基本的に壁打ち

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光ある人生・前編 ―「風が強く吹いている」感想

「風が強く吹いている」についての文も3本目となりました。最終話を見た翌朝に1話をあらためて見返したところ、ラストのこのカットに感情が爆発し、勢いのままに運命とはなんぞやという文を書き、そして全話見返したり小説を読み返したり噛み締めたりしていたらいつの間にか5月も終わりに差し掛かってしまいました。

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この記事を読んでくださっている方々は風視聴済の方がほとんどかとは思いますが、もしまだ読んだり見たりしていない方がいたら、ぜひ「風が強く吹いている」という作品に触れてみてください。原作は2006年に世に出た三浦しをん先生の小説で、アニメは2018年10月から2019年3月にかけて全23話で放送されました。

ツイッター脊髄反射で打っているので「いまからでも間に合う!」というような言い方をしてしまうこともあるのですが、本当は、作品に触れるタイミングに「間に合わない」ことなんてありません。読んでみようかな、見てみようかなと思ったときが、きっとその人にとってのタイミングなのです。「めぐりあわせ」や不思議なご縁とはそういうものなのだと思います。

この感想文はアニメの感想を中心に書いていますが、小説風が魂に刻まれているので息をするように小説の話もします。アニメ視聴済・小説未読のみなさんはぜひ小説もお手にとってみてください。

 

13話時点と最終話後に書いた文のリンクも貼っておきます(宣伝)。

前置きが長くなりました。そんなわけで「風が強く吹いている」感想文を始めますが、書いているうちに当初の予想を裏切りトータル20,000字越えが見えてきたので、今回はひとまず6話までを中心とした前編です。

 

■構成という全体図の緻密さ

私は初見時はストーリー進行に意識のほとんどを向けては毎回「続きは!?」となっているタイプなので、すべてを知ったうえで見る2周目での気付きなのですが、アニメ風は各話1話分のまとめ方と各回のつながり、エピソードを貫くテーマの描き方、そして23話というシリーズ全体を俯瞰したときの流れが実に見事です。

例えば、1話で走を見つけた清瀬はすでに彼の足元に光の筋を見ているわけですが、1話の次にこの演出(流星演出と勝手に呼んでいます)があるのは12話の記録会です。このとき走は清瀬の「走るの、好きか?」を思い出しており、そして加速し1着、覚醒の片鱗を見せるわけですが、12話までのなかで走を追ってくる(走が追われていると感じている)のは高校時代の榊やコンビニ店員など、やり直せない過去や逃避しようとしている現実ばかりでした。

6話において、清瀬はうまくいかない現状に苛立つキングに対して「明日も明後日もその先も、やるべきことに変わりはないだろう。いつだって目の前にあるのは現実だ。なら、逃げるんじゃなくて、いっそ一緒に走ってみればいいんだ。現実と」と言いますが、まだ向き合う覚悟を決めあぐねている走は7話の記録会後、「一緒にチームを導いてやれ」と言う藤岡に言葉を返すことができないし、みんなと別れて一人走って帰ってしまいます。しかし、9話の応援や10話の王子との特訓を経て、走はようやく自分のこれまでとこれからに向き合えるようになる。そうして迎える12話でようやく、走を追いかけてくるのは苦い経験ではなくなるのです。

全体の折り返し地点と言える13話、過去のノイズは幸福な現在にも届きますが、みんなと一緒に走りたいと走の心はすでに決まっているし、自分や仲間とちゃんと向き合うことを決めている。そして走り出す、ようやくなんの迷いもなく一歩を踏み出した彼のことを、もう何も追ってはきません。

向き合わず逃げようとしている者にとって、過去や現実はどんなに逃げても追ってくるものですが、向き合い、ともにあろうとする者にとっては背中を押す存在となることもある。自分と向き合うということは時に苦しく、なあなあにしたままでいたほうが楽だと、目を逸らしたままでいたいと思うときもあるけれど、それらは逃げようとするからこそ追ってくる。逃げようとする限り逃げられない、けれど共に歩もうとすればもう追ってはこない、そういうものなのだと思います。

このように、単発の回やエピソードごとに切れることなく、心情の機微や変遷が流れとして、あるいはグラデーションのように非常に丁寧に描かれていました。各場面や演出が地続きのものとして繋がりあっているからこそ、フォーカスする部分ごとに様々なことを受け取り、考えることができる。これはファンとして本当にありがたいことで、そういう重層的で多面的な描き方をしていただいたことが本当に嬉しいです。

OPの切り替わりは12話ながら、私は1話から13話が前半、14話から23話を後半と捉えています。前半を貫くテーマとしては「自分と向き合うこと」が、後半を貫くテーマとしては「前へ進もうとすること」が描かれていると感じました。再構成に関しては前述のアニメ化という翻訳 ―「風が強く吹いている」13話に寄せて - 基本的に壁打ちで書いたことが全てなのですが、小説からの再構成が本当に見事で、見返すたびに新たな気付きや発見があります。物語の筋や演出がぶれることなく、大きな流れのなかで様々なテーマが共存しているということを考えるたびに、いったいどれほど全体図を緻密に組み立てていたのだろうと、感謝の気持ちでいっぱいになっています。

 

■全体の基盤としての関係性描写

1話における清瀬の突然の箱根宣言に対し、2話・3話ではそれぞれが困惑や抵抗を示します。小説では割ととんとん拍子で箱根を目指すことになりますが、アニメでは各々がどうやって箱根へ向かうかという心情の変化をとても丁寧に描いていました。この差は小説・アニメそれぞれにおける清瀬というキャラクターの違いゆえだと考えているのですが、この話はあとで詳しくします。小説では地の文や細かな会話で生活感やそれぞれの距離感、関係性を感じとることができます。2話・3話には、物語の土台となり今後の質感を左右するそういったディテールがたくさん含まれていました。

2話は清瀬の暴君っぷりが際立ち、もしかしてわざとお風呂壊したな……!?という笑いどころに、銭湯での意地の張り合いという大学生らしさもありました。アニメの清瀬、めちゃくちゃ大学生らしいんですよね……年相応……。

他方、ニコチャンには他のみんなとは異なる背景があることを示唆する伏線も盛りだくさんでした。ランニングから帰り煙草を吐き出して苦笑ぎみに「……無理だ」と呟いたり、銭湯でわざわざユキに賭けを持ち出したり。公園でばったり走と出くわしたとき、日の中にいる走に対してニコチャンは影の中に立っているんですよね。ここでは日の中といっても夕焼けですが、今度はニコチャンが走を影の中から真昼の日の中に引きずり出す夏合宿の一幕と合わせると、彼らの日々……!!という気持ちになります。

私はユキとニコチャンの関係性と距離感が大好きなので、ユキが「煙草のにおい、しないなーと思って」などと言い出したときにはもう、あの、あのさあー!?という気持ちになり……仲良しだな……!?オープニングでも仲良しだもんな……!?ユキ、ニコチャンのことをめちゃくちゃよく見てるんだよな。よく見ているからニコチャンの未練を感じとるし、無理を押していることにも気づくんですよ。お弁当事件とか……そしてこれが一方通行ではなくて、ユキがニコチャンのことをよく見ているように、ニコチャンもユキのことをよく見ているんですよね。だからこその、6区から7区へ襷がわたるときの「やると思ってた!」なので……。

ユキとニコチャンについて、小説でもこの二人は馬が合っている描写が多いのですが、アニメを見ていてもしかして小説よりも仲良しさんだな……?という気持ちになっていたところ、6区を見て完全になるほどね!?!!?という気持ちになりました。これについては後述します。

10人もいればそれぞれに全く異なる関係性があり、誰と誰は特に仲が良いという密度のグラデーションも生まれます。前半では特に、そのあたりの描写に多くを割いているという印象を受けました。3話、清瀬がユキを追ってクラブに突撃してきますが(まさかジャージでくるとは思わなかった)、おせちを盾にユキを言いくるめる清瀬の描写がなかった代わりに、二人の互いに対する良い意味での無遠慮さがよく出ていました。優位に立つ清瀬が坂の上のほう、ユキが下のほうに立っているカットが印象的です。清瀬とユキ、お互いに対してどこか遠慮がないんですよね。そしておなじく同学年のキングはというと、どこか距離があるように感じられる。なんとなく一緒にいることが多い組み合わせ、というこれらの細かな描写が、8区のキングの独白に一気に質感を伴わせるのが本当にすごいと思います。積み重なった彼らの日々、彼の4年間なんですよ。そしてストーリーを追うことに意識を向けているとするっと過ぎ去ってしまうような自然さなのでわざとらしくない。微妙に異なるそれぞれの人間関係の描き方がめちゃくちゃに上手い……すごい……。

後になってわかる、という点でいえば、3話で清瀬が超自分理論を展開してユキを説得するとき、清瀬の背後に貼られた映画のポスターは「勝手すぎる奴」でした。王子に退去を迫る2話のタイトルは「鬼が来りて」ですし、全員をなんとしてでも走らせるというまさに「勝手すぎる奴」で、これまでの強引さを象徴する笑いどころなのですが、全てをふまえて見ると、同じ「勝手すぎる奴」でも受ける印象が全く違う。清瀬は勝手すぎる奴なんですよ。竹青荘というひとつの太陽系の中心で重力と引力によってみんなを振り回す。ただ、これもどちらかというと小説の清瀬のほうがアニメよりもずっと勝手すぎる奴だと思います。FGO勢はわかってくれると思うんですけど、小説清瀬はロマニ・アーキマン、アニメ清瀬はベディヴィエール的なところがあるので……小説とアニメにおける清瀬の違い、永遠にろくろを回してしまう。

 

■無数の価値観、それらを貫く問い

さて、最初の節目といえるのは間違いなく4話「消えない影」でしょう。竹青荘それぞれの日常がメインに描かれていた3話までに対し、4話では走の内面にフォーカスしていました。榊との再会を機に、否応なくこれまでの自分の生活と向き合わなければいけなくなる走の心情を表すように、4話ではずっとどんよりとした曇り空です。しかし今では、ずっと孤独を抱えてきた走に声をかけてくれる人がいる。

王子、なんだかんだ言いつつ、一人の走に声をかけて、友達と行くところだったごはんに誘ってくれるんですよね。それと王子の友達も、初対面の1年生を快く迎え入れて一緒にごはんを食べてくれるあたり、超いい人たちじゃないですか?たぶん王子が練習でサークルの活動にあまり参加できなくなっても、「競技者としての君の新たな解釈が聞けるのを楽しみにしている!」とか言って超応援してくれそうで……たぶんみんなツイッターで1区実況してたと思う。

私は王子が大好きなのですが、王子は確かにオタクだし超文化系として生きてきているんですけど、でもちゃんと社会性のあるオタクじゃないですか。まったく違うタイプの人々である竹青荘のみんなともそれなりに仲良くやっているし、何より人の価値観を否定しない。あれだけ走ることが嫌いなのに、それでも走る選択をできたのは、たくさんの漫画に触れることで得た共感性の高さと未知の世界に対する心理ハードルの低さゆえではないかなと思います。あれだけの量の漫画に無限の情熱を注げるということは、自分の知らない世界に対する想像力がしっかりと培われているということだし、自分が親しんでいない分野に対しても極端な拒絶はしない。なにより、23話で清瀬に対して「好きにお走りなさい」と笑って送り出せるのは、8人のなかだったら王子しかいないのではと思うんですよね。王子本当にめちゃくちゃ好き……私も王子のようなオタクでありたい……

走と王子のやり取りとともに、4話では、清瀬と走、清瀬と王子の会話も印象的に描かれていました。前編を通して繰り返される主題のひとつである「一人でいても、本当は一人ではなくいつも誰かの存在が共にある」が最初に出てくるのはこの回です。清瀬の言葉を聞いても「……よく、わかりません」と会話を終わらせようとする走に対して、清瀬は今はまだわからなくてもいい、というようなやわらかい表情をしていました。それはまだ走が竹青荘で暮らし始めて日が浅いからなんですよね。今はよくわからなくても、これからみんなと暮らし、走っていくなかでわかっていけばいい。それは現時点では、ということであって、だから8話のように、いっこうに自分自身やみんなと向き合おうとせず速さ以外の尺度の存在を切り捨てようとする走に対しては、清瀬はそれだけではだめなのだと正面からぶつかるのです。

清瀬は王子の価値観である「人生に大切なことはすべて漫画が教えてくれる」に理解を示します。王子は走ることが本当に嫌いですが、そんな王子がなんだかんだと抵抗しつつも走るのは、清瀬が自分の価値観を認めて尊重してくれるということをわかっているからではないかなと思っています。

相手への理解を示した4話に対し、9話ではそこから更に一歩踏み込み、清瀬と王子はそれぞれの話に対して「自分には難しい話だ」と距離を示しました。王子は「走ることの意義を問い直し、人が走ることの感動を追体験できる」と語る清瀬に対して、清瀬は「同じ漫画を読んでいると、呼吸さえもシンクロし、言葉以上のものを共有できたように感じることがある」と語る王子に対して。自分には難しい話だと正直に伝えることは、ときに言葉のうえで理解を示すことよりもよっぽど難しい。清瀬と王子は、そのうえでお互いの話の本質を見つめており、全く違う事柄のなかにも共通する何かがあるということへの理解を言外に共有しています。そしてその「共通する何か」とは、清瀬が走に語りかけた「一人でいても、本当は一人ではなくいつも誰かの存在が共にある」ということなのではないかと思います。

清瀬と王子は文学部の先輩後輩でもあり、そういう観点からもこの二人は仲が良いのだなあと色々な場面で思わされますが、本来全く別のタイプである二人の関係性は、やはり異なる価値観の存在の認識という土台があるからこそなのではないかなと感じました。異なる価値観を「認める」わけではなく、当たり前のものとして「ある」ということ。自分が認めて受け入れるまでもなく、そもそも多様な尺度があるということは、裏を返せば全く同じ尺度など一つもないということです。大切に思うことや自分の人生の比重を大きく占める存在は人によって異なり、万人をはかる絶対値としての尺度は存在しません。

「この人たちが仲間かどうかはよくわからない、けど、少なくとも僕を、僕の嗜好を、価値を、ちゃんと認めてくれているんだ。この人たちにレベルの高い低いは存在しない。あるのは、それぞれが誰なのかということだけだ!」

 

アニメ『風が強く吹いている』第4話「消えない影」

一方で、清瀬と王子が全く異なる話から同じ本質を見つめたように、繋がらないように見える事柄どうしが何かを介して結びつくことも確かにある。そういった普遍的な価値観、あるいは永遠に答えの出ない問いこそが、本作の核である「強さとは何か」なのではないでしょうか。

 

■「無限の選択肢」は虚構か

4話のラスト、走は清瀬の言葉を受けてようやく新たな一歩を踏み出します。続く5話と6話は、まさに5話タイトルである「選ばれざる者たち」の話でした。それは清瀬のことであり、素人ながらも走ろうとし始めた者たちのことであり、なかなかご縁が繋がらないキングのことであり、あるいは、どこにでもいる普通の人々のことなのだと思います。

個人的に、就活を経た今、キングの就活のエピソードを見ることができたのはとても幸運なことでした。「就活」というあの独特の空気には、やはり自分が体験してみなければわからない何かが含まれているように思います。

5話冒頭の合同説明会にて、ポスターは「あなたには無限の選択肢がある」と掲げますが、そんなコピーとは裏腹にキングのもとへは無慈悲なお祈りメールが届きます。苦しい状況のなかでもがくキングとは対照的に、神童はいきいきと練習に取り組み、後援会勧誘に奔走している。ニコチャンは走ることを捨てきれないから針金人形を作り続け、ユキは自分が一歩を踏み出すための理由と納得を見出だそうとしている。彼らはそれぞれ、自身を取り巻く現実、あるいは自分自身と向き合い、何かを見つけようとしています。そしてそんな彼らの姿を通じて「『走る』とは何か」という問いが走に、そして私たちに投げかけられるのです。

「傷つくだけじゃないですか。現実を見せてどうするんです。みんな素人なんですよ」

「本当にそうなのか?」

「え?」

「選ばれた者にしか許されないのか? そういうものなのか? 走るって」

 

第5話「選ばれざる者たち」

「わかりません。あなたの言う走るって、なんですか」

「それだよ走」

「え?」

「俺も知りたいんだ、走るってなんなのか。走るってどういうことなのか」

「わからないってことですか」

「答えはまだない。ようやく走り始めたばかりだからな」

 

第6話「裸の王様」

「選ばれた者」である走は、これまで走ることそのものについて考えることや自分に問うことはなかったのだと思います。同時に、これまで走ることを好まない・さほど思い入れがない人々と関わりあう機会も少なかったのでしょう。問いかけというスタートに立ち、ようやく走の世界が拡張をはじめます。

さて、6話において、自分には自分の人生があるとかたくなな姿勢を崩そうとしないキングに対して清瀬が「おまえは俺たちのためにいる」「俺もおまえたちのためにいる」と言いますが、思い返せば3話でユキともよく似たやり取りをしているんですよね。ユキもキングも自分は清瀬の勝手な夢のためにいるわけではないと反発しますが、ユキに対しては「確かに」とあっさり引き下がる清瀬は、キングには自分だってみんなのためにいるのだと言う。3話の部分でも書きましたが、これが現時点での清瀬とユキとキングの関係性の差なんですよね。そしてそんなキングが、1年を経て「もうおまえ一人の夢じゃねえんだ。俺たちの夢なんだ」と思うようになるという……!
中学生の頃は大学生ははるか大人で、遠い存在だったけれど、年齢を通り越した今になるとキングの人間らしさが一番胸に迫るんですよね。選ばれたい、認めてほしい、でも踏み込まれるのはこわい。そういう部分は、多かれ少なかれ、きっと誰にでもあるのだと思います。
身体能力でも芸術性でも、あるいは人間性においても、才能というものが明確に存在する以上、絶対にそこに差は生まれます。突出した才能という意味における「選ばれた者」なんてこの世にほんの一握りしかいない。それではそんな少数の人間しか夢を抱くことも目指すことも許されないのかといえば、清瀬が言ったように、決してそんなことはない。
9人のなかで最初に箱根を目指すことを宣言した神童もまた、走のような「選ばれた者」ではありません。でも、彼は他人にやらされるのではなく、自分の意志でやると決め、その目標のためにどんどん行動を起こしていきます。明らかな才能や特定の競技・分野との運命的な出会いを持たない人々とは、言い換えればほとんどの、どこにでもいる普通の人々です。そんな私たちにとって、強い思い入れや感情は、ときに渦中に飛び込んでみてはじめて生まれる実感です。
私の感想文なので唐突に私の話をしますが、運動神経皆無のくせに大学では体育会系の部活をやっていました。その競技がとても好きだったわけでもなく、単に新歓期によくしてもらったという理由だけであっさり入部し、練習に追われるうちにいつの間にか4年生になって引退して、そして卒業してしまった。体力も技術もセンスもなくて、大会で特別輝かしい成績を残したわけでもないし、本当に部活ばかりで終わってしまった大学生活だったけれど、あの3年半は私の人生に絶対に必要なものだった。
だから、今だからこそ、神童の言葉がこんなにも刺さる。 

「好きだから本気になるんじゃなくて、本気になってみたら、もしかしたら」

 

第6話「裸の王様」

やる前にはわからなくても、やってみたらわかることがある。それほど思い入れはなかったはずが、自分にとってかけがえのないものになることがある。それは、数年前の私には字面でしかわからないことでした。
「あなたには無限の選択肢がある」とキャッチコピーは謳うけれど、無限の選択肢とは自分が希望する通りに物事が進むということではない。世の中には選ばれた者と選ばれざる者がいて、選択肢は本当は無限ではない。それは真理であるけれど、代わりに、その中で自分が何を選び、どうありたいかを決めることはできる。「無限の選択肢」は虚構かもしれないけれど、持てる選択肢の中から自分の意志で選び、決めることはできる。

誰の姿に何を見出すかは受け取り手によって異なるし、前は気づかなかったことに、時間が経ってから思い至ることもあるかもしれません。彼らはそれぞれ、自分の意志で前を向き、走り始めます。その姿に、私たちはそれぞれ何かを感じ、受けとるのです。

 

 

ここまでの字数をカウントしたら8700字くらいでした。まだ13話の話も葉菜子の話もユキの話も清瀬と走の話もしていない……一体何字になるんだ……。

感じたことや考えたことを出力しきるぞという気持ちで書いているのでとても気力と時間がかかるのですが、めちゃくちゃ楽しい。大好きだから妥協せずに最後まで走り抜けたいです。それではこのあたりで。今回は以上です!

 

追記:中編はこちら。