基本的に壁打ち

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アニメ化という翻訳 ―「風が強く吹いている」13話に寄せて

「走、走るの好きか?」

 はじめて会った夜にも聞かれたことだ。走は言葉に詰まった。

「俺は知りたいんだ。走るってどういうことなのか」

 

『風が強く吹いている』(三浦しをん) 二、箱根の山は天下の険

 

本記事には小説「風が強く吹いている」およびアニメ13話までの内容が含まれますが、あらすじや展開のネタバレはありません。演出については最後にすこし触れます。

未履修のみんなはぜひ「風が強く吹いている」を読んだり見たりしよう!!

風が強く吹いている

風が強く吹いている

 

 

2006年に世に出た三浦しをん先生の「風が強く吹いている」が、2018年ついにアニメ化された。私が小説「風が強く吹いている」を学校の図書館で借りて読んだのは確か中学2年生のときで、気づいた頃にはすでに必ず毎年お正月に箱根駅伝を見ていた私は2日ほどで小説を読破し、そして本作品は、私の人生にとって最も大切な作品のひとつになった。冬が来て箱根駅伝の季節の足音が聞こえてくるたびに何度も読み返し、背表紙の折り返し部分の臙脂色が少し剥げた文庫本は私の宝物で、10年近く、あるいは10年以上ずっと好きで大切にしている作品はもう完全に私の一部になっていると、そう思っていた。

そこで、2018年、アニメ化。アニメ化である。正直「えっ今?」と思ったし、好きすぎる作品ゆえに若干不安な気持ちもあった。でも、違った。1話を見始めた瞬間、杞憂以外の何物でもないそれらは全部消し飛んだ。そこにあったのは、アニメというかたちに完璧に再構成された「風が強く吹いている」だった。

ずっと大好きでいる作品が、時を越えて最高のアニメとなってやってきてしまったのである。

 

小説でも、漫画でも、アニメでも、ドラマでも、映画でも、ゲームでも、楽曲でも、絵画でも、舞台でも。それがどんな媒体であれ、作品に触れるということは自分の知らない世界に触れることだ。未知に触れ、出会わないままでいたかもしれないものと出会い、そうして自分の世界は拡張されていく。作品体験とは、物語そのものだけではない。作品に出会った経緯や、夢中で物語を追う瞬間の息苦しいほどの高揚、その作品に触れている瞬間の温度や場所、そして感想まで含めて、自分自身だけの唯一無二の体験として人生の一部になるのだと思う。

作品の媒体は完全に並列の関係だが、アニメ化が「映える」作品というものは確かにある。スポーツを題材とした作品は例としてわかりやすい。例えばその競技に長年向かい合ってきた読者と、その作品に触れることで初めてその競技の世界を垣間見ている読者では、作品体験は明らかに異なるだろう。想像の余地が無限にあるということは、翻せばその想像のための土台がなければ全く想像ができないかもしれない、ということになりうる。

その点で、作品が扱う分野をこれから知る読者、あるいは視聴者にとって、視覚で理解できるというのは非常にありがたいことだ。ページをめくっていたときには自分の脳内のみに留まっていたものが、色と動きと声と音で彩りを増す。曖昧な輪郭しか持たなかったイメージ、あるいは想像の及んでいなかった部分が、ひとつの明確なかたちを取って眼前に現れる。想像の及ばなかった質感や、音や、疾走感を体感することができる。それがアニメの特徴であると思う。

一方、ではなぜ「声が違う……」や「楽しみなのに見るのが怖い……」というファンの複雑な感情も確かに存在するのかといえば、それは無限にあった想像という余白がなくなるからではないか。

たったひとつのかたちを取るということは定義されるということだ。思い浮かべていた、自分の想像の中の声や容貌は、定義されたキャラクターを前に行き場を失う。アニメ化が決まる以前からその作品を追っていた読者のほうがそういった複雑な感情を抱く可能性がより高いのは、自分の中の想像や感想や解釈が既にある程度強固に形成されているからだろう。

アニメ化だけではなく、実写ドラマ化、実写映画化も同様だ。私が今回、アニメ風を見るにあたってわずかばかりの勇気が必要だったように、大好きな作品だからこそ、そのかたちが変わるのがこわいのだ。

 

アニメ「風が強く吹いている」第1クールを一気見したところ感謝の気持ちと様々な感情が最高潮に達したため、今私は小説を読み直している。

アニメと同時並行で小説を読み返すと気づくのは、結構な部分で差異があるということだ。しかもおもしろいことに、小説を読んでいてもアニメを見ていても、両者の差異に対して、ネガティブな「改変された」「付け加えられた」という気持ちが一切沸かない。ひたすらに、「ここをこう補完するのか……!」と唸ったり「ここがこうなるのかあー!!」とひっくり返ったりして、アニメの再構成の巧みさに感謝でいっぱいになっている。

アニメ風、特に各々がどのような心境の変化を経て箱根に向かうのかという部分では、小説にはない描写が大半だ。小説の一部分がひとつのエピソードに膨らまされている箇所ももちろんあるが、体感ではアニメで新たに描かれた描写のほうが多いように思う。だって小説では、清瀬箱根駅伝を目指すと言ったあの宴会の席で(走の本気を除く)全員がもう箱根を目指すことを決めているのだ。キングの就活話はないし、ユキはあっさりとランニング用のシューズを買ってくる。おそらくアニメ14話が満を持しての王子回だが(心の底から楽しみにしている)、小説では早々に全員が公認記録をクリアしている。そしてこれだけ変更点があるのに、変わっていることにも追加があることにも全く違和感がない。小説どおりの描写も、アニメで新たに描かれた描写も、完全に地続きでひとつの物語をかたちづくっている。

いわゆる「アニメオリジナル」を本筋に差し支えない範囲で原作のストーリーの合間に差し込まれるシーン、あるいは数話分として定義するなら、アニメ風における描写の補完は「アニメオリジナル」を越えている。このメディアミックスで行なわれているのは、紛れもない翻訳だ。

 

先ほど作品の媒体は完全に並列の関係であると書いたが、媒体ごとの特徴は当然全く異なる。

世界大百科事典 第2版では、「一般に翻訳とは、ある自然言語の語・句・文・テキストの意味・内容をできるだけ損なうことなく他の自然言語のそれらに移し換えることをいう」(抜粋)とある。日本語を英語に訳すときに直訳をすればよいわけではないように、日本語では同じ単語でも英語ではニュアンスの異なる複数の単語があるように、言語の変換は機械的に行なうだけでは不十分だ。オリジナルの文脈における意味や内容や本質を損なわないように、その言語の特徴を捉えながらかたちを変える。そうしなければ、適切には伝わらない。

小説や漫画というかたちで生み出されたものを、映画やアニメ、ドラマ等の別のかたちに変えることは、言語の変換に似ている。ただ漫画に色と声をつければアニメになるわけではないし、台詞と情景を文に起こせばノベライズ小説になるわけではない。小説で描かれた物語を、アニメというかたちに翻訳する。その作品を、作品の根底に流れる本質を受け止め、解釈し、それらを損なわないように、ちゃんと伝わるように、丁寧に丁寧に別のかたちとして再構成する。小説には小説の、漫画には漫画の、アニメにはアニメの文法がある。だからこそメディアミックスに必要不可欠なのは、オリジナルの媒体の文法から別の文法への翻訳なのではないかと思うのだ。

小説は描写の分量と読者の読み進め方に対して自由度が高い。連載等は1回何字や全何回という制約があるのでまた事情が異なるのだと思うが、どのような部分、内容に描写の重点を置くのかは基本的に作者に完全に委ねられている。一冊の本を読み進める読者も同様で、「今はここまでしか読めない」という制約は一切なく、どこで止まるか、何日かけて読むかという進め方は完全に各々の自由だ。少しずつ時間を空けながら読んでもいいし、我慢できなくて夜通し一気に最後まで駆け抜けてもいい。作者にも読者にも区切りや時間という物理的な制約がないからこそ、物語として自然な流れであれば多少あっさりとした描写でも気にかからないのだと思う。

例えば同じひとつの作品で比べたときに、アニメや漫画よりも小説のほうが大人びて感じるのも、先ほど書いた想像という余白の広さの違いに起因しているのだと思う。小説では所作や表情が常に提示されるわけではなく、代わりに心情や内面の描写がゆたかだ。言語化され提示される内面は、表情や動作を手がかりに行う視聴者の想像よりもきっと整然としている。小説の走と比べてアニメの走はまだもがいている最中というような印象を受けるし、アニメのユキは意外と感情的、そして想像すらしなかったツーブロックかつ片耳ピアスである。

地の文があるからこそ登場人物の内面や背景の細部を描くことができるというのは、小説の大きなアドバンテージだ。読者が「ここからここまでは何分間で読む」という制限に晒されることもない。一方、映像になるとそうはいかない。動くということは時間という物理的な制約に縛られるということで、映画なら2時間から3時間という絶対的な枠組みの中で物語を構成しなければならない。アニメなら約24分×話数という全体構成、各話における1話分という枠組みの中での構成、全体の中での位置づけ、前回からの接続と次回への流れを組み立てなければならない。最初から「区切られた話の連続」として構成されている漫画は、各話の切れ目がある程度の目安になるのかもしれない。しかし、小説の文字をなぞるように映像にしたとしたら、きっとそれは両者の良さを殺してしまう。

小説における物語の構成の仕方と、アニメにおける物語の構成の仕方は異なる。別の文法のもとで再構成するなら、情報を提示するタイミングの改変、場面の取捨選択あるいは補完、場面の並び替えは必要不可欠なのだと思う。その再構成にあたって、原作で非常に重要だった場面や要素がカットされてしまったり、のちの展開を踏まえたらここではこうはならないという展開を追加されてしまうと、様々な悲しみを生み出してしまう。ある作品(A)とその作品のメディアミックスによって生まれた作品(B)の関係について考えたとき、あくまで原作Aが上位・BはAの派生という「原作の○○化」という認識と、BはAをもとに再構成した別個の作品という「○○のA、○○のB」という認識では、明らかにA・B両者に対する捉え方が異なる。

これは個人的な意見だが、せっかく別形態を取って自分の好きな作品が世に増えたのに、その作品を「原作の下位」として捉えてしまうのはもったいない。確かに原作があってこそ生まれた別形態だが、せっかくなら「○○としてのこの作品はこうなるのか」と考えられたほうが楽しいし、一粒で二度も三度もおいしい。

確かに自分の作品が別のかたちになった結果望ましくない状態になってしまうのは悲しいことだが、「原作どおりではない=原作から変わっているから良くない」というのは本質ではないのだと思う。オリジナルの文脈における内容や本質を損なうことがないように行われた、一貫した解釈に基づく別の文脈への翻訳と、それに伴う変更であれば、原作を知る人々も初めて触れる人々も、きっと納得してひとつの作品として受け入れるはずだ。

 

上記のようなことを、アニメ風13話を反芻しながら考えていた。ようやくアニメ風の話ができる。

先にも書いたとおり、第1クールでは各々の葛藤や心情の変遷、鶴の湯での会話やニコチャンお弁当事件などから垣間見える彼らの生活感、そして実際に走る姿が、非常に丁寧に丁寧に描かれていた。後援会や広報のためにひたむきに奔走する神童の姿や、「走る」ということに関する走とニコチャンの会話およびニコチャンとユキの会話、王子と走と清瀬の衝突とそのわだかまりの氷解、そして彼らの走り。それらが、3ヶ月かけて描かれる。アニメは1週間につき1話24分という制約があり、視聴者はどんなに先を見たくても1週間待たなければ次回を見ることはできない。時間というどうしようもないものに縛られる以上、あっさりしすぎれば展開の速さに急かされてしまうし、冗長すぎれば進みが遅く退屈になってしまう。

それが、毎回最高のバランスで繰り出される。小説を読んでいるからこそ「ここではこう思っているんだよなあ」とにこにこする描写もたくさんあるし、アニメ初出ゆえに「知っているはずなのに知らない……」とどきどきする描写もたくさんある。登場人物たちの心情の変化や関係性の機微、アニメならではのレースの緊迫感や疾走感が毎回積み重ねられていき、どんどん物語の厚みが増していく。小説とアニメを両方履修しているとなおさら、相互に作用しあってどんどん世界が膨らんでいく。メインの竹青荘の住人たちですでに10人、それに加えて葉菜子や榊、藤岡など、登場人物が多いのに、それぞれの関係性が本当に丁寧に描かれている。関係性だけではなく、そもそも10人いたら描写の多いキャラクター・少ないキャラクターという偏りが出てもおかしくない。その偏りがない。そのあたりのバランスが本当に絶妙に上手い。

そして、レースの疾走感をはじめとして、アニメならではの演出がどこまでも魅力的だ。「だが断る」の遊び心や王子のTシャツ、走のマヨネーズなど、挙げきれないほどの愛溢れる小ネタにはくすっとなるし、レースの場面、特にユキと神童のゴール前のカウントのような描写には手に汗握り、たまらなくなって声が出て自分も応援してしまう。なかでも私は王子と走の特訓が本当に好きで、ページをめくる瞬間には感情が高まって涙が出た。くわえてスマートフォンやホームページの作成など、2018年・2019年への適応のさせ方が本当に上手い。そういった細部に至るまで描写が丁寧なので、回を追うごとにどんどん加速度的に好きになっていく。

13話「そして走り出す」は、実質劇場版かテレビスペシャルなのでは……? と思うほどの熱量だった。アニメ風は小説を読んでいるのに展開がわからなくてどきどきするという貴重な体験ができるアニメなので、12話の引きのあの音で「間に入ったハイジさんを殴ってたらどうしよう……!」と本当に怯えていたのだが(何事もなくて本当によかった)、そこからの畳み掛けが……本当に……すごかった……。

ばらばらのテンポで揺れていた振り子のテンポが少しずつシンクロしていき、そしてようやく全部が同じテンポで動き出す。そういう象徴的な回のタイトルが「そして走り出す」であることに、もう、感謝しかない。

 

良い作品は何度見返しても、何度読み返しても良い。それどころか、その作品に触れるタイミングによって違う感想を抱き、新しい一面を発見する。中学生当時、高校生当時には抱かなかった気づきを今あらたに得ることができる。2006年に世に出た作品が2018年にアニメとなるということは本当にすごいことだ。

659ページで幕を閉じる文庫では、405ページから1月2日が始まる。約3分の1を占める往路と復路だけではなく、そこへ至るまでの彼らの日々がこの先どのようにアニメで描かれるのか、心の底から楽しみでならない。

 

 一人ではない。走り出すまでは。

 走りはじめるのを、走り終えて帰ってくるのを、いつでも、いつまでも、待っていてくれる仲間がいる。

 駅伝とは、そういう競技だ。

 

『風が強く吹いている』(三浦しをん) 八、冬がまた来る