基本的に壁打ち

長文たち Twitter→hisame_tc

理想郷などなくても

2020年はあまりにも多くの出来事が起きた年だった。情勢的な意味でも、生活の範囲内という意味でも。あまりにも多くのことが変わり、変わってはそれに慣れて、そしていまも刻々と変わり続けている。私たちは、そういう日々のなかを生きている。

振り返れば今年はとくに、作品に触れて考えたそれぞれがふいに繋がる、そういう経験が多かったように思う。環境が変わり、考えるという行為の角度が多少なりとも変わったからかもしれない。

自分の人生に影響を与えるような出来事とは、いったいどれほどあるのだろう。それがどんなものかは人によって異なるだろうし、タイミングによってもなにを受け取るかは異なる。ある作品、人物、体験、それらとの最初の出会いががらりと自分の人生に影響を与えることもあれば、最初の出会いの時点では通り過ぎてしまったことに、あとから気づいていろいろなものを受け取ることだってある。そして、かつてなら抱いたであろう感慨を、この先ずっとうしなってしまうことだってあるだろう。

今だからわかること、今はまだわからないこと。運命はただ待つだけの者には訪れない。作品から何を受け取るかは、いつだって受け取り手次第だ。だからこそ、ふいにシナプスが繋がるような経験は、本当に得がたいものだと思う。

いつの間にか、もう師走だ。今年もいろいろなことがあった。はじめて大阪に行ったし、はじめてエヴァのコミカライズを読んだし、急に異動になったし、ハイキューと鬼滅は完結を迎えたし、MIU404をふまえて風に対する読解がまた深まったし、全親知らずを一気に抜いたし、ようやくオリュンポスをクリアした。リンボに間に合おうと思ってようやくオリュンポスに駆け込んだのに、平安京をやる前にクリスマスが始まることになってしまったが。仕事は今年も様々なジェットコースターがあった。

この文は、これまでに触れた様々な作品とその感想、そしてそれらをふまえて考えていることを書いている。そういうものなので、特定の作品にしぼった感想文ではなく、日記と感想の入り交じったようなものであることを申し添えておく。


6月に、日々に慣れていくという日記を書いたが、そこに至るまでには心のなかで紆余曲折があった。人には社会性というものがあるので、言うべきでないことは音にも文字にもすべきでないという自制はもちろん大いに働いていたが、 私は様々な事柄に心を乱され続け、寛容であると思っていた自分の 「寛容」は条件付きであることを知った。どうでもいい、そんなわけがない。だってこんな風に、見知らぬ誰かの、これまでだったらどうでもよかった振る舞いが、こんなにもダイレクトに自分に影響することなんてこれまでなかった。結局、私が自分のことを「大抵のことがどうでもいいから気にならない」と思えていたのは、その振る舞いや動向の影響が自分に及ぶことはないから、というだけなのだった。

それでも、どんなに窮屈でも、不満があっても、現状から抜け出したくても、どこまでいっても私は社会というものから逃れられない。広い意味の社会全体からも、 共同体という狭い意味の社会からも。他者と生きていくしかない。人は違うからだで生きていくしかないのだから。

そりゃあ、人類補完計画とかシンみたいに、「個」という概念がそもそも消えればこんなこと(こんなこと、というのはあらゆるものを指す。念のため)にはならないだろう。ほとんどの問題は解決、ないしは初めから発生すらしないはずだ。それはある意味では理想郷なのだと思う。すべてが統合された、全員が同じ方向を向いている世界。でも、そんなものはどこにもないし、ありえない。だからこそ、フィクションにおける普遍的なテーマでもあるのだろう。

もし、個というものがなければ、あるいはそれらが画一的なものであるなら、イレギュラーは常に生まれないだろう。それは意図したとおりに機能するプログラムのようなものであって、 閉じた世界だ。発展は「足りない」というある種のイレギュラーゆえに起こるのに。完璧などというものは現実には存在しないのに。

だから、私たちは絶対に理想郷に至れない。誰とも同じになれないからだで、他者と共に生きていくしかないから。いつだって「足りない」のその先を求めてしまうから。

 

日々の生活は地続きであるなかで、特定の事象に対する苛烈な感情を抱き続けることは困難だ。私は自分が寛容でないことを心底思い知ったが、またこれが日常となってしまえば、寛容さを特段苦労もなく取り戻すのだった。でも、だからといって私は私の不寛容をなかったことにはできないし、そういう一面があるのだということを忘れてはいけないとも思う。人でも作品でも事象でも概念でも、出会ったもの、考えたこと、それら全てが自分をかたちづくる以上は。

同じ作品に触れたとき、人によって感想のあり方が違うことを非常におもしろいと思っている。当然ではあるのだが、その作品の何が琴線に触れるのか、どういった部分が響くのか、それらは唯一無二だ。ある作品に触れたことで、別の作品に対する新たな感想が想起されることもある。そうやってまた少しずつ、自分がかたちづくられていく。

琴線に触れるということは、意識的であれ無意識的であれ、その部分になにかしら引っ掛かるものがあるということなのだと思う。勿論、なにかに触れることで、ふいに自分の視界が開けるような、解像度がぐっと上がるような、そういう経験をすることはある。それでも、自分のなかにそれを受けとるセンサーのようなものがなければ、自分には関係のないものと最初から切り捨ててしまえば、それらが響くことは非常に稀だ。

MIU404では、そういうきっかけというものをスイッチとして描いていた。きっかけ、スイッチ、それら自分の人生の方向性とあり方を少しずつ決定するものは、人かもしれないし、事象かもしれないし、作品かもしれない。私にはいま思い至らないものが、誰かにとっては非常に大きな、劇的なスイッチになるかもしれない。同時に、私も自分が知らないうちに、誰かの何かのスイッチになっているのかもしれない。望む・望まざるにかかわらず、他者と生きていくというのはそういうことだ。

他者と生きていくということは、同時に自分自身を見つめなければいけないということだと思う。これは私がこうありたいと思うものであって、人にこうせよと言うために書いているものではないのだが、感情の起伏には自覚的であるべきなのだ。常に戻るべきニュートラルを見失わず、言葉を尽くしたコミュニケーションを怠らず。日々刻一刻と変わり続ける世になってしまったからこそ、自分がそういう日々のなかで何を思い何を考えているのかということだけは、自覚的に意識していたいと思うし、そうであるべきだと思う。

不寛容さも、怒りも、苛立ちも、鈍感さも。望ましくない部分を切り捨てていくだけできれいなものだけを残すことができればどんなに簡単だろうと思っても、そんなことができるはずもない。望ましくない部分もうつくしくない部分も自分であるのだから、それらを受け入れて胸に抱きながら、それでもそういう部分を少しでも変えていけるよう、そうやって小さな試行錯誤を繰り返し続ける以外にないのだ。

 

どんなに他者の存在を疎ましく思っても、日々にさまざまな喜びや楽しみを感じるのも、他者の存在あってこそだ。たのしいだけではない、かなしいだけではない、しあわせなだけではない、つらいだけではない。いろいろなことがある、ただ一度きりの「今」を積み重ねて、私たちは日々を送っている。

私は「思い出なんかいらん」という稲荷崎の横断幕を本当にすごいと思っていて、そしてそれに気づけたのは初読時ではなく、仕事が大変なことになっていたときだったり、様々なストレスに振り回されていたときだった。私が本当の意味で、この言葉を自分のものとして受け取れたのはそういうタイミングだった。「思い出」ではない、すべてが今の自分につながっていて、ひとつひとつの今を積み重ねて、そうした営みが少しでもよりよい明日を迎えることに繋がっていくのだと……そういう、人生において大切な言葉のひとつになった。

誰とも同じになれないからだで、それなのに単体で生きていくことはできない、そういう不完全な存在でも、完全に他者を理解することは不可能でも、それでも自分自身を見つめる営みは、そして他者を理解しようとする営みは決して無駄ではない。他者と生きるということは決してよろこびだけをもたらすものではないが、それでも、だからこそそのなかで生み出されるものがある。

運命とは、という話は以前も書いたが、なにかひとつでも違えばそういうめぐりあわせは生まれないだろう。人との出会いも、作品との出会いも、音楽との出会いも。

人は、社会は、世界は、いつだって必ず不完全だ。だからこそ、いつでも今より先を夢見ている。そうして前進していく、前進していこうとする営みこそが、少しずつでも世界を変えていく原動力だ。だからどんなときでも、私たちが生きるこの日々はどうしようもなくて、そして同じ分だけうつくしくもあるのだと思う。

色々と考えをめぐらせたところで、結局個人にできることは本当に些細なことだけだ。でも、そういう自分の手の届く範囲のことを淡々と粛々とやり、一対一のコミュニケーションをやっていくということが、自分の生活、ひいては人生というものをかたちづくっていく。

理想郷、完璧、完全、そんなものなんてどこにもないけれど、今日もこの日々を生きていく。意味なんてないかもしれなくても、それでも、少しでもよりよい明日を迎えられるように。蝶のはばたきのように、めぐりめぐってあらゆることに関係していくかもしれないから。

理想郷などなくても。それでも、だからこそ。そうして生きていく。そうして、生きていきたい。いろいろなことをふまえていろいろなことを考えた、2020年の覚え書きである。