとする男と今生の尊さを知っているからこそそのひとつに殉ずる女、あまりにも、あまりにもじゃないですか…………こんなん、この先なにがあっても、カドックは生きる以外にない…………あまりにも……あまりにも性癖…………どうせ刺さるんでしょと予想していたのに思った以上にぐさぐさに刺さってめちゃくちゃ泣いてしまった…………改めて色彩を聞いたら今度はアナスタシアに思いを馳せて泣いてしまう……永遠などすこしもほしくはない……

生存を求めることは悪ではないし、間違いは悪ではなく、間違いにも意味がある。ただ方向性を違えただけで誰にも罪はないということが全編を通じて繰り返されていて、それを包み込むのが、かつて彼らが生存には役に立たないと切り捨てた余剰そのものというの、異聞帯に生きる者たちに対する優しさにほかならないじゃないですか。やがて消える世界を静かに満たし見守る綺羅星、彼らはそれを見つめながら届かなかったものに思いを馳せるけれど、地上に届く星の瞬きは、遥か過去のものなんですよね。

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すべてが等しく正しく、すべてに等しく正しさはない。願いそのものには罪はないけれど、ただ一つだけの、万人に共通する正義はない。道を違えない人間はいない、後悔や、胸が詰まるような思いをもって、人は何かを願ってしまう。誰かの正義は誰かの悪であり、ある人の願いは他者にとっては倒すべき悪かもしれないけれど、他の誰かにとっては、確かに希望であるのです。

 

いやぜったい2部しんどいよな~~~と思っていたんですけど、1章において彼女たちにずっとのしかかる問いに加えてこの先も指針になる言葉が示されたことで、なんだか希望が見えたような気がします。結末がどうであれ、きっとこの選択しかないと思えるような展開になるはずだと信じているので、今後も非常に楽しみです。あの終わり方、続きが気になるよーーー2章はいつですか……!!!!!

2章のタイトル「ゲッテルデメルング」はラグナロクを指しているそうで、キリスト教の終末思想たる怒りの日に続いて、次はラグナロク……なるほど世界の終焉……

 

今回は時系列順の感想ではなかったのでなんだかとっちらかってしまったような気もしているのですが、プレイしたり、クリア後に読み返したりして、ぐるぐるとこういったことを考えていました。

そして、アナスタシアとの最終戦においてついにマルタ嬢が絆10になりました!!!めでたい!!!いつもありがとう~~~だいすき~~~!!!!!!これは宝具で倒そうと思ってじりじりNP貯めていたのにマルタ嬢が強すぎてアーツチェインで8万削って倒してしまったときにびっくりしすぎて呆然としながら撮ったスクショ。マルタ嬢、なんかなにもしてないのに日々強くなっていっている気がする(気のせい)。信仰の力かな。だいすきです。

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イメソン判定ガバガバなので、この記事も色彩と逆光と零 -zero-をひたすら聞きながら書きました。2つのジャンルで同じタイミングで「正義は決してひとつではない」という同じテーマで殴られるの、本当に何……同じ人間の性癖だから容易にいろんな沼が繋がってしまう。シャンバラも水島ハガレンもペダルも本当に大好きなんですよね。しんどい。零を聞きながら降谷零のことも考えてしまうしマシュのことも考えてしまうし、これでスコッチの名前が光とかだったら未来の私はどうするんでしょうね……いや実際ありそうで洒落にならない……そのときは強く生きてください 2018年4月の私より

正義はいつもひとつではなく、だからこそ、迷い悩みながら自分の信じる一条の光を見つけようとひた向きに進む姿勢は胸を打つのだろうな。繰り返しになりますが獣国をプレイしてウワーーーーッとなってまだ執行人を見ていない人!!劇場へ走れ!!!!!!今回は以上です!!!!!!!