基本的に壁打ち

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彼の話

Fate/Grand Order Cosmos in the Lostbelt No.5 神代巨神海洋アトランティスの話をします。絶海突破前の方はご注意ください。

 

 

昨日、アトランティスをクリアした。すごくおもしろくて、たくさん笑って、たくさん泣いた。終えるのがもったいないから読み終わりたくないのに早く先を読みたくて、すごくわくわくして、みんな本当にかっこよかった。加えて私は離別のオタクを自覚していつの間にか7年目になっており、永遠と一瞬、様々な愛、出会いと別れ、祈りとエール、そういうものが本当に大好きなのでそういう点でもめちゃくちゃに刺さり、本当に本当におもしろかった。この先どうなるのかなあとか、早く読みたいなあ!とか、イメソンとか(Aqua Timezの「GRAVITY 0」がめちゃめちゃにアトランティスなのでよろしくお願いします)を考えたりしている、というか、していたんですよ。今朝はまだ。

 

一晩明けて、ようやく少し落ち着いて、いつの間にか私は、彼のことばかりを考えている。

マンドリカルドくんは登場シーンからすでにかわいくて、ちょっとお茶目で、親しみやすさがあって、私はすぐにマンドリカルドくんのことが大好きになった。

マンドリカルドくんはマスターのことを友達だって言ってくれた。ただ一緒にいてくれたり、話を聞いてくれたり、励ましてくれたり、強く背中を押してくれた。マンドリカルドくんと一緒に進むアトランティスの旅路は本当に楽しかった。

でも、彼は友達だけど、それ以前に彼は確かに英雄だった。英霊だけど友達だった、それと同じだけ、彼は友達だけど英雄だったのだ。

自分がこんなふうになるなんて思っていなかった。私はマンドリカルドくんのことが大好きで、そんなことは当然わかっていて、それなのに、彼がいってしまってからようやく、本当に彼のことがすきだったのだと、どうしようもないほどに自覚してしまった。

彼の笑顔を思い出してしまう。

友達と言ってくれて嬉しかった、一緒に旅ができて楽しかった、支えてくれて守ってくれて心強かった、でも、友達でも、その前に彼はやっぱり英雄だった。本当は、英雄じゃなくてもいいから、最高の騎士にならなくてもいいから、最後まで一緒にいてほしかった。一緒にオリュンポスでも旅をしたかったよ。またみんなでわいわいしながら、あぶねーって言いながら一緒に戦いたかった。

でも、でもね、そんなマンドリカルドくんだから好きになったんだよ。

 

これまでいろんな出会いと別れがあった。離別は物語の根底に流れるテーマのひとつだということもわかっていたし、そうやって英雄たちの無数のエールに背中を押されて、それでも私たち生者はまえへ向かって生きていくのだと、そういうことをメインシナリオを進めるたびにいつも思っている。

私たちは生きていく。でも、あなたはもうどこにもいない。マンドリカルドくんにこの先また出会うことはあるかもしれないけれど、私が好きになったあなたはもういなくなってしまった。

シャルロット・コルデーの、血を吐くような、身を切るような、溺れるような初恋の吐露に、私はたくさん泣いてしまった。私は自分がこんなふうになるなんて思っていなかった。だってこんなの、こんな、失恋以外の何物でもないじゃないか。

 

彼の笑顔を思い出してしまう。でも、彼の背中を思い出さなくていいことに、私は少しほっとしている。

今でもマシュの背中を忘れられないけれど、マシュはいまを生きる人間だ。英霊じゃない。マシュは私たちと一緒に生きていく。

マンドリカルドくんは本当にかっこよくて、かわいくて、親しみやすくて、きっと誰でもすぐに大好きになる。寄り添ってくれて、いてくれるだけで心強くて、私は彼が大好きだ。大好きだった。大好きだったのだ。こんなにも。

 

2020年になったら、マンドリカルドはフレポガチャの対象に入るのだそうだ。マンドリカルドくんにまた会いたいけれど、会いたいのがマンドリカルドくんなのかわからない。私はきっと、彼のことを思い出してしまう。あの笑顔を思い出してしまう。でも、それはマンドリカルドくんに対しても彼に対しても失礼だと思うから、私ができることはガチャを回さないことくらいしかない。でも、だからといってそれが何になるというのだろう。ままならない。どうしようもない。どうすることもできないなあ。

 

私はマンドリカルドくんのことが大好きだ。どうすることもできなくても、物語は続いていく。英雄たちの祈りに背中を押されながら、私たちはこれからも進んでいく。彼は確かに、英霊だけど友達だった。友達だったけれど、それより前に英雄だった。彼もまた彼女みたいに、覚えていてほしいと、忘れないでいてくれと思っていてくれたならどんなによかっただろう。

彼はただ、どこまでも私の友達で、ひとりの誇り高い英雄だった。

そんな彼だから、大好きになったのだ。これは彼の話。ただの友達の話。だから私は、せめて誠実であろうとしながら、彼のことをずっと覚えていようと思う。

 

一番身近な魔法 ―「だから私はメイクする」感想

去年の8月、社会人2年目、2回目の海外出張。記念として自分へのおみやげに、免税店でアイシャドウを買った。CHANELのレ キャトル オンブル。一緒に行った上司はそういうの何か言ってきそうな人だったので、職場のみんなへのおみやげ買ってくるからゆっくりしててください!30分くらいで戻ります!と言ってラウンジに置き去り、おみやげのお菓子を確保してから、少し緊張しつつ足を踏み入れたのを覚えている。完全に無知だったせいで、日本円支払いにしてしまいかえって高くついたことまであわせて、すごくいい思い出。

劇団雌猫さんの「だから私はメイクする」を読み始めて、最初によぎったのはそのときのことだった。

だから私はメイクする 悪友たちの美意識調査

だから私はメイクする 悪友たちの美意識調査

 

 

メイクするのは楽しい。私は顔がうっすいので、裸眼ならフレームがしっかりした眼鏡・コンタクトならメイクの完全な二択で、アイメイクをやればやるほど目が大きくなるのでメイクのしがいがめちゃめちゃある。部活の甲斐あって成人式のとき人生で一番痩せていたので最高に盛れた写真が撮れた。プロの技は本当にすごい。

出掛けるときには必ずメイクするけれど、なんのためにメイクするのかということを改めて考えたことはなかった。私はどうしてメイクするのか。視力検査の一番上が裸眼では全く判別できない視力なので、家で眼鏡をかけている顔とコンタクトをしてメイクをしている顔が自分の顔という認識だから。コンタクトを入れたら必ずメイクするので、もはやコンタクト+すっぴんはしっくりこない。あと、シンプルにメイクをした自分の顔が好き。メイクの行程で自分の顔になっていくのはやっていて楽しいし、満足感もある。

でも、それはただの理由で、動機とはまた違うような気がした。「メイク」という私たちの生活の一部、ひいては人生の一部になっていることの捉え方・向き合い方は寄稿ごとに本当に違っていて、人それぞれで、みんないろんなことを考えながら生きているんだなあとそんな当然のことを思う。そうして、わかる!となる部分やそういう人もいるのか~となる部分の両方に頷きつつ、頭の片隅で私にとってメイクってなんなのかなあとぼんやり考えながら読み進めていたところ。私は「デパートの販売員だった女」を読んで思わず泣いてしまった。

 


母が働いていたころの同僚に、普段はナチュラルメイクだけど今日は言うぞという日にはがっつりメイクをする人がいたらしい。その人が戦化粧と言っていた、という母の話をなんだかずっと覚えている。

大学に入るまで、メイクなんてやったことも関心もたいしてなかった。大学生から眼鏡をコンタクトに変え、メイクもするようになったけれど、どうせ汗ですべて流れてしまうからとそこまでのモチベーションもなかった。コンタクトになると眼鏡さえあれば顔!となっていたときのようにはいかず(眼鏡は顔の一部とは本当になんて真理をとらえた言葉なんだろうと思う)、合宿の日もへろへろになりながら起きだして眉と口紅だけはなんとかやっていた。それもお昼を待たずにどこかに行ってしまっていたけれど。

部活を引退し、会社に入ってようやくちゃんと髪を巻くようになった。道着もグローブも持たなくてよくなり、代わりに通勤用のバッグを持って、ジャケットが合うきれいな格好を日常的にするようになると、なんとなくメイクや洋服もちゃんとしたくなる。もともとキラキラしたものが好きで、アクセサリーや雑貨を見るのが好きな私が、化粧品を見るのが好きではないわけがなかった。

髪がうまくいかなくて、メイクが薄いとなんとなくテンションが下がる。ばっちりいい感じにメイクができて、髪もちゃんときれいに内巻きにできると、今日も一日がんばろうという気持ちになる。思えば大会の日はいつもより念入りにメイクをして、濃い色の口紅をしていた。今も、上司と戦うときや気が重い電話の前にはメイクをなおし、口紅を塗りなおして気合を入れる。

私はどうしてメイクをするのか。私にとってのメイクは、気持ちを切り替えるスイッチのようなものなのかもしれないと思った。仕事の日は、仕事モードに移行しながら。お出かけの日は、わくわくしながら。なめられたら負けるというときは、自分で自分に気合を入れなおしながら。メイクをする時間を通して、私はその先のものへ向かうための準備をしている。

ファッションも同じで、やっぱり私は強気で行きたい打ち合わせや会議がある日にはかかとの高い強そうな靴を選んでしまう。友達と久しぶりに会う日の前日には、通勤着とは比べ物にならないほど服をとっかえひっかえして悩む。そうやって、よし!と思える自分で家を出ると、姿勢もしゃんとする気がする。

一番最後、劇団雌猫さん4人の座談会の中で出てきた「ファッションやメイクを選ぶって、なりたい自分を作っていくこと」という部分に、それだ、と思った。自分の力でなりたい自分に近づくことができるって、すごいことだと思う。

 

書籍を捨てられない女なので雑誌を買う習慣がなく、美容院で読む程度だったのが、Pinterestをインストールしてから物欲が爆発している。服もほしいし、靴もほしいし、コスメもほしい。基本的にちょろいので服と靴以外はおすすめされるとすぐにほしくなってしまう(スタバにあったかい飲み物を買いに行ったのに、期間限定のフラペチーノをおすすめされてまんまと頼んでしまうことがよくある)。服と靴は試着してみて自分がしっくりこなかったらしっくりこないのでどちらかといえば意思は固めなのだが、代わりにしっくりくるとこれは出会い!!!と即決しがちで、この間もそれで靴2足一気に買ってしまった。幸せ。大満足。

おしゃれをするのは楽しい。毎年盛大に誕生日を祝い合っている友人から今年はチークをプレゼントにもらった。人から見たらそこまで変わらないのかもしれないけど、やっぱりテンションが上がるし、つけるだけで嬉しくなる。自分のものを探すのも楽しいし、もらうのも嬉しいし、人にあげるものを選ぶのも楽しい。おしゃれしてデパートに行くと、それだけでテンションが上がる。やっぱり仕事帰りのよろっとした姿や、近所のスーパーに行くときの楽な服ではなく、そういう気分にあった格好で行ったほうが、全力で楽しめる。出かける準備をしているときから、もうお出かけは始まっているのだと思う。

 

就活のスーツや、ハイヒール論争はなかなか絶えない。私はハイヒールが好きだけど、タイトスカートが絶望的に似合わない。タイトスカートである意味がどこに!?絶対フレアのスーツの方が素敵な私をお見せできるからな!?と就活中いつも思っていた。

そのシチュエーションにあった装いというものはどうしたってあるにしろ、その範囲内から外れなければなんだっていいはずなのに、と思う。例えば結婚式に白を着ないとか、不幸の際に真珠以外をつけないとか、そういうものは社会で他人と生きている以上どうしたってやっぱりある。でも、そうではない、本当はどちらでもいいのにという場面なら、タイトでもフレアでも、パンツスーツでも、黒でも紺でも、ハイヒールでもフラットでもいいはずだ。ハイヒールが労災かどうかを画一的に決めるより、TPOに沿った装いの範囲内であればどっちでも、なんでもいいよという幅の広さが生まれればいいのに。と、おしゃれという自由を考えるのにあわせて、そんなことも思ったりした。

 

つらつらと書いてきたけれど、常に美容の意識が高いわけでもないし、メイクがめちゃめちゃうまいわけでもないし、すごくスタイルがいいわけでもない。でも、上手い・下手とか他人の視線に一切関係なく、ただただ主観的に楽しめる、もっと言えばする・しないも自分で決められるのがおしゃれの素敵なところだと思う。

生理前や繁忙期は目に見える速度で肌が荒れていくので半ば諦めモードだったのだが、救世主・オードムーゲのふき取り化粧水に出会ってからなんとか持ち直し、肌荒れと復調の波も小さくなりつつある、と信じたい。成功体験があると一気にモチベーションが上がるというのは、やはりどんなことにも共通するもので、これで肌がきれいになるのでは……!?と思えるとスキンケアにもメイクにも俄然やる気が出る。もったいなくてまだ使えていない、冒頭に書いたアイシャドウをいつおろそうか、先の予定を見ながら考えるのが楽しい。

生きているだけで痩せたい、とよく言っていたのだがさすがにそんな甘っちょろいことを言っていられる状態ではなくなってしまったので、6月の終わりからキックボクシングに通い始めた。さんざん三日坊主を繰り返してきたが、今回のダイエットはなんとか続けられている。この調子で引き続きがんばりたい。目標はまだまだ先なので……。

ジムとかホットヨガとか色々調べてはみたけれど、部活があったおかげでキックボクシングの方が私にとってはよほどハードルが低かった。ストレス発散になるし、ミット打ち・蹴りだけだから痛くないし、足のむくみもずいぶんよくなり、毎回めちゃくちゃ楽しい。部活ではスパーリングでボコボコにされていたからむしろ苦手な練習で、荷物になるからといつも備品を借りてついぞ自分用は買わなかったのに。人生とはおもしろいもので、何がどこでどう繋がるかわからない。働き始めて3年目、通勤バッグの反対側、サブバッグの一番下にはグローブが潜んでいる。

光ある人生・中編 ―「風が強く吹いている」感想

時間があいてしまいましたが、「風が強く吹いている」感想文・中編です。7話~13話の話を中心にしています。

前編はこちら。

 

■見ようとすれば見えるもの

箱根を目指すことを決め、7話からは実際に公認記録というハードルを越えるための戦いが始まります。はじめて参加する記録会に浮足立つ彼らにとって、箱根駅伝はまだぼんやりとした曖昧な目標でした。しかし、実際にレースに出たことでようやく蜃気楼のような目標は現実味を増します。一方、走はそれがどういうことかをわかっているだけにみんなの悠長さに焦り苛立ちますが、9話冒頭で清瀬が言及したように、それは箱根駅伝出場という目標を本気で考えていることの裏返しでもあります。

8話において、ニコチャンは自分から走に内心を打ち明けました。記録会で訪れたグラウンドで懐かしそうな表情で空気を吸い込み、数年ぶりにスタートする瞬間の感覚を味わって、彼は自分が捨てたものともう一度正面から向き合い始める。自分の体格が長距離に不向きであること、積み重なった日々の不摂生をわかっているから、みんなに隠れて食事制限を始めます。

感想・前編でも書きましたが、ユキはニコチャンをよく見ているから、ニコチャンが無理をしていることに気付いているんですよね。そしてそれを清瀬にも伝えている。清瀬もまた住人たちのことをよく見ているから、ニコチャンが一番いなさそうな場所にいることを見抜き、そして見つけ出してお花畑で彼を追いかけるわけです。

彼らはお互いに相手をよく見ているからこそ、様々なことに気づきます。ニコチャンもまた、清瀬とユキのことをよく見ています。「相手をよく見ているから気づく」ということは、言い換えれば「よく見ていれば気づける」ということです。竹青荘に入居したときからずっと一緒に生活している彼らのように、すでに関係性の基盤が強固な人々にとって、これはしばしば意識するまでもなくいつの間にかクリアされている命題です。しかし同時に、見ようとしない者、あるいは向き合い方がわからない者にとっては、この命題は目の前に立ちはだかる大きな壁となりえます。

ではどうするのかというと、非常にシンプルで、まずは相手を見ようとするだけでよいのです。今までは気づけなかったとしても、相手を見ようとすればそれだけで変わるものがある。相手を見ようとすることではじめて、気づけるようになるのです。8話「危険人物」、9話「ふぞろいの選手たち」、10話「僕たちの速度」で描かれていたのはまさにこのプロセスでした。

7話の記録会を経て、8話では反省会をはじめ様々な場面で口々に「チームっていいよね」という話をします。走は焦るばかりで周りが見えず、隈ができるほど自分のことも見えていない。そんな状況でタイムが伸びるわけもなく、葉菜子や王子に八つ当たり同然に苛立ちをぶつけてしまいます。その最たるものが8話ラストの、もし次の記録会も同じような成績だったらメンバーから外れてほしいというものでした。そしてよりにもよって、そこで「お願いします。チームのために」と言う。走がチームという言葉を発するのは、唯一この場面です。

みんなが口々に話す「チーム」は仲間や繋がり、同志、一体感といった意味合いであるのに対し、走のいう「チーム」とは名ばかりの建前、あるいは口実です。10人しかいない、誰が欠けても成立しない彼らというチームにおける「チームのためにメンバーから外れてほしい」なんて、あまりにも最悪すぎる。「チーム」という言葉の使い方が本当にずるい。しかし、それが走がこれまで身を置いてきた「チーム」というものだったのだと思います。実際、13話の回想では監督が「おまえが抜けてもチームはなんとかなる」と言っていましたし、走にとってはそういうものなんですよね。9人の口にするチームがどういうものかということ、走にとってのチームがどういうものかということ。その断絶が、この台詞で痛いほどにわかる。本当にすごい台詞、そして言葉のチョイスだと思います。

ここに至るまで走は速さばかりを追い求めているかのような発言をしていますが、裏を返せばそれはこれまで走が、スピードという価値基準以外が認められないなかにいたということです。13話で明かされた高校時代のように、そんな狭い世界で生きてきたから、みんなの努力を正面から受け止められない。違う尺度を認められない走に対して、9話で清瀬は「止まれ。そして景色を見ろ。それからゆっくり走り出せばいい。王子や、ニコチャン先輩がそうであるように」と声をかけます。止まった状態からしか、一歩を踏み出すことはできないのです。

そうして迎えた記録会で、精一杯全力で走るみんなの姿をようやく見つめることができた。これまでの走は、いつも先頭を走っているからまわりに人がいないし、誰もいない前しか見ていないから他人の考えていることがわからない、という状態でした。トラックの外からみんなの姿を見れば、誰もが真剣に走ることと向き合っていることがわかる。見ようとすれば、相手の姿がちゃんと見える。7話の記録会で走が体感した藤岡の強さを思い出すのは、藤岡も自分も彼らも同じだと気づいたということであり、走のなかで様々な尺度の強さがあるというシナプスが繋がりはじめたということでもあるのだと思います。

9話のタイトル「ふぞろいの選手たち」はドラマ「ふぞろいの林檎たち」のオマージュかと思います。「ふぞろいの林檎」が指す意味と同じく、前半では「長距離選手としての規格に当てはまらない落ちこぼれの彼ら」がタイトルの意味するところなのだろうと考えられます。しかし後半の彼らの姿を通じて、そこに「一律でなくてまちまちでも、同じ選手である彼ら」という意味合いが加わる。この回を見終わって全体を振り返ったとき、ネガティブからポジティブへとがらりと意味合いが変わるのが、本当にすごいタイトル設定だと思います。

これまで9:1や8:1:1の構図が多かった10人ですが、9話の帰り道でははじめて分断されることなく歩いていました。応援があるということの心強さを感じるムサの描写は、2区へと続く描写でもありましたね。「根はいいやつなんだよ」と走の頭をわしゃわしゃして間を取り持ってくれるニコチャン、とても年長者で……先輩……!!となるし……。

走が自分の内側から沸き上がるなにかに駆り立てられるように、必死にみんなの名前を呼んでいたということは、走がようやくちゃんとみんなの姿を見ようとした、正面から見始めたということです。そうしてようやくみんなが前進しはじめる……かと思いきや、清瀬が過労で倒れてしまう。わかっている身で見ているので、こ、この切り方ーー!!!!くらいで済みましたが、アニメ初見の方々の心臓に大変悪かったんじゃないでしょうか……こぼれた炒飯……

これまで清瀬を中心に動いていた彼らは、清瀬の過労をきっかけに自発的に動くようになります。色紙のコメント、それぞれのキャラクターがよく出ていましたよね。10話は、手を合わせる大家さんとそれに対する走と王子の「それじゃ死んだみたいじゃないですか!!」のシンクロ、我々の期待を裏切らない王子の「知らないのか……!?『だが断る』を」など、笑いどころもたくさんでした。

走と王子の関係性の変化の皮切りとなったのは、王子の「じゃあ、僕の速度で、話してよ」という一言で、これ以降二人の会話が増えていきます。私は特に二人の「漫画は逃げません」「鮮度が命なの!」というやり取りが好きです。わかる、鮮度は確かにあるんだよな……。犠牲者多数の葉菜子の料理に対して走と王子だけけろっとして「おいしいです」とはもっているところもかわいかった。走と王子が割とシンクロしているの、その部分だけ見るとただただ楽しかったりかわいかったりするのだけど、後半のページをめくる速度のシンクロへの布石なのかなと思うと……!一緒に生活しているということなんだよなあ……!!

先ほど、相手を見ようとすればそれだけで変わるものがある、相手を見ようとしてはじめて気づけるようになる、ということを書きましたが、清瀬は「向こうはきっと見てたと思うぞ。いつこっちを向くんだろうって」「みんながおまえの後ろを走ってるんだ。走が振り向かない限り、その位置からみんなが見えることはない」と言って、走にそのことを指摘します。

いつも先頭を走っているから、自分が目を向けない限りみんなの様子が見えることはない。けれど、それはただ見ようとするだけで見えるようになる。見ていなかっただけで最初からそこにある、とても簡単なことなのです。

「前髪上げると、見えるもんだね、前が」

「はい!」

「何を見てたんだ? 今まで」

 

アニメ『風が強く吹いている』第10話「僕たちの速度」

見ているのは相手に関心があるから。見ようとするのは相手を知りたいと思うから。ただそれだけ、意識の方向ともいえる視線を向けるだけで、関係性は変わり始めます。視線というコミュニケーションも、会話というコミュニケーションも、相手を知りたい、相手に自分を知ってほしいという気持ちから動き出します。両者がおたがいに向かい合い、歩み寄ることで、ようやく関係は構築されるのだと思います。

記録会で好タイムを出しそうだった走は、減速しながら王子に「前!!」と檄を飛ばしました。これは以前の走だったら考えられないことで、二人の歩み寄りをじっと見守っていた清瀬は、その変化にストップウォッチを握りしめる。並走しながら走は王子を見ているけれど、王子は走を見ない。見ているのは前だけ。

王子の言う「僕の速度」とはつまり王子の価値観であり、走の価値観とは全く異なる、というより、誰もが異なった価値観を持って生きています。価値観や認識のすり合わせは、楽器のチューニングに似ているなあと私は思っています。(音楽はまったく門外漢なのでコンサートの冒頭のイメージで話しています)それぞれの楽器の特性があり、音程は同じでも音は全く違うけれど、音程を合わせてひとつの演奏を一緒に作り上げる。人間もきっと同じで、相手と向かい合い、言葉や感情や態度や、いろいろなものを尽くしたコミュニケーションを経ることで、ようやく人と人は関係を構築することができるのではないでしょうか。

衝突とわだかまりの氷解、そして関係の構築。彼らの速度がようやく揃い始める、そういう10話のタイトルが「僕たちの速度」であるのが、また本当に見事だなあと思うのです。

 

■向き合うこと、進み始めるということ

さて、本作の一番の核とも言える「強さとは何か」という問いが満を持して投げ掛けられるのが11話でした。小説においてもアニメにおいても、「長距離選手に対する一番の褒め言葉はなんだかわかるか」「速い、ですか」「いや。『強い』だ」のやり取りは最も重要な箇所のひとつでしょう。

感想・前編にて、「強さ」とは同じものの存在しない無数の価値観を貫く普遍的な価値観、あるいは永遠に答えの出ない問いであると書きました。「強さ」に答えはなく、人によってその定義もかたちも異なる。これまで速さという画一的な価値観のなかに身を置いていた走が、強さとは絶対的なものではなく、様々な尺度を持つものであることに気づき始めたのは9話の記録会、仲間たちの走りを見たときです。11話ではそこから先へ進み、走りに収まらない、人としての様々な強さというものが描かれていました。

後援会募集運動、キングとのやりとりをはじめとして、神童はいつでも一貫して自分のやるべきことをしていました。11話にて、ホームページを立ち上げつつユキ、走と色々な話をするシーンは、彼の人となりがよく表れている場面だなあと思っています。

「このチームは神童さんがいなかったら始まらなかったし、続けられてもいません。強いです、神童さん」

(略)

「僕は、強くなんかないよ。ただやるだけ。何があっても」

 

第11話「こぼれる雫」

これは自分が大学生活を経たことで得た気づきなのですが、神童は唯一の3年生なんですよね。竹青荘で唯一同学年がいなくて(ニコチャンは先輩なので)、それがよりにもよって3年で、神童さんという。そう思うといろんなことがああ~~そういう……だから……となる……この話は17話のところでします。

ハッとなって「お茶を淹れてきます!」と言う走に対してユキが「やっと社会性が身に付いてきたか」と言いますが、このシーンを見て、清瀬と走が台所で行うやりとりの傍らに置かれている炊飯器は社会性、というか人と一緒に生きるということの象徴なのかなあと思いました。生きることは食べること、というのが持論なのですが、食事と生活において重要なのは何を食べるかよりも誰と食べるかだし、同じ食卓を囲むことはすこしずつでも話をすることであり、それはつまり相手を知っていくことなんですよね。だから私は4話と13話の終わりが本当に好き……。

王子の「確かにタイムは出したい、でも、それよりいまはとにかく走りたいんです。納得いくまで。ただ、それだけなんです」という言葉を聞いて、清瀬は「走りたい」という自分のシンプルな感情を思い出します。膝は全快しておらず、ゆっくり調整するしかない。自分も万全でないなか、メンバー全員の結果も一手に引き受けるプレッシャーまで背負っている。けれど、いまではもう、清瀬がみんなに何かをもたらすだけではありません。清瀬にも、忘れていたものを思い出させてくれる仲間がいる。最初の記録会では揃わなかった「箱根の山は」「天下の険」もいつのまにかぴったり息があうようになっている。彼らはもう既に、互いに影響を与えあいながら、各々が自発的に進みはじめています。

そして、12話からオープニングが変わります。あの、このタイミング、完璧すぎませんか!?アオタケメンバーと一人すれ違い、俯いて過去から目を背けてようやく顔を上げて振り返りはじめた第1クールオープニング、仲間と同じ方向へと向かい、暗闇を抜けて光へ出る第2クールオープニング、その切り替わりが12話という……最高すぎる……最高……私は第2クールオープニング「風強く、君熱く」が本当に好きで……永遠概念が刺さりすぎて本当にやばいんですよね!?永遠は一瞬のなかにこそあるんだよな……見返したくなったときのためにリンクを貼っておこう……


TVアニメ「風が強く吹いている」第3弾PV

微笑む二人、加速する走とその背中を見送る清瀬などというものを毎週見続けたうえであの最終話を迎えるの、本当にとんでもない。とんでもないんですよね……あの数秒に二人の関係性を……こんなにもあますところなく……

感想・前編で書いたとおり、仲間とちゃんと向き合う8話・9話・10話、強さという概念を得る11話を経ることで、ようやく走を追いかけてくるのは苦い経験ではなくなります。流星演出、走にとっては12話における進化の片鱗が最初ですが、清瀬にとってはいつだって、そもそも出会った瞬間から、走の走る道筋は銀色に光っているんですよね。運命が交差した瞬間、清瀬はもうそのことをわかっているけれど、走がわかるのはもっとあとなんだよな。ゴール地点……

記録会で清瀬ヘッドロックされていたり、みんなとともに公認記録をクリアした神童とユキに駆け寄ってもみくちゃにしたりと、走がちゃんと一員になっている!!!と嬉しくなるシーンが続いたところで望月が登場し、走にはまだ隠していることがあるのだと思い出させられます。単位を落とさない側と落とす側の天国と地獄や、いくらの海、夏合宿行きの車内など、大学生ならではの空気感はいまの彼ら10人だからこそ生まれるものでありながら、湖畔のランニングの俯瞰では再び9:1となっている。これまでと違うのは、望月の「仙台城西高校の蔵原くん?」を思い出しても走がそれから逃げようとしているわけではないということ、列が縦に延びているように、これまでの9:1の分断とは異なり少し距離を置いているだけだということです。

「足りなくないですか?」と走が気づくシーン、成長……!!!と胸がいっぱいになってしまった。二手に別れて神童とムサを探しにいこうというとき、走もしれっと残るほうに挙手しているんですが……みんなかわいいな……かわいい……。イチゴプロテイン入りカレーを味見して「意外といける……?」となってるユキ(本当か?)、走のカレーの醤油とマヨオプションや、東体大の焼き肉と肉なしカレーの切ない対比など、12話は全体的にほっこりする年相応の空気感に満ちていて好きです。このあとに超高カロリー13話・14話が控えているからそれをふまえてのバランスなのかもしれませんが……。

翌朝、寛政大がいることに気づいた榊の表情はこれまでとは全く異なるものでした。きっと榊は、清瀬がどういう選手かということ、全員が本気であることを記録会で体感して、今度こそ走が彼らと仲間として向き合い走ろうとしているのだとわかってしまったのかもしれない。たぶん人の感情の機微に聡いひとだと思うから……。榊、背景を知れば知るほどに彼もまた非常に魅力的なキャラクターなんですよね。鈍感ではいられない賢さや、器用になりきれない不器用さや、そういう色々なものがぐちゃぐちゃになったまま全部を抱え込んでいる人だなあと思う。榊への感情、9区出走前の走との会話で爆発したので、榊の話はそのあたりでしたいです。

榊に「満足か? やっとできた仲間と走るのは。仲良くかけっこできて満足かよ!」と言われてカッとなるのは、走が彼らと本気で走っているからであり、同じく本気である仲間を貶されたからです。今はもう、殴りかかろうとする走を止め、ずるずると影から日のもとへと引きずり出してくれる仲間がいる。榊はそんな走に対して「そうやって誰かの努力をぶち壊すんだよおまえは! 見てねえんだ、他のやつらのことなんて!」と感情をぶつけ、清瀬は「俺たちがいることを忘れるな」と走を諭します。走はもう、高校の頃の衝動的で孤独な自分から変わり始めています。これまで目を向けずにいた他者を見つめることができるようになったし、コミュニケーションとしての会話をすることもできるようになった。それでも過去がなくなることはない。自分自身と向き合い受け入れるということなしには、本当の意味で前へ進むことはできません。

 

■4話という伏線

13話「そして走り出す」は本当にすごい回でした。13話のブログでも書いたんですけど、あのノイズ混じりの音声と映像が差し込まれるの、あまりにも……すごくて……こんな演出のやりかたがあるんだ!!!という、いやもう本当にすごいんですよ……わたしは本当に13話が好き……

「生きるか死ぬかの勝負と思え」という監督の言葉と幸福な食卓、後輩に何も言わなかった彼らと「風呂、考えろよ!」と言ってくれるユキ、トラックという狭い世界と山道や高地というどこまでも繋がっていく広い世界。対比が本当にものすごい。13話、もう見返すのは6回目くらいなのですが、それでようやくユキと彼らの対比に気付きました。「先輩は色んなことを教えてくれるなあ」……。監督の言葉に彼らの食卓を重ねるの、非常に刺さる。走ることと速度が全てなら寛政大学陸上競技部の彼らはここにはいないし、走らなくたって死なないし人生は決まらない。でも高校生の彼らにはあの小さなコミュニティが世界だからそのことがわからない、そしてわからないことが悪いわけでは全くなく、それは視野が狭いから、閉鎖的なトラックの中だけが彼らの世界だからなんですよね。小さな世界の中だけで生きているからいろいろなことに気づかない、視野が狭いから思い至る前提がないというの、わかるもん……自分の経験としてあるので……構成が本当に丁寧なんですよね。そしてあの朝日ですよ。すごいよ……本当に……。

13話は勿論単独でもものすごい回なのですが、私は2周目で4話ラストとの対比に気づいていっそうアアーーー!?!!?となり、好き!!!!!という感情が爆発したのでその話をします。いや、4話と13話が繋がっているのとんでもなくないですか?とんでもない……すごい……ありがとうございます……!!!

さて、次々と清瀬に懐柔されていく竹青荘の面々の楽観を苦々しく思い、逃れられない過去と現実にもがく走の心境を表すように、4話は終始どんよりとした曇り空でした。そして川原で王子が榊に啖呵を切り、清瀬が走に「王子の言う通り、おまえはおまえだ。好きにすればいい。俺もそうする。だから、絶対に走る。おまえと、俺たち全員で」と語りかけるラストシーンを経て雲の切れ間から朝日が差し、彼らは彼らの家へと帰っていきます。走はそれぞれに会話しながら通りすぎていく彼らの背中を見つめ、ついていってもいいのかなとようやく思えたかのように、やっと自らも一歩を踏み出します。

4話と13話において、心情変化に伴う光の演出、朝食に帰っていく彼らという構図は同じながら、その印象は全く異なります。構図が同じだからこそ、彼らの心情と関係の変化が際立つ。4話では清瀬が「よーし戻ろう。メシが待ってる!」と呼び掛け、他の面々がそれについていくのに対し、13話では八百勝のおじさんが「おーい!朝飯が冷めちまうぞー!」と呼び掛けて全員で戻っていきます。4話ではその背中を見送るだけの走が、13話では「出たいです!箱根駅伝に、この10人で」と自分から言う。そんな走のことを、みんな向き合って追い付くのを待っていてくれる。そしてようやく、彼は軽やかに小川を飛び越えていくんですよ……!!!!

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このカットが本当に本当に大好きです。彼らの日々~~~~!!!!!となって……走がちゃんとみんなと向き合うことをやってきたからこそだし、真摯に向き合えばちゃんと応えてくれるのだ、という……みんなが走のことを待っていてくれる、そして全員で朝食へと向かっていくんですよね……雲から光が差す4話、夜明けから朝になる13話というのも本当に好きで……!!!ようやく一歩を踏み出す4話、そして走り出す13話なんだよな。

そして、この13話があるからこその、14話のこのカットなんですよね。

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最高だ…………本当に…………ありがとうございます…………!!!!!!!!

 

 

本当は中編で17話あたりまで書こうと思っていたのですが、時間がたくさんあいてしまったのでとりあえず書いたところまでで中編をあげることにしました。13話だから一応キリもいいし……。カウントしたら中編は9000字くらいでした。

後編は感情重視で書きたいからまた一気に見直したいな。それではこのあたりで。今回は以上です!

 

追記:2023年になって後編をちゃんと書き終えました。

 

彼女の旅路、あるいは人生

Fate/GrandOrder -絶対魔獣戦線バビロニア-」Episode0、ご覧になりましたか?私はうっかり会社の昼休みに見て、昼にメインシナリオを進めるときにいつも駆け込んでいるパン屋さんでべしょべしょに泣きました。

この27分間が期間限定配信なんておかしい……いくらでも積むから買わせてほしい……というか本っっっっっ当にお願いだから全部アニメ化してくれませんか!!!??!?!????!???感情がはちゃめちゃなのでびっくりマークとはてなマークを連打してしまう……なんで……なんでや……ぜんぶアニメ化してくれ……たのむよ……6章と7章がはちゃめちゃにおもしろいのはわかる、私もそう思う、でも、でもさあ!!!!!冬木から北米まで全部おもしろいじゃん!!!!!!!!これまでの全部の旅路あってこそのさあああ~~~~~~それでこその、あの、あの旅の終わりなわけじゃん…………たのむよ…………順番前後してもなんでもいいしいくらでも待つしいくらでも積むから…………みんなの旅路を…………

 

1部、1.5部、2部、2部序のすべてに思いを馳せて大変なことになっており、種火を回るどころの騒ぎではなく、思い出すだけで涙目と鳥肌になりながら、ざかざかとこの文を書いています。色彩をそこで流し始めるのあまりにも……あまりにも……あの、本当に、構成が完璧すぎて、ねえ……ギャラハッドさん……あそこでギャラハッドさんを止めるマシュ、それこそがロマニの言う「人間らしさ」、ひとを思いやる心じゃないですか……!!!やっぱりギャラハッドさん、2部6章でマシュがまじでやばい感じになったときにマシュの体を借りてただ一回だけ共闘してほしい……口調は古風なかんじがいい……ギャラハッドさんはマシュとマスターを信じてすべてを託して眠ったのだけど、でも、たった一度だけマシュの体で、声で、「此度のみと心得よ」って言ってすらりと剣を抜いてほしい気持ちはさあ、あるじゃん……!!

 

さて、マシュとロマニの出会い、そしてFate/GrandOrderの前日譚として描かれたこの0話、メインシナリオをどこまで終えているかによって感想が変わる本当にものすごい構成だと強く思いました。1部未クリアなら7章の導入として、1部クリア済~2部未クリアなら今後この人々(クリプターたち)が出てくるんだなという示唆として、2部進行中ならマシュのこれまでとこれからの振り返りとして。我々にはあのラストとロマニの表情がどういうことか、全くの説明なしにでも、わかってしまうので…………

2部進行中のいま、この0話を見てどうしたって考えてしまうのは、彼女の旅はこれからも続くけれど、これからの旅は、ということじゃないですか。4章で描かれたマシュの誠実さはまぎれもない彼女のエゴで、それはある意味傲慢でもあって、誠実でありたくても善良でありたくても、どうしたってすべてを手にはできない私たちは何を選び何を切り捨てるのか、という……

2部オープニングを見てから事あるごとに言っていたのですが、2部になってマシュが戦う女の顔になっているんですよね。まっさらだった彼女が色彩を得て、感情を獲得して、覚悟に殉じたあとにもう一度いちから人生を歩みなおす、その先の表情。無垢であれ、善良であれと教育され、人間の良いところばかりを知ろうとするマシュは、自分は人間関係の外側にいる存在だと考えていたのだと思います。最初から自分は人間関係の当事者ではないと思っているから、他人と自分を比べないし、本来であれば辛く苦しく理不尽だと怒ったり恨んだりするべき境遇にあるのに、自分をただの無機物な対象として見るカルデア職員たちが笑い合う様子を心から嬉しそうに見つめている。

これまでのマシュの立ち位置は、一列に並び立つAチームの7人と、後ろからそれを見つめるマシュという構図に象徴されるものでした。そんなマシュにようやく自分を人間関係の当事者として認識させたのが、ロマニやダ・ヴィンチちゃんだったんですよね。そうして自分はただの第三者でも部外者でも、輪の外側にいる付随物でもなく、自分の人生の当事者であることを自覚し受け入れてはじめて、自分の考えや感情やほしいものを見つめることができるようになる。初めて自分にもほしいものがあることを自覚して、吹雪の窓辺で待っているだけだった夢は夢でなくなり、願いとなって、自分の生身のからだで生きるようになる。それでも彼女の生には限界があるままで、マシュはそれを受け入れたままで、そうして短い生を覚悟とともに駆け抜けてしまった。その覚悟は、本来年端もいかない普通の女の子が抱くようなものではないし、きっと抱いてはいけないものでもある。

旅のなかで見たもの、感じたこと、出会った人々、そういうすべてがようやく彼女の少女としての外郭をかたちづくり、その中に少女らしからぬ覚悟と聖女のような精神があり、そしてようやく、彼女は普通のひととして生まれなおす。1部は、そういう物語でした。

人間をかたちづくる様々なものを描いた1部、善悪どちらか一方だけではいられないことを突き付けた1.5部、そして人間とは、生きるとはということを問い直し、選択を迫る2部。2部は、あの旅のなかでようやくひととして生まれたマシュがひととして成長するための旅なのではないかなと思っています。そんな彼女が戦う女の顔になっているのが私は本当にうれしくて……わからないけれど、わからないままで彼女たちは進んでいくんですよね。ロマニに対して「すべての生命には、活動限界があります。わたしは、わたしの活動期間に疑問はありません」と無感動に言ったマシュが、異聞帯での旅の果てに、ただシンプルに「生きたい、生きていたい」と思うようになるのではないかと、そうなってほしいと私は思っているので……

 

見上げた花火に、視てしまった終わりが重なるロマニ・アーキマン、非常にしんどかったですね……ロマニにとってのひとらしさのなかに「意思を持って損ができる」があるのも、本当に、あの、終章………………マリスビリーとの会話のときのフードの後ろ姿を見て、2部オープニング!!!!という気持ちが爆発してしまったのですが、いや本当に、どうなるんだ……あれはやっぱり彼なんですか……

あとレフがさあ~~~~!!!!!!0話、本当に何がしんどいってレフが一番しんどかった。彼の心残り……終章感想文を読み返したら「終章最初にソロモン(ゲーティア)のマシュに対する『どこまでも平凡な人間だ』という評価が、マスターを守りきったマシュへの『きみは普通の女の子だったんだよ』に繋がるの、一度気づくとここめちゃくちゃ泣きますね……そう、普通の女の子だったし、レフはそんなことを当たり前のこととしてずっと知っていたんだよな……」て書いていたんですが、あの、まさに、これなんだよな!?!!?!?!?噛み締めるようなレフの「考えてみれば、それは我々にも言えることだ。当たり前のことだ。当たり前のことなんだよ、ロマニ」が本当に……本当にさあ……「我らが王は、人間を憐れみ、死という前提から救うと言った。私にはわからない。そうだろう、マシュ。本当に、人間にはそれだけの価値があるのかい」…………

 

色彩が流れ始めるタイミング、あまりにも完璧なんですよね。いつもと同じガラスの外側の吹雪、待つだけだった夢、動き始める物語、その幕開けの鐘のようなピアノ。本当に、見返すたびに鳥肌がやっっっっっばくて……!!!

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で、あの、走るマシュ、これ、「風が強く吹いている」の流星演出と同じやつじゃないですか!!!!!!!!!正確には流星たる彼ではなく10区のあれなんですけど……わかる、そう、マシュは流星なんだよな……1部のマシュの輝き、大気圏に飛び込んで一瞬燃え上がり煌々と輝いて燃え尽きえる流星のそれなんですよ…………ふと少女ダ・ヴィンチちゃんのプロフィール読んでいたら「作られた短命の生命ゆえの達観、客観性」とあってまたべしょべしょになってしまった。本当に、マシュ、2部の旅のあと、ただ生きていく人生へと踏み出してくれ…………

私は、英霊という人間としての先輩が、後輩たる今を生きる生身の人間たちに向ける祈りとエールが本当に好きなんですよ。毎回毎回たくさんグッときてしまう。で、こんなんさあああ~~~~~~~~なんで全部アニメでやってくれないんですか!!?!?!???!ダイジェストじゃなくてやってください本当に……たのむ…………全部見たい…………見たいにきまってるでしょ………

「何を好きになり、何を嫌いになり、何を尊いと思い、何を邪悪と思うか。それは、きみが決めることだ。僕たちは多くのものを知り、多くの景色を見る。そうやってきみの人生は充実していく。いいかい。きみが世界をつくるんじゃない、世界がきみをつくるんだ」

4周年CMの最後にアマデウスがお辞儀をするのめちゃくちゃいいなあと思っていたところ、これを見て、もう、もうね…………祈りなんだよ、みんながマシュにいろんなことを教えて、彼女の背中を押して、彼女の旅には出会いがたくさんあった代わりに別れもたくさんあったけれど、自分だけの人生を生きなさいとエールを送ってきた、そういう旅だった。そんなことを思って泣いていたところ、婦長の言葉がこれですよ……!!!!

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「ミス・マシュ。夢と願いは違うものです。限りなく現実をにらみ、数字を理解し、徹底的に戦ってこそ、願ったものへの道は開かれる。あなたは、あなたのために、これからの人生を生きなさい」

みんなだいたい表情が映るなか、婦長は後ろ姿なのが本当に、本当に、めちゃくちゃ良くてね!!?!?ナイチンゲール、彼女の信念は、言葉で語るものではなく見るものが彼女の姿勢から感じ取るものなんだよな。婦長本当に好き……だいすき…………

三蔵ちゃんの「あたしの行動に理屈はないの。やりたいようにやる、ううん、やるべきだと感じたことを、胸を張って信じているだけ。あなたも同じよ。きっと」に、「STAR DRIVER 輝きのタクト」の「やりたいこととやるべきことが一致したとき、世界の声が聞こえる」じゃん!!!!となってしまった。ラストもまさに「人生という冒険は続く」だし……

6章の映画も本当に楽しみですよね!!私は本当に6章のマップ音楽が一番好きで……0話、村でのみんなの宴会を描いてくれたのが本当にめちゃくちゃ良かった。ネロの言葉ともつながるのだけど、場所も為政者も国も名も違えど、根本にあるのはただ人々の日々の生活なんだよな。私たちはただ生きる、生きている、それだけで……そして、そういう根本の部分がゆらぐことで「人とは何か」「生きるとはどういうことか」ということを考えなければならないのが異聞帯じゃないですか。3章4章の感想文、そういう話をしようしようと思ううちに遅くなっており……5章までには書きたい……

ドレイク船長の「悪人が善行を為し、善人が悪行を為すこともある。それが人間だ。それがアタシたちだ」という言葉、今聞くとまたこう思うことが変わるのが、深いなあと思いました。善人と悪人・善行と悪行は連動するものではないんですよね。異聞帯を旅する彼女たちに、善悪という明確な指標はもはやない。正義と対立するのはまた別の正義、いや、そもそも「正義」といえるかどうかもわからない。やるべきことがわかっていた1部、やるべきこと以前にやるべきかどうかすらももう誰にもわからない2部。それでも彼女たちは進んでいくんですよね。そうしなければ生きていくことができないから。


「永遠などすこしもほしくはない」は、あのときのマシュにしか言えない言葉なのだと思います。

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だって、マシュはもう終わりに向かって生きているわけではないから。受け入れている終わりへと駆け抜けていくから、今という一瞬だけがあればいいと心から言えるけど、彼女はもう青空を見た、そして、「いまがずっと続けばいいのに」というその先の気持ちを知ってしまった。ルルハワで口にしたそれは、そういう感傷を抱くということは、確かにひととして成長している証です。ただ、彼女の旅路、あるいは人生が、あまりにも過酷であるだけで。それでも、彼女が見たいと願い、そして辿り着いた青空と同じようなうつくしいものが、この旅の先にもあることを、私は願ってやまないのです。

 

「本日、第七特異点へのレイシフトが実行されます。私は、また、旅に出るのです」  

自由になりたいわたしたち

昨日5月29日、ASIAN KUNG-FU GENERATIONのライブに行ってきました。(アンコール写真撮影可能の公演です) これは今回のベストショット。

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本当に……めちゃくちゃ楽しくて……すごく良かった……ぎゅっと詰まった2時間半でした。超たのしかった……余韻がものすごい……めちゃくちゃ元気になった……!!!

 

ツイートを遡ったらどうやらアルバム「ホームタウン」を最初に聞いたのは4月11日の朝の電車の中だったようなのですが、それよりも、なんか今日妙に疲れたな~と思いつつその日の帰りに改めて聞いたときの染み渡り方のほうが最初の印象として強いです。どこか力が抜けていて、ゆったりと帰路に寄り添ってくれるようなアルバム。私にとって、そんなイメージのアルバムです。

アジカンとのファーストエンカウントは鋼の錬金術師の「リライト」でしたが、その後中学生になってからツタヤで「ワールド ワールド ワールド」と「マジックディスク」を借りたのが本格的な出会いだったように思います。「サーフ ブンガク カマクラ」が好きすぎて友達をさらって江の島に行ったこともありました。

 

私は小さい頃から考察とか、何かに疑問を持つということがそれはもう絶望的に苦手で、良く言えば素直・悪く言えば考えなしという子供でした。小学生のとき理科の佐藤先生に通信簿に「もっと色々なことに疑問を持ちましょう」って書かれたりして、どうしたらいいんだろうって私にしては真剣に悩みながら、一方で「でも『こうだよ』って言われるから『そうなんだ』って納得するんじゃん」とずっと思っていました。いや今も思ってるか。

大学生の前半、たぶん十九の中頃まで、雨の日と寒い日がどうしようもなく駄目だったんですよね。肌寒い雨の日なんかもう最悪で、身の置き所がないというか、いたたまれないというか、気持ちが閉鎖的になってどうしようもないというか。そのくせ外面はいいので部活には絶対に行き、なんでもないように振る舞って、そのうち練習のハードさでそれどころではなくなり、いつの間にかニュートラルに戻っている、というのを繰り返していた。とはいっても肌寒い雨の日限定なのでそんなに頻繁ではなかったけれど。

そういう雨の日、生協で売っているドーナッツをとにかくたくさん食べて「きらきらひかる」か「号泣する準備はできていた」を読んで図書館の机で寝ると、なんだか気持ちが落ち着いたような気がして、それからはドーナッツを食べつつ、割とそのどうしようもなさを飼い慣らしていたように思う。そして、そんなどうしようもなさをは、なんの前触れもなく、いつの間にかすっかりどこかに消えてしまった。あれ本当になんだったんだろうな。

昨日、「UCLA」のイントロを聞いて、水の中にいるみたいだなあと思った。それで、「UCLA」と「モータープール」を聞きながら、もしあのときにこの曲たちがあったら、あのときのどうしようもなさは何かが違ったのかな、と。そんなことを思いました。

それとともにふっと思い浮かんだのが、開演前に少しだけ読んでいたTHE FUTURE TIMESのゴッチの連載の一文でした。

けれども、その曲が「ある世界」と「ない世界」のどちらがマシなのかと問われれば、間違いなく「ある世界」を僕は選ぶ。世界を変えられなくても、僕自身は間違いなく、その曲の誕生以前と以後では、何から何まで違う。

 

THE FUTURE TIMES 2018 winter 連載「未来について話そう」 後藤正文

わたしたちは、主観だけに基づく世界に生きている。どんなに客観的に物事を見ようと思っても、主観を排そうとしても、自分の意識のうえにしか自分は存在しえないのだから、結局すべては自分の主観だけに基づいているという意味です。

そのうえで「どれだけ自分の主観を豊かにできるか」ということに、わたしたちは向き合っていかなければいけないのだと思います。自分本位ではないか、知らないものを切り捨てていないか、ちゃんと世界の動きのアップデートについていけているかどうか。主観の豊かさとはそういうことなのではないかなあ。

中学・高校のときから好きだなあと思ってもう何度も何度もリピートしてきた音楽でも、改めて聞くとはじめて受け止めるように思えることがあります。これまでその曲を聞いていたときは全く思い至りもしなかったことを考えたり、普段から聞いている好きな曲で涙が出てきたり。そういう経験をするたびに、そのときどきによって自分に影響を与えるものから何を感じるか、何を受け取るかは異なるのだなあと思うし、わたしとわたしの好きな音楽という一対一の関係は、一対一だからこそ果てがない。

昨日のライブで、ゴッチが、自分と音楽はその間で本来完結していて、それでもそうやって震動するものによってみんなが楽しんでくれるのはありがたいことだという話をしたとき、音楽や言葉や作品というものは、どれもみんな同じなのかもしれないなと思いました。主観だけに基づく世界に生きているわたしたちは、誰かの主観に触れて、自分の主観でそれを感じ、考えながら、それらを受け取る。そのやりとりは本当はどこまでも一対一の二者間で完結していて、わたしがどう思うかということがわたしにとってのすべて。

それでも、わたしたちが一対一だけで完結できないのは、世界のなかで他者とともに生きているから。そもそももし一対一で誰もが完結していたら、生み出す人のもとで止まってしまうのだから、言葉や音楽や文章や映像というあらゆるものは他者の目に触れなくなる。わたしたちは自分で意識しなくても世界とつながっていて、生きている限り無関係ではいられない、というのは「鋼の錬金術師 シャンバラを征く者」の台詞ですが、生きるとはそういうことなのだと思います。

誰かに向ける言葉以外の、誰に向けたものでもない言葉が、何かの拍子にどこかに流れ着くことがある。誰に届かなくてもいいと思っていることが不意に誰かに届くというのは、本当にすごいことで、喜びでもあります。違う主観に基づく別々の人間が完全にわかりあうことは絶対にできなくて、だからこそ、何かがつながったと思えること、「つながった」と感じるそれが幻想だとしても、わたしたちはそういう喜びを求めながら生きている。

音楽、絵、漫画、小説、それがどんな媒体であっても、「作品」と呼ばれるものを生み出せる人はそう多くはありません。それでもみんな言葉を持って、言葉を使って誰かと一緒に生きている。「作品」というかたちをとる必要性は必ずしもなくて、きっとなんでも良いのだと思います。自分と向き合うことで生まれる何かなら、きっといつか誰かに届くし、そのかたちはなんでもいい。わたしがなんだかんだと文章を書き続けているのも、まあ後になってセルフわかりをするためというのが9割がたの理由ではあるのだけど、何かの拍子に誰かが何か感じてくれたらいいなあとか、そんなことを思っているからなわけです。

そんなことを、アンコール1曲目の「マーチングバンド」を聞きながら考えていました。「マーチングバンド」、本当に大好きな曲なので、聞くことができて本当にうれしかったです。

 

わたしがアジカンのなかで一番好きな曲は「未だ見ぬ明日に」で、就活と部活で日々に消費されていたとき、自分をちゃんと立たせるためにひたすら聞いていた曲でした。音量大きめで流しながら、ふと見上げた夕焼けのきれいなグラデーションを、いまでも覚えている。わたしの忙しさなんて、以前もいまもたかが知れているのだけれど、それでもあのときわたしの日々にこの曲があって本当によかった。

「ホームタウン」のなかでそういうふうに思った曲が、「荒野を歩け」なんですよね。

理由のない悲しみを

両膝に詰め込んで

荒野に独りで立って

あっちへ ふらふら また

ゆらゆらと歩むんだ

どこまでも どこまでも

 

ASIAN KUNG-FU GENERATION「荒野を歩け」

いろいろなことがあるけれど人生は続くし、うれしいこともあればかなしいこともある。そういう、アジカンの大好きなところがぎゅっと詰まった曲だなと思った。わたしたちは、わたしは、それでも前を向いて生きていく。そうありたいと思う、思えるようにそっと背中を押してくれる。そういうところが本当に大好きだし、アジカンの、彼らの哲学だなあと思う。

 

わたしは自己肯定感情がめちゃくちゃに高く、いやなことはすぐ忘れてしまうたちで、そういう意味では相当ハッピーでお気楽な人生を送っているのですが、昔から「〇〇になりたい」といういわゆる将来の夢というものがないんですよね。ハングリー精神も正直ほとんどない。そういえばこれも困りましたねえって塾の先生に言われてたような気がするな。

わたしの人生が一番大事、すべてはなるべくしてなるので人生レベルで後悔していることはひとつもない、と本心で思っている。同時に、土台の部分で自分は、みんないつの間に将来の夢が明確にあるの……?という不思議8割、いやでも全員が全員なりたいものがあるわけないじゃんという疑問2割を持っていたんだろうな。

最後の1曲、「ボーイズ&ガールズ」を聞きながら、ああ、そういうことじゃないんだな、とすとんと腑に落ちた。「夢」というのは具体的な何かに限ったものではなくて、「こうありたい」「こういう自分になりたい」というのも、きっとそういうものなんだ。「始まったばかり」とうたう彼らが本当にかっこよかった。人としてかっこいい。かっこいいな、わたしもこういうかっこいい大人になりたいなと、そう思った。わたしたちはいつでも始まったばかりで、どうにでも、なんにでもなれる。職業や出会いやそういう具体的な事柄はなんでも自分の思うとおりにできるわけではないけれど、自分がどうありたいかは、いつだって自分で決められる。

 

どうしてもアジカンのライブに行きたくて、去年のゴールデンウィークに日帰りで大阪に行ったとき、MCで「楽しみ方は人それぞれで、自由に心を開いて楽しんでください」と言っていたのがとても印象的でした。今回も彼らは「自由に、自分のスタイルで楽しんでね」と言ってくれて、なにより彼ら自身が本当に楽しそうで、あの空間と時間がわたしは本当に楽しかった。

自由とは日々拡張されていく概念、ということを、少し前から考えています。世界は日々アップデートされていき、情報はどんどん容易に手に入るようになって、余白部分の解像度はどんどん上がっていく。いままでうまく言えなかったこと、目を向けず認識しないままでいたこと、そういうものが認識を経てかたちを得て、わたしたちの主観は拡張されていく。世界が広がるほどに、昨日までなかったもの、価値観、そういうものが増えるたびに、わたしたちは少しずつ自由になれる。

昨日のライブの最後、「解放区」をわたしははじめて聞いて、アジカンはまた、いままでよりも自由になったんだなあと思いました。

彼らの楽しそうな姿がまぶしくてうれしくて、とてもかっこよかった。わたしの世界はまだまだ狭くて、知らないことも思い至らないこともたくさんある。生きているかぎり、そういうことだらけなのだと思います。それでもわたしは、もっと自由になりたい。こうありたいと思う自分でいたいし、もっとこうなりたいと思う自分に近づきたい。昔は苦手だった「考える」ということをようやく少しずつできるようになってきて、わたしは絶対に小さい頃よりも自由になれた。だからもっと色々なことを自分のこととして捉えて考えられるようになりたいし、「考える」というフィールドのなかでもっと自由になりたい。わたしはどうだろうと自分に問いかけて、自分と向き合いながら、わたしの、わたしだけの人生を生きていきたい。

うれしいことだけではない、かなしいこともつらいことも大変なこともたくさんある、予想できない日々に振り回されながら、それでもわたしは生きていく。どんなときでも前を向いていたいと思いながら。わたしはもっと自由になれる。わたしがそう思う限りいつだって、わたしのこれから先は、まだ始まったばかりだ。

 

光ある人生・前編 ―「風が強く吹いている」感想

「風が強く吹いている」についての文も3本目となりました。最終話を見た翌朝に1話をあらためて見返したところ、ラストのこのカットに感情が爆発し、勢いのままに運命とはなんぞやという文を書き、そして全話見返したり小説を読み返したり噛み締めたりしていたらいつの間にか5月も終わりに差し掛かってしまいました。

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この記事を読んでくださっている方々は風視聴済の方がほとんどかとは思いますが、もしまだ読んだり見たりしていない方がいたら、ぜひ「風が強く吹いている」という作品に触れてみてください。原作は2006年に世に出た三浦しをん先生の小説で、アニメは2018年10月から2019年3月にかけて全23話で放送されました。

ツイッター脊髄反射で打っているので「いまからでも間に合う!」というような言い方をしてしまうこともあるのですが、本当は、作品に触れるタイミングに「間に合わない」ことなんてありません。読んでみようかな、見てみようかなと思ったときが、きっとその人にとってのタイミングなのです。「めぐりあわせ」や不思議なご縁とはそういうものなのだと思います。

この感想文はアニメの感想を中心に書いていますが、小説風が魂に刻まれているので息をするように小説の話もします。アニメ視聴済・小説未読のみなさんはぜひ小説もお手にとってみてください。

 

13話時点と最終話後に書いた文のリンクも貼っておきます(宣伝)。

前置きが長くなりました。そんなわけで「風が強く吹いている」感想文を始めますが、書いているうちに当初の予想を裏切りトータル20,000字越えが見えてきたので、今回はひとまず6話までを中心とした前編です。

 

■構成という全体図の緻密さ

私は初見時はストーリー進行に意識のほとんどを向けては毎回「続きは!?」となっているタイプなので、すべてを知ったうえで見る2周目での気付きなのですが、アニメ風は各話1話分のまとめ方と各回のつながり、エピソードを貫くテーマの描き方、そして23話というシリーズ全体を俯瞰したときの流れが実に見事です。

例えば、1話で走を見つけた清瀬はすでに彼の足元に光の筋を見ているわけですが、1話の次にこの演出(流星演出と勝手に呼んでいます)があるのは12話の記録会です。このとき走は清瀬の「走るの、好きか?」を思い出しており、そして加速し1着、覚醒の片鱗を見せるわけですが、12話までのなかで走を追ってくる(走が追われていると感じている)のは高校時代の榊やコンビニ店員など、やり直せない過去や逃避しようとしている現実ばかりでした。

6話において、清瀬はうまくいかない現状に苛立つキングに対して「明日も明後日もその先も、やるべきことに変わりはないだろう。いつだって目の前にあるのは現実だ。なら、逃げるんじゃなくて、いっそ一緒に走ってみればいいんだ。現実と」と言いますが、まだ向き合う覚悟を決めあぐねている走は7話の記録会後、「一緒にチームを導いてやれ」と言う藤岡に言葉を返すことができないし、みんなと別れて一人走って帰ってしまいます。しかし、9話の応援や10話の王子との特訓を経て、走はようやく自分のこれまでとこれからに向き合えるようになる。そうして迎える12話でようやく、走を追いかけてくるのは苦い経験ではなくなるのです。

全体の折り返し地点と言える13話、過去のノイズは幸福な現在にも届きますが、みんなと一緒に走りたいと走の心はすでに決まっているし、自分や仲間とちゃんと向き合うことを決めている。そして走り出す、ようやくなんの迷いもなく一歩を踏み出した彼のことを、もう何も追ってはきません。

向き合わず逃げようとしている者にとって、過去や現実はどんなに逃げても追ってくるものですが、向き合い、ともにあろうとする者にとっては背中を押す存在となることもある。自分と向き合うということは時に苦しく、なあなあにしたままでいたほうが楽だと、目を逸らしたままでいたいと思うときもあるけれど、それらは逃げようとするからこそ追ってくる。逃げようとする限り逃げられない、けれど共に歩もうとすればもう追ってはこない、そういうものなのだと思います。

このように、単発の回やエピソードごとに切れることなく、心情の機微や変遷が流れとして、あるいはグラデーションのように非常に丁寧に描かれていました。各場面や演出が地続きのものとして繋がりあっているからこそ、フォーカスする部分ごとに様々なことを受け取り、考えることができる。これはファンとして本当にありがたいことで、そういう重層的で多面的な描き方をしていただいたことが本当に嬉しいです。

OPの切り替わりは12話ながら、私は1話から13話が前半、14話から23話を後半と捉えています。前半を貫くテーマとしては「自分と向き合うこと」が、後半を貫くテーマとしては「前へ進もうとすること」が描かれていると感じました。再構成に関しては前述のアニメ化という翻訳 ―「風が強く吹いている」13話に寄せて - 基本的に壁打ちで書いたことが全てなのですが、小説からの再構成が本当に見事で、見返すたびに新たな気付きや発見があります。物語の筋や演出がぶれることなく、大きな流れのなかで様々なテーマが共存しているということを考えるたびに、いったいどれほど全体図を緻密に組み立てていたのだろうと、感謝の気持ちでいっぱいになっています。

 

■全体の基盤としての関係性描写

1話における清瀬の突然の箱根宣言に対し、2話・3話ではそれぞれが困惑や抵抗を示します。小説では割ととんとん拍子で箱根を目指すことになりますが、アニメでは各々がどうやって箱根へ向かうかという心情の変化をとても丁寧に描いていました。この差は小説・アニメそれぞれにおける清瀬というキャラクターの違いゆえだと考えているのですが、この話はあとで詳しくします。小説では地の文や細かな会話で生活感やそれぞれの距離感、関係性を感じとることができます。2話・3話には、物語の土台となり今後の質感を左右するそういったディテールがたくさん含まれていました。

2話は清瀬の暴君っぷりが際立ち、もしかしてわざとお風呂壊したな……!?という笑いどころに、銭湯での意地の張り合いという大学生らしさもありました。アニメの清瀬、めちゃくちゃ大学生らしいんですよね……年相応……。

他方、ニコチャンには他のみんなとは異なる背景があることを示唆する伏線も盛りだくさんでした。ランニングから帰り煙草を吐き出して苦笑ぎみに「……無理だ」と呟いたり、銭湯でわざわざユキに賭けを持ち出したり。公園でばったり走と出くわしたとき、日の中にいる走に対してニコチャンは影の中に立っているんですよね。ここでは日の中といっても夕焼けですが、今度はニコチャンが走を影の中から真昼の日の中に引きずり出す夏合宿の一幕と合わせると、彼らの日々……!!という気持ちになります。

私はユキとニコチャンの関係性と距離感が大好きなので、ユキが「煙草のにおい、しないなーと思って」などと言い出したときにはもう、あの、あのさあー!?という気持ちになり……仲良しだな……!?オープニングでも仲良しだもんな……!?ユキ、ニコチャンのことをめちゃくちゃよく見てるんだよな。よく見ているからニコチャンの未練を感じとるし、無理を押していることにも気づくんですよ。お弁当事件とか……そしてこれが一方通行ではなくて、ユキがニコチャンのことをよく見ているように、ニコチャンもユキのことをよく見ているんですよね。だからこその、6区から7区へ襷がわたるときの「やると思ってた!」なので……。

ユキとニコチャンについて、小説でもこの二人は馬が合っている描写が多いのですが、アニメを見ていてもしかして小説よりも仲良しさんだな……?という気持ちになっていたところ、6区を見て完全になるほどね!?!!?という気持ちになりました。これについては後述します。

10人もいればそれぞれに全く異なる関係性があり、誰と誰は特に仲が良いという密度のグラデーションも生まれます。前半では特に、そのあたりの描写に多くを割いているという印象を受けました。3話、清瀬がユキを追ってクラブに突撃してきますが(まさかジャージでくるとは思わなかった)、おせちを盾にユキを言いくるめる清瀬の描写がなかった代わりに、二人の互いに対する良い意味での無遠慮さがよく出ていました。優位に立つ清瀬が坂の上のほう、ユキが下のほうに立っているカットが印象的です。清瀬とユキ、お互いに対してどこか遠慮がないんですよね。そしておなじく同学年のキングはというと、どこか距離があるように感じられる。なんとなく一緒にいることが多い組み合わせ、というこれらの細かな描写が、8区のキングの独白に一気に質感を伴わせるのが本当にすごいと思います。積み重なった彼らの日々、彼の4年間なんですよ。そしてストーリーを追うことに意識を向けているとするっと過ぎ去ってしまうような自然さなのでわざとらしくない。微妙に異なるそれぞれの人間関係の描き方がめちゃくちゃに上手い……すごい……。

後になってわかる、という点でいえば、3話で清瀬が超自分理論を展開してユキを説得するとき、清瀬の背後に貼られた映画のポスターは「勝手すぎる奴」でした。王子に退去を迫る2話のタイトルは「鬼が来りて」ですし、全員をなんとしてでも走らせるというまさに「勝手すぎる奴」で、これまでの強引さを象徴する笑いどころなのですが、全てをふまえて見ると、同じ「勝手すぎる奴」でも受ける印象が全く違う。清瀬は勝手すぎる奴なんですよ。竹青荘というひとつの太陽系の中心で重力と引力によってみんなを振り回す。ただ、これもどちらかというと小説の清瀬のほうがアニメよりもずっと勝手すぎる奴だと思います。FGO勢はわかってくれると思うんですけど、小説清瀬はロマニ・アーキマン、アニメ清瀬はベディヴィエール的なところがあるので……小説とアニメにおける清瀬の違い、永遠にろくろを回してしまう。

 

■無数の価値観、それらを貫く問い

さて、最初の節目といえるのは間違いなく4話「消えない影」でしょう。竹青荘それぞれの日常がメインに描かれていた3話までに対し、4話では走の内面にフォーカスしていました。榊との再会を機に、否応なくこれまでの自分の生活と向き合わなければいけなくなる走の心情を表すように、4話ではずっとどんよりとした曇り空です。しかし今では、ずっと孤独を抱えてきた走に声をかけてくれる人がいる。

王子、なんだかんだ言いつつ、一人の走に声をかけて、友達と行くところだったごはんに誘ってくれるんですよね。それと王子の友達も、初対面の1年生を快く迎え入れて一緒にごはんを食べてくれるあたり、超いい人たちじゃないですか?たぶん王子が練習でサークルの活動にあまり参加できなくなっても、「競技者としての君の新たな解釈が聞けるのを楽しみにしている!」とか言って超応援してくれそうで……たぶんみんなツイッターで1区実況してたと思う。

私は王子が大好きなのですが、王子は確かにオタクだし超文化系として生きてきているんですけど、でもちゃんと社会性のあるオタクじゃないですか。まったく違うタイプの人々である竹青荘のみんなともそれなりに仲良くやっているし、何より人の価値観を否定しない。あれだけ走ることが嫌いなのに、それでも走る選択をできたのは、たくさんの漫画に触れることで得た共感性の高さと未知の世界に対する心理ハードルの低さゆえではないかなと思います。あれだけの量の漫画に無限の情熱を注げるということは、自分の知らない世界に対する想像力がしっかりと培われているということだし、自分が親しんでいない分野に対しても極端な拒絶はしない。なにより、23話で清瀬に対して「好きにお走りなさい」と笑って送り出せるのは、8人のなかだったら王子しかいないのではと思うんですよね。王子本当にめちゃくちゃ好き……私も王子のようなオタクでありたい……

走と王子のやり取りとともに、4話では、清瀬と走、清瀬と王子の会話も印象的に描かれていました。前編を通して繰り返される主題のひとつである「一人でいても、本当は一人ではなくいつも誰かの存在が共にある」が最初に出てくるのはこの回です。清瀬の言葉を聞いても「……よく、わかりません」と会話を終わらせようとする走に対して、清瀬は今はまだわからなくてもいい、というようなやわらかい表情をしていました。それはまだ走が竹青荘で暮らし始めて日が浅いからなんですよね。今はよくわからなくても、これからみんなと暮らし、走っていくなかでわかっていけばいい。それは現時点では、ということであって、だから8話のように、いっこうに自分自身やみんなと向き合おうとせず速さ以外の尺度の存在を切り捨てようとする走に対しては、清瀬はそれだけではだめなのだと正面からぶつかるのです。

清瀬は王子の価値観である「人生に大切なことはすべて漫画が教えてくれる」に理解を示します。王子は走ることが本当に嫌いですが、そんな王子がなんだかんだと抵抗しつつも走るのは、清瀬が自分の価値観を認めて尊重してくれるということをわかっているからではないかなと思っています。

相手への理解を示した4話に対し、9話ではそこから更に一歩踏み込み、清瀬と王子はそれぞれの話に対して「自分には難しい話だ」と距離を示しました。王子は「走ることの意義を問い直し、人が走ることの感動を追体験できる」と語る清瀬に対して、清瀬は「同じ漫画を読んでいると、呼吸さえもシンクロし、言葉以上のものを共有できたように感じることがある」と語る王子に対して。自分には難しい話だと正直に伝えることは、ときに言葉のうえで理解を示すことよりもよっぽど難しい。清瀬と王子は、そのうえでお互いの話の本質を見つめており、全く違う事柄のなかにも共通する何かがあるということへの理解を言外に共有しています。そしてその「共通する何か」とは、清瀬が走に語りかけた「一人でいても、本当は一人ではなくいつも誰かの存在が共にある」ということなのではないかと思います。

清瀬と王子は文学部の先輩後輩でもあり、そういう観点からもこの二人は仲が良いのだなあと色々な場面で思わされますが、本来全く別のタイプである二人の関係性は、やはり異なる価値観の存在の認識という土台があるからこそなのではないかなと感じました。異なる価値観を「認める」わけではなく、当たり前のものとして「ある」ということ。自分が認めて受け入れるまでもなく、そもそも多様な尺度があるということは、裏を返せば全く同じ尺度など一つもないということです。大切に思うことや自分の人生の比重を大きく占める存在は人によって異なり、万人をはかる絶対値としての尺度は存在しません。

「この人たちが仲間かどうかはよくわからない、けど、少なくとも僕を、僕の嗜好を、価値を、ちゃんと認めてくれているんだ。この人たちにレベルの高い低いは存在しない。あるのは、それぞれが誰なのかということだけだ!」

 

アニメ『風が強く吹いている』第4話「消えない影」

一方で、清瀬と王子が全く異なる話から同じ本質を見つめたように、繋がらないように見える事柄どうしが何かを介して結びつくことも確かにある。そういった普遍的な価値観、あるいは永遠に答えの出ない問いこそが、本作の核である「強さとは何か」なのではないでしょうか。

 

■「無限の選択肢」は虚構か

4話のラスト、走は清瀬の言葉を受けてようやく新たな一歩を踏み出します。続く5話と6話は、まさに5話タイトルである「選ばれざる者たち」の話でした。それは清瀬のことであり、素人ながらも走ろうとし始めた者たちのことであり、なかなかご縁が繋がらないキングのことであり、あるいは、どこにでもいる普通の人々のことなのだと思います。

個人的に、就活を経た今、キングの就活のエピソードを見ることができたのはとても幸運なことでした。「就活」というあの独特の空気には、やはり自分が体験してみなければわからない何かが含まれているように思います。

5話冒頭の合同説明会にて、ポスターは「あなたには無限の選択肢がある」と掲げますが、そんなコピーとは裏腹にキングのもとへは無慈悲なお祈りメールが届きます。苦しい状況のなかでもがくキングとは対照的に、神童はいきいきと練習に取り組み、後援会勧誘に奔走している。ニコチャンは走ることを捨てきれないから針金人形を作り続け、ユキは自分が一歩を踏み出すための理由と納得を見出だそうとしている。彼らはそれぞれ、自身を取り巻く現実、あるいは自分自身と向き合い、何かを見つけようとしています。そしてそんな彼らの姿を通じて「『走る』とは何か」という問いが走に、そして私たちに投げかけられるのです。

「傷つくだけじゃないですか。現実を見せてどうするんです。みんな素人なんですよ」

「本当にそうなのか?」

「え?」

「選ばれた者にしか許されないのか? そういうものなのか? 走るって」

 

第5話「選ばれざる者たち」

「わかりません。あなたの言う走るって、なんですか」

「それだよ走」

「え?」

「俺も知りたいんだ、走るってなんなのか。走るってどういうことなのか」

「わからないってことですか」

「答えはまだない。ようやく走り始めたばかりだからな」

 

第6話「裸の王様」

「選ばれた者」である走は、これまで走ることそのものについて考えることや自分に問うことはなかったのだと思います。同時に、これまで走ることを好まない・さほど思い入れがない人々と関わりあう機会も少なかったのでしょう。問いかけというスタートに立ち、ようやく走の世界が拡張をはじめます。

さて、6話において、自分には自分の人生があるとかたくなな姿勢を崩そうとしないキングに対して清瀬が「おまえは俺たちのためにいる」「俺もおまえたちのためにいる」と言いますが、思い返せば3話でユキともよく似たやり取りをしているんですよね。ユキもキングも自分は清瀬の勝手な夢のためにいるわけではないと反発しますが、ユキに対しては「確かに」とあっさり引き下がる清瀬は、キングには自分だってみんなのためにいるのだと言う。3話の部分でも書きましたが、これが現時点での清瀬とユキとキングの関係性の差なんですよね。そしてそんなキングが、1年を経て「もうおまえ一人の夢じゃねえんだ。俺たちの夢なんだ」と思うようになるという……!
中学生の頃は大学生ははるか大人で、遠い存在だったけれど、年齢を通り越した今になるとキングの人間らしさが一番胸に迫るんですよね。選ばれたい、認めてほしい、でも踏み込まれるのはこわい。そういう部分は、多かれ少なかれ、きっと誰にでもあるのだと思います。
身体能力でも芸術性でも、あるいは人間性においても、才能というものが明確に存在する以上、絶対にそこに差は生まれます。突出した才能という意味における「選ばれた者」なんてこの世にほんの一握りしかいない。それではそんな少数の人間しか夢を抱くことも目指すことも許されないのかといえば、清瀬が言ったように、決してそんなことはない。
9人のなかで最初に箱根を目指すことを宣言した神童もまた、走のような「選ばれた者」ではありません。でも、彼は他人にやらされるのではなく、自分の意志でやると決め、その目標のためにどんどん行動を起こしていきます。明らかな才能や特定の競技・分野との運命的な出会いを持たない人々とは、言い換えればほとんどの、どこにでもいる普通の人々です。そんな私たちにとって、強い思い入れや感情は、ときに渦中に飛び込んでみてはじめて生まれる実感です。
私の感想文なので唐突に私の話をしますが、運動神経皆無のくせに大学では体育会系の部活をやっていました。その競技がとても好きだったわけでもなく、単に新歓期によくしてもらったという理由だけであっさり入部し、練習に追われるうちにいつの間にか4年生になって引退して、そして卒業してしまった。体力も技術もセンスもなくて、大会で特別輝かしい成績を残したわけでもないし、本当に部活ばかりで終わってしまった大学生活だったけれど、あの3年半は私の人生に絶対に必要なものだった。
だから、今だからこそ、神童の言葉がこんなにも刺さる。 

「好きだから本気になるんじゃなくて、本気になってみたら、もしかしたら」

 

第6話「裸の王様」

やる前にはわからなくても、やってみたらわかることがある。それほど思い入れはなかったはずが、自分にとってかけがえのないものになることがある。それは、数年前の私には字面でしかわからないことでした。
「あなたには無限の選択肢がある」とキャッチコピーは謳うけれど、無限の選択肢とは自分が希望する通りに物事が進むということではない。世の中には選ばれた者と選ばれざる者がいて、選択肢は本当は無限ではない。それは真理であるけれど、代わりに、その中で自分が何を選び、どうありたいかを決めることはできる。「無限の選択肢」は虚構かもしれないけれど、持てる選択肢の中から自分の意志で選び、決めることはできる。

誰の姿に何を見出すかは受け取り手によって異なるし、前は気づかなかったことに、時間が経ってから思い至ることもあるかもしれません。彼らはそれぞれ、自分の意志で前を向き、走り始めます。その姿に、私たちはそれぞれ何かを感じ、受けとるのです。

 

 

ここまでの字数をカウントしたら8700字くらいでした。まだ13話の話も葉菜子の話もユキの話も清瀬と走の話もしていない……一体何字になるんだ……。

感じたことや考えたことを出力しきるぞという気持ちで書いているのでとても気力と時間がかかるのですが、めちゃくちゃ楽しい。大好きだから妥協せずに最後まで走り抜けたいです。それではこのあたりで。今回は以上です!

 

追記:中編はこちら。

 

運命の必要条件

「やはり思うだけじゃだめなんだなあ。願いは口に出して言うべきだ。運命は自分で手繰り寄せるしかない」

アニメ『風が強く吹いている』第1話「10人目の男」

 

アニメ「風が強く吹いている」の放送が終わってしまった。最終話である第23話「それは風の中に」はひとつの作品の終わりとして本当に素晴らしく、10年以上「風が強く吹いている」という作品を愛してきた身としてはアニメによる小説へのアンサーに胸がいっぱいになった。

最終話を視聴した翌朝(今朝)に第1話を再び見返したところ「もう一周しつつ感想をまとめようかな」という気持ちが覚悟に変わったため、詳細な感想は後日文にするとして、取り急ぎ、「運命」とは何なのだろうかという話をしたい。

 

なお、本記事はこの関係性がだいすき2019でもあるため、「風が強く吹いている」の内容およびネタバレは含みませんが、風履修勢は大手町のゴールに思いを馳せながら読んでください。まだの方は今からでも間に合うので小説を読むかアニメを見てください。

 

以前、ハッピーエンドの要件とは「自らの意思で選択し、その選択を互いに尊重しあうこと」ではないかという記事を書いた。「相手のことが好き」という感情は必ずしも恋愛関係やフィジカルな性欲とだけ結び付いているわけではなく、様々なバイアスを取り除けば本来は非常に幅の広い感情であり、関係性の向かう先もまた本来は当事者間の意思と選択のみによって決定されるのではないか、というのが主な内容である。

当時は恋愛関係だけが全てではないという主張に重きを置いていたのだが、様々な作品や色々な人の感想、意見に触れて考えるうちに、今では「自分の意思と選択があるかどうか」というシンプルな観点に落ち着いた。物語の展開のための変化ではないか、そのキャラクターや関係性がそうなるべくしてなる整合性があるか。物語の枠外の様々な要因に左右されるのではなく、こういう経過を経てここへ至るのだなあと思えるような物語、キャラクター、関係性が好きだ。結局のところ私は、その物語やキャラクターたちが、何を思い何を選び取り何を選ばず、そして自らの赴く先を決めるのかという部分に一番惹かれるのだと思う。

とある二者、あるいは複数人の関係性を愛する人々にとって、「運命」という言葉は時に大変な重みを持つ。「これは運命だ」と天啓のように脳裏に一閃することもあれば、「あれは運命だった」とゆっくりと染み渡るように思い至ることもある。物語の受け取り手は、物語のなかで提示されたすべてと自分の経験や価値観を総動員して自分だけの解釈をかたちづくる。その結果として彼ら・彼女らの間には確かに「運命」があると、そう思うとき、それは受け取り手本人にとっては確かにひとつの真実である。

 

では、私たちは、何をもってそこに「運命」があると感じ取るのだろう。その前に、「めぐりあわせ」としての運命とは、そもそも何なのか。

「運命で全てが定められているのなら、意思による選択は存在しないのではないか」と考えたことはないだろうか。仮に、ある事象とその結果が人間の意志にかかわりないところであらかじめ定められているとするなら、その結果にならないよう手を尽くして別の結果へと至ったとき、抗うこと、その先の異なる結果も実は最初から定められていたのではないか。自分の意思で運命に抗ったつもりでも、その抵抗ももとより運命によって決められているのなら、自分が考え選択した行動、ひいては自分の意思とはどこにも存在しないことになってしまうのではないか。

この問答を突き詰めるとそもそも自分の意識以外のものは実在するのかという問いにまで到達してしまうので早々に切り上げるが、ここで着目したいのは、運命とは与えられるものなのか、あるいは選び取るものなのか、ということである。受動的か能動的かと表現することもできるだろう。あらかじめ定められ与えられるものとして考えるなら、それは受け入れるべきものであるし、自分の意思で選び取るものとして考えるなら、そのためには自分の求める結果に向かって進んでいくべきである。前者は「結果を受け入れることで前進する」、後者は「前進した結果を受け入れる」と表すことができる。これらはコインの裏表のような捉え方であり、結局のところ、どう捉えるかという角度の違いでしかないのだ。

「めぐりあわせ」としての運命それ自体は、おそらく中立的なものだ。良いめぐりあわせならそのまま受け入れ、悪いめぐりあわせなら変えたいと抗うのは個人の恣意的な捉え方にすぎない。きっと、良いめぐりあわせ・悪いめぐりあわせというように最初から分類されているものではないし、自分の人生のどの部分を切り取って運命とみなすかは考え方次第である。

 

「めぐりあわせ」としての運命そのものについて考えたところで、次に関係性における「運命」へと目を向けたい。読者・視聴者が作品から読み取る関係性に様々な運命を見出すとき、そこには何があるのか。私たちは、なぜそういう関係性に惹かれるのか。

誰しも、そのときどきによって悩んでいることや突き詰めて考えていること、探しているものや追い求めるものを抱えながら生きている。それらは人によって異なり、ある人にとっては些末なものが別の誰かにとってはこれ以上ないほどに重大だったりする。人によってあまりにも違うために完全に凹凸がはまることは滅多になく、その代わりに、完全には理解しきることはできなくても最大公約数のような理解のもとで共感したり、理解しようと歩み寄ることはできる。

ほとんどの人にとって、人生とはきっとそういうものなのだろう。相手と上手くはまる部分とはまらない部分があって、そのうえでなんとか相手のことを知ろうとしながら生きている。それでも稀に、歯車が完全に噛み合うことがある。自分が求めていたまさにそのものを相手が持っているとき、自分の人生に相手が完全に溶け込んでいるとき。そしてそれに気づいたとき、強烈な引力が発生する。「運命」とは、きっとそういうことだ。

前述の通り「めぐりあわせ」はニュートラルな出来事であり、良い・悪いという基準は存在しないが、一方で気づくか気づかないか、認識するかしないかという基準は確実に存在する。気づくこと、認識することとは言葉にすることであり、言葉にすることとはかたちを取ることである。認識されないものは「ない」ままに通り過ぎていく。ある事象、ある因果関係は、認識されなければそもそも「めぐりあわせ」としての運命になる前提にすら立てない。

気づくこと、認識することではじめて運命は運命としてのかたちをなすのなら、その意味において、運命とはただ与えられるものではない。意思による選択、その結果を認識することで、ただ過ぎ去っていくはずだっためぐりあわせは、「運命」になるのだ。

 

フィクション・ノンフィクション問わず、小説や漫画、アニメ、映画、舞台等、様々な作品を通じて、私たちは自分以外の人生を垣間見る。全ての人にわかりやすくドラマティックな事象や出会いがあるわけとは限らないし、人はどうしたって自分の意識に基づいてしか認識や経験という実感を得られない。だから、作品を通じて他者の人生や経験を想像することで、自分だけでは知ることのできない世界の一端に触れようとする。そうしてはじめて触れるものは、様々な体験や感情をもたらし、想像という余白を拡張して自分の人生を豊かにしてくれる。

私たちが現実に生きていくうえで、ぴったりと合致する存在に出会うことは本当に稀だ。だからこそ、めぐりあわせが「運命」へと変わる瞬間や、互いに強烈な引力で引き合う関係性は、私たちを惹き付けてやまないのだろう。そしてその関係性に「運命」があるからといって、両者がずっと物理的に共に過ごしていくかというとそうとは限らない。ある部分では完全にぴったりと当てはまったからといって他の部分は当てはまらないことはなんら不思議なことではないし、行く先が別たれたとしてもお互いの歯車が完全に噛み合った事実は消えない。両者がそれぞれ自分の意思で答えを出し、双方の選択を互いに尊重することがハッピーエンドの必要条件であるように、そこにある、そこにあった「運命」は各々の中に残り続ける。物語の中の彼ら・彼女らも、物語と受け取り手も、もう出会っているのだ。

 

最後に、これは個人的な意見であるが、私は運命とは誰かに与えられるものではなく、選び取るものであると考えているタイプだ。こうありたいと願い行動することではじめて開かれる道があると思うことは希望だし、性格的に向いている。そして不思議なことに、素敵な作品体験をもたらしてくれる作品に対して「ほかでもないいま、出会うべき作品だった」と感じることが多い。私のいまは、私が出会い受け取ってきたすべてによって成り立っていると、そう思う。物語のなかで鮮烈に描かれるような「運命」は稀ながら、自分の人生をかたちづくる様々な運命は、意外と身近に溢れているのかもしれない。この記事を書くに至った一番最初のきっかけといえる小説「風が強く吹いている」を読んだのも、勇気を出して先送りせずにいまアニメを見ると決めたことも、きっと運命だった。

 

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