基本的に壁打ち

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運命の必要条件

「やはり思うだけじゃだめなんだなあ。願いは口に出して言うべきだ。運命は自分で手繰り寄せるしかない」

アニメ『風が強く吹いている』第1話「10人目の男」

 

アニメ「風が強く吹いている」の放送が終わってしまった。最終話である第23話「それは風の中に」はひとつの作品の終わりとして本当に素晴らしく、10年以上「風が強く吹いている」という作品を愛してきた身としてはアニメによる小説へのアンサーに胸がいっぱいになった。

最終話を視聴した翌朝(今朝)に第1話を再び見返したところ「もう一周しつつ感想をまとめようかな」という気持ちが覚悟に変わったため、詳細な感想は後日文にするとして、取り急ぎ、「運命」とは何なのだろうかという話をしたい。

 

なお、本記事はこの関係性がだいすき2019でもあるため、「風が強く吹いている」の内容およびネタバレは含みませんが、風履修勢は大手町のゴールに思いを馳せながら読んでください。まだの方は今からでも間に合うので小説を読むかアニメを見てください。

 

以前、ハッピーエンドの要件とは「自らの意思で選択し、その選択を互いに尊重しあうこと」ではないかという記事を書いた。「相手のことが好き」という感情は必ずしも恋愛関係やフィジカルな性欲とだけ結び付いているわけではなく、様々なバイアスを取り除けば本来は非常に幅の広い感情であり、関係性の向かう先もまた本来は当事者間の意思と選択のみによって決定されるのではないか、というのが主な内容である。

当時は恋愛関係だけが全てではないという主張に重きを置いていたのだが、様々な作品や色々な人の感想、意見に触れて考えるうちに、今では「自分の意思と選択があるかどうか」というシンプルな観点に落ち着いた。物語の展開のための変化ではないか、そのキャラクターや関係性がそうなるべくしてなる整合性があるか。物語の枠外の様々な要因に左右されるのではなく、こういう経過を経てここへ至るのだなあと思えるような物語、キャラクター、関係性が好きだ。結局のところ私は、その物語やキャラクターたちが、何を思い何を選び取り何を選ばず、そして自らの赴く先を決めるのかという部分に一番惹かれるのだと思う。

とある二者、あるいは複数人の関係性を愛する人々にとって、「運命」という言葉は時に大変な重みを持つ。「これは運命だ」と天啓のように脳裏に一閃することもあれば、「あれは運命だった」とゆっくりと染み渡るように思い至ることもある。物語の受け取り手は、物語のなかで提示されたすべてと自分の経験や価値観を総動員して自分だけの解釈をかたちづくる。その結果として彼ら・彼女らの間には確かに「運命」があると、そう思うとき、それは受け取り手本人にとっては確かにひとつの真実である。

 

では、私たちは、何をもってそこに「運命」があると感じ取るのだろう。その前に、「めぐりあわせ」としての運命とは、そもそも何なのか。

「運命で全てが定められているのなら、意思による選択は存在しないのではないか」と考えたことはないだろうか。仮に、ある事象とその結果が人間の意志にかかわりないところであらかじめ定められているとするなら、その結果にならないよう手を尽くして別の結果へと至ったとき、抗うこと、その先の異なる結果も実は最初から定められていたのではないか。自分の意思で運命に抗ったつもりでも、その抵抗ももとより運命によって決められているのなら、自分が考え選択した行動、ひいては自分の意思とはどこにも存在しないことになってしまうのではないか。

この問答を突き詰めるとそもそも自分の意識以外のものは実在するのかという問いにまで到達してしまうので早々に切り上げるが、ここで着目したいのは、運命とは与えられるものなのか、あるいは選び取るものなのか、ということである。受動的か能動的かと表現することもできるだろう。あらかじめ定められ与えられるものとして考えるなら、それは受け入れるべきものであるし、自分の意思で選び取るものとして考えるなら、そのためには自分の求める結果に向かって進んでいくべきである。前者は「結果を受け入れることで前進する」、後者は「前進した結果を受け入れる」と表すことができる。これらはコインの裏表のような捉え方であり、結局のところ、どう捉えるかという角度の違いでしかないのだ。

「めぐりあわせ」としての運命それ自体は、おそらく中立的なものだ。良いめぐりあわせならそのまま受け入れ、悪いめぐりあわせなら変えたいと抗うのは個人の恣意的な捉え方にすぎない。きっと、良いめぐりあわせ・悪いめぐりあわせというように最初から分類されているものではないし、自分の人生のどの部分を切り取って運命とみなすかは考え方次第である。

 

「めぐりあわせ」としての運命そのものについて考えたところで、次に関係性における「運命」へと目を向けたい。読者・視聴者が作品から読み取る関係性に様々な運命を見出すとき、そこには何があるのか。私たちは、なぜそういう関係性に惹かれるのか。

誰しも、そのときどきによって悩んでいることや突き詰めて考えていること、探しているものや追い求めるものを抱えながら生きている。それらは人によって異なり、ある人にとっては些末なものが別の誰かにとってはこれ以上ないほどに重大だったりする。人によってあまりにも違うために完全に凹凸がはまることは滅多になく、その代わりに、完全には理解しきることはできなくても最大公約数のような理解のもとで共感したり、理解しようと歩み寄ることはできる。

ほとんどの人にとって、人生とはきっとそういうものなのだろう。相手と上手くはまる部分とはまらない部分があって、そのうえでなんとか相手のことを知ろうとしながら生きている。それでも稀に、歯車が完全に噛み合うことがある。自分が求めていたまさにそのものを相手が持っているとき、自分の人生に相手が完全に溶け込んでいるとき。そしてそれに気づいたとき、強烈な引力が発生する。「運命」とは、きっとそういうことだ。

前述の通り「めぐりあわせ」はニュートラルな出来事であり、良い・悪いという基準は存在しないが、一方で気づくか気づかないか、認識するかしないかという基準は確実に存在する。気づくこと、認識することとは言葉にすることであり、言葉にすることとはかたちを取ることである。認識されないものは「ない」ままに通り過ぎていく。ある事象、ある因果関係は、認識されなければそもそも「めぐりあわせ」としての運命になる前提にすら立てない。

気づくこと、認識することではじめて運命は運命としてのかたちをなすのなら、その意味において、運命とはただ与えられるものではない。意思による選択、その結果を認識することで、ただ過ぎ去っていくはずだっためぐりあわせは、「運命」になるのだ。

 

フィクション・ノンフィクション問わず、小説や漫画、アニメ、映画、舞台等、様々な作品を通じて、私たちは自分以外の人生を垣間見る。全ての人にわかりやすくドラマティックな事象や出会いがあるわけとは限らないし、人はどうしたって自分の意識に基づいてしか認識や経験という実感を得られない。だから、作品を通じて他者の人生や経験を想像することで、自分だけでは知ることのできない世界の一端に触れようとする。そうしてはじめて触れるものは、様々な体験や感情をもたらし、想像という余白を拡張して自分の人生を豊かにしてくれる。

私たちが現実に生きていくうえで、ぴったりと合致する存在に出会うことは本当に稀だ。だからこそ、めぐりあわせが「運命」へと変わる瞬間や、互いに強烈な引力で引き合う関係性は、私たちを惹き付けてやまないのだろう。そしてその関係性に「運命」があるからといって、両者がずっと物理的に共に過ごしていくかというとそうとは限らない。ある部分では完全にぴったりと当てはまったからといって他の部分は当てはまらないことはなんら不思議なことではないし、行く先が別たれたとしてもお互いの歯車が完全に噛み合った事実は消えない。両者がそれぞれ自分の意思で答えを出し、双方の選択を互いに尊重することがハッピーエンドの必要条件であるように、そこにある、そこにあった「運命」は各々の中に残り続ける。物語の中の彼ら・彼女らも、物語と受け取り手も、もう出会っているのだ。

 

最後に、これは個人的な意見であるが、私は運命とは誰かに与えられるものではなく、選び取るものであると考えているタイプだ。こうありたいと願い行動することではじめて開かれる道があると思うことは希望だし、性格的に向いている。そして不思議なことに、素敵な作品体験をもたらしてくれる作品に対して「ほかでもないいま、出会うべき作品だった」と感じることが多い。私のいまは、私が出会い受け取ってきたすべてによって成り立っていると、そう思う。物語のなかで鮮烈に描かれるような「運命」は稀ながら、自分の人生をかたちづくる様々な運命は、意外と身近に溢れているのかもしれない。この記事を書くに至った一番最初のきっかけといえる小説「風が強く吹いている」を読んだのも、勇気を出して先送りせずにいまアニメを見ると決めたことも、きっと運命だった。

 

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