基本的に壁打ち

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慣れるということ

人間というのは、慣れるいきものである。私たちはどんなことにも、遅かれ早かれ、多かれ少なかれ、慣れてしまう。一気にはじけるような、燃え上がるような熱量と温度の感情の質感を保つことは大変に難しく、少しずつ、感情の起伏はニュートラルに収束していく。それがよいことか、わるいことかというのは、境遇や対象や人によって全く異なるものだから、それを画一的に定めることはだれにもできない。ただ、生きていくにあたってどうしたってお腹がすくことと同じく、私たちはあらゆるものに慣れていくのだと思う。

私は、4月初旬にはあんなに在宅勤務を嫌悪していて、様々なことが重なって精神的にも相当参っていて、一刻も早くフル出勤に戻りたいと思っていたのに、やはり2か月もたつとあっさりこういった生活に慣れてしまった。基本的に、すべてのことがどうでもいいのだ。強く抗うほどの、そのことによる苦労や大変な経験を気にも留めないほどの、そういう強い動機とか、熱量がない。万事に対して、「こういうもの」だというのならそういうものなんでしょう、と思ってしまう、そういう性格をしている。

6月になってからは時折出勤する日がある、という程度で、在宅と出勤が6対4くらいの比率になった。出勤すればやはり比べ物にならないほど仕事はしやすいし、上司たちの会話を横で聞いて水面下で進行していることの情報収集ができるのは生身の良さだと思う。人とお昼を食べるといろいろな話を聞けて楽しいし、少し振り返って相談すればこまごまとした確認はそれで済んでしまうのは大変にありがたい。机と椅子は快適だし、思い立ったときに印刷ができる。

他方、もとより買い物が好きで、せめてもの快適さを追い求めた結果、在宅勤務でもさほど不自由なくこなせる環境が整ってしまった。こんな事態にならなければ、私はずっとワイヤレスのイヤホンは買わなかったと思うし、パソコンで議事録をとろうとは思わなかっただろうし、言われてみればもう何年も気になっていたポメラを買うこともなかっただろう。縁がなければ知らないままだった便利なものがこの世にはたくさんあって、それを使うか使わないかは、まず体験してみなければ決める前提にすら立てない。生活の場が侵されているという気持ちは未だにあるが、それはさっさと社用パソコンを閉じてしまえばいいだけの話だ。

これから、生活の在り方が移り変わっていくことは、誰の目にも明らかになった。もはや、世界は変わることを止められないのです、という会議での発言がずっと耳に残っている。実際、仲の良い友人たちは在宅勤務のほうが楽という話をしていて、物事には必ずよい面とわるい面があるように、どちらが良くて悪いかということはない。私だって、さんざん文句を言いながら、家からでなくていいという安心を享受していた。おそらく彼女たちの感想も、私のような感想も、どちらが珍しいということもないのだと思う。できるかできないかということ、好きか嫌いかということ、適しているか適していないかということ、それぞれの尺度があるので複雑だ。一応、在宅勤務はできているけれど好きではなくて、適しているわけでもないがどうにかならないわけでもない、とか、私の主観と状況はそういうことになるのだと思う。

フル出勤の方が自分には合っているなあとは思うが、時期が時期なので、私のぼんやりとした感情だけで毎日出勤するわけにもいかない。結果、毎日異なった時間に起きて毎日異なった状況で仕事をすることになり、家を混乱させている。家にいる日、いない日、朝早い日、お昼を食べてから出勤する日、残業で夜遅い日、午後はずっと会議をしている日、傍聴だけでミュートだから気にしないでいい日。申し訳ないが、仕方ない。私ですらこんな状況なので、大変な日々を送っている人々は本当に大変だと思う。

積極的にそれを選択することと、それを選択せざるを得ないことは、全く違う。早く平時に戻ればいいのに、といつも思っているけれど、そんな日はいつくるのだろう、とも思う。きっとこの先、あるいはすでに、様々な生活の在り方が目に見えるようになっていく。それはもうとっくにそうだった、誰の生活もいつだって同じものは全くなかったけれど、これからそれが目に見れる形で立ち現れてくるのだろう。そのとき、他者の選択をどうこう言う権利は誰にもないのだということを忘れずにいたい。いま、例えば仕事のやり方について、他人が在宅でもサテライトオフィスでもオフィスでもどこでもどうでもいい、と思っているけれど、この先切羽詰まったときですらも、そういう余裕をどうか持っていたいものだと思う。

どんなときにもお腹がすくように、私は買い物をして、娯楽に触れて、それなりに日々を今まで通り楽しく過ごしている。うかがうように少しずつ外出をして、気兼ねなく旅行に行ける日を待っている。私は化粧をして、仕事をして、食事をして、眠くてたまらないからだを引きずってお風呂に入り、眠る。私たちは慣れていく。慣れと日々の延長線上にしか、生活は存在しえない。