基本的に壁打ち

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物語というあなたへ

私たちの日々には、あまりにままならないことが多い。

違国日記4巻の、物語がどういう存在かということについてのやり取りがとても好きだ。「物語が必要」ということは、私たち、小説や漫画やアニメや映画や音楽や絵画やゲームや、あらゆる創作を愛するすべての人に当てはまることなのではないかと思う。日々に追われ、押し流されそうになりながら、それでも物語という遠い存在に触れると一瞬でも自分の生身の生活を忘れることができる。目まぐるしくままならない日々のなかで息継ぎをさせてくれるような存在だ。私にとっては。

「へえーーー そうかー 物語を全然必要としない人っていうのもおいでなんですよねえ~」

「…物語が『必要』ですか なぜ?」

(中略)

「…物語は いわばかくまってくれる友人でした 特に子供の頃には」

「かくまう…」

「ええ 初めての違う国に連れていってくれるような… いや まあ こんな話はややこしいんで いつか機会があればにしましょう」

「あ…はい あの…興味深いです …私にとっては勉強することが そういうものだったように思います」

違国日記 page.18(4巻99・100ページ)

今年もたくさんの物語が私の日々にあった。物語はエネルギーの塊でもあるので、本当に自分のメモリが限界までめいっぱいなときには何にも触れる元気が出ないのだが、それでもきっと無意識に息継ぎをしたいと思って、自分の一部として溶けきっている作品を見返し、また日々をやっていく元気を充電する。元気だったり気力というものはきっと充電式だ。なんとか日々をやっていくために、どうにか充電を切らさないよう努めている。

物語は生み出されなければ生まれないので、まさしく生み出した人のものである一方で、それを作品として誰かが受け取った瞬間から受け取った人のものにもなる。生み出した側と受け取った側の間に、物語が物語として独立して存在しているからこそ、凹凸がぴったりとはまるような出会いをしたときには「私のための」と思うのだろう。好きな物語、好きなシーン、好きな音楽、好きな言葉、そういう無数の私のための、私にとっての、と思えるものによって、私はかたちづくられている。

アヴァロン・ル・フェをプレイしてから、物語に触れるとは、物語を受け取るとはなんなのだろうということを考えてきた。確かに、触れた物語をすべて鮮明に覚えているわけではない。すべてを等しく同じだけの熱量でずっと愛していると言い切ることはできない。でも、と思う。でも、触れたときの楽しさやおもしろさ、衝撃や感情は確かにあった。私が触れてきたすべてによって私の価値観や感覚や感情はかたちづくられている。時間がたって触れなくなった物語のことも、確かに愛していた。いまは通り過ぎてしまった作品が、ずっと先の私にはどうしようもなく必要になるかもしれない。そんなの、物語というあなたからしたら、たまったものじゃないかもしれないけれど。

物語はすぐに覚めてしまう夢のようだ。物語に触れても、物語を愛しても、物語に救われたとしても、すぐに日々が変わることなんかない。それに受け取った側が勝手にそう思っているだけで、物語やその中の存在にとっては知ったこっちゃないことなのかもしれない。いや、そもそもそれを断ずることすら我々受け取る側には許されていないのかもしれない。それでも、夢のあとに清々しく目覚めることがあるように、私は物語に息継ぎをさせてもらいながら、ままならない日々に帰っていく。

物語は私たちを拒絶しない。いつでも近くにあって、やさしく寄り添い、私たちのどんな行いにも物言いをすることはない。いつでも一番近くにあり、いつでも一番、生身の私からとおい存在。その距離を尊重することと、その距離に甘えることは、何をどうすれば違うということができるのだろう。誠実であろうとし続けることしかできない。どんなときでも、何があっても、この隔たりを越えることはできないのだから、そうあろうと努めることしかできない。ままならない日々のなかで、自分のことすら置き去りにせざるをえない日々のなかで、誠実であろうという気持ちを貫き続けることは非常に困難だけれど、時にそれを忘れてしまっても、また思い出して立て直すことをきっとずっと忘れないから、それで多目に見てはもらえないだろうか。

こういうことすら、完全に一方通行の自己満足なのだけれど。それでも、形にすることそのものに意味が生まれると思いたい。奔流のように生まれては通り過ぎていく無数の物語に、泣いたり、笑ったり、心動かされてはまた新しい出会いに目を向けてはいっぱいいっぱいになったりするけれど、それでも人生という私の一本道の傍らにはいつだって、私の一部となっている物語があるから。

物語というあなたは、心に突き刺さったまま抜けない棘のようだ。ふとした瞬間にあなたの言葉を、あなたの秋の森を思い出しては、棘が刺さったままであることを確認する。消えていってしまうものも、通り過ぎてしまったものも、確かにここにあったのだと。だから、私が抱いた感情も感想も、確かにここにあったものなんだ。嘘でも、すべてがほんとうのことでなくても、私がそこから受け取ったものは、私にとっては確かにほんとうのものなんだよ。

私たちはきっとこの先もずっと、物語とのただしい距離のはかり方を探し続けるだろう。その答えが見つかることはない。誠実であろうとし続けることだけが、誠実だと言い切ることができない私たちにできる唯一のことだから。その試みを止めないということは、辛く、困難な道であるかもしれないけれど、それでも、私は私をかたちづくる物語たちにまっすぐ向き合える自分でいたいと、そう思う。

夢はいつか必ず終わる。目まぐるしくままならない、やっていくのが精一杯の日々を、私はこれからも生身のからだで生きていく。