基本的に壁打ち

長文たち Twitter→hisame_tc

植物みたいになりたい

あっという間に3月になってしまった。私は相変わらず、たいして変わり映えのしない日々を送っている。在宅勤務には随分と慣れた。メイクだけは毎朝必ずして、ウェブ会議のときだけ上半身をスウェットからある程度ちゃんとしたセーターやブラウスに着替えている。会社に行く服を着る機会がほぼ皆無になったので、今年の冬はクリーニング代が安くすみそうでうれしい。代わりに、近所に買い物に行くときの服に困ることが増えて、今年は外着と家着の中間みたいな、かわいくてらくちんで安い洋服をいろいろと買った。

逃げ場がないなあ、と思う。逃げ場がない。

人間はどんなことにも慣れていくので、在宅勤務のオンオフと、手の抜き方がうまくなった。仕事上でいろいろ思うところが生じても、まあしょうがないか、と流せる余裕を取り戻しつつある。その時はかーっと腹が立ったりするのだけど、しょうがない、しょうがないと唱えているとなんだかどうでもいいような気がしてくるので不思議だ。さほど腹を立てなければいけないことではない。低空飛行、省エネでいこう、と思うようにしている。仕事は果てがあるので、そうやって距離をとれるのだと思う。

2月、いろいろと重なって、鬱屈全開の文を書き散らしたまま放置していたのだが、なぜか右足の人さし指だけが腫れているので皮膚科に行ったらしもやけですねえと言われて、しもやけ!??!?となり、家にいてもしもやけになるんだ……と謎の感慨を抱くなどしていたらどうでもよくなってしまった。家にいてもしもやけにはなるらしいです。血行の悪さに起因するので、冷えが原因とのこと。今年多いんですよと先生が言っていたので、みんなも在宅で座りっぱなしだからしもやけになったりしてるのかな……と思ってしまった。私はもともと手足が割合冷たくて、なるべく暖かくしていようとしても、座っているとすぐに足先が死人のような色になってしまう。そのせいかあ、とわかるとなんとかせねばとも思うようになるようで、はっ!足が冷たい!と思ったときにはつま先立ちをしたり、ふくらはぎをもんだりして、生気を呼び戻すようにしている。つま先立ちで踵を上げ下げする運動、甘く見ていたが、これをやると瞬く間に血色が戻るのですごい。ふくらはぎが第二の心臓を名乗るのは伊達じゃないなと思った。

ついでに先生に泣きついたら、にきびの薬も出してもらえたので、肌の平穏を取り戻した。年明けからもう何をしてもどうにもならない状況が続き、やってられるかと半ば投げやりになっていたのだが、肌トラブルが少ないと精神も安定するのでやはり大事である。メイクという武装へのモチベーションも左右するし。薬がなくなったら面倒がらずにまた病院で出してもらおうと思う。

なんとかやっていけている。在宅勤務ができるのも、なんだかんだ生活を普通にやっていけているのも、ありがたいことだ。それでもこの閉塞感はなんなんだろう、と思う。生活をしていくということ。塵が積もっていくように、様々なことが積もり積もって、どこにも排出されないまま蓄積されていくような気がする。でもそんなのは誰にでも当たり前のことなのだった。そんなことを言っても仕方がない。

逃げ場がないなあ、と思う。でも、本当はそんなこともなくて、私が私の意志でそれを選ばないのだからそれは私に返ってくるべくして返ってくるものだとも思う。外界は変えられないのだから、自分で自分をうまく取りなしてやっていくしかない。仕事も、生活も、精神も、自分でうまく切り盛りしていくしかない。

しょうがない、しょうがない、と自分に言い聞かせながら、私はしのぶさんのことを思い浮かべる。しのぶさんがいてくれてよかったな、と思う。私が感情の起伏に振り回されるのは私が未熟だからだなと自分を顧みることができる。

去年の2月は仕事が地獄だったが、あの人が悪いというのが明確にあったからまだましだったかもしれない。慢性的に続くであろうこの先の数年。諦観と覚悟はどこか似ている。それでも生活をやっていかなければならない、という、それを諦観にするのか覚悟にするのかという、選択。一切周囲のことを考えずにネガティブを表出させられる人が心底うらやましい。私は絶対にそうはありたくない。でも、積み重なって振り回されて、そのたびにだめだなあと思う。私が未熟なのだ。そんなのは些細なことだと笑っていなせるようになりたい。だってそれを選んだのは自分なのだから。いつでも一定でいたい。機械のからだか、植物みたいな精神になりたい。